橙色に染まる教室。

 17時。教室で、ひとり読書。


 別に、読みたい本ではない。本はただのカモフラージュ。私は本を読むフリをして、誰かを待っているのだ。けど、待ち合わせをしているわけではない。いつも17時頃になると、この辺の見回りにくるあの人を待っている。いや、待っているというより、待ち伏せしているというのが正解かな?
 
 すると。

「まだ残ってるんですか、相原さん」

 ───ガラッと、教室の入り口の扉が開く音がして、その方を振り向いた。そこには、疲れた顔をした桧山先生が立っていた。先生のノンフレーム眼鏡が、夕焼け色に染まっていた。

「お疲れ様です」
「読書するのはいいですけど、時間になったらちゃんと帰ってくださいね」
「はい」

 やり取りはそれだけ。特に、話が盛り上がるわけでもない。
 けど、私はそれだけで幸せで。桧山先生とちょっと話できるだけで嬉しくて。

 ────少し前までは、それだけでよかったのに。少し話ができるだけで、嬉しかった……のに。今では、毎日のように行っている、数秒ほどのやり取りだけでは物足りなくなってきて。
 欲が……でてきて。

 先生に私の想いを──……先生への恋心を伝えたくなってきて。

「せっ……先生!」

 私は席を立ち、廊下の方に振り向いた先生の背中に、言った。

「なんですか?」

 くるりと、私の方に向き返り、先生は眼鏡の両端をくいっと、親指と中指で上げた。きらり、と先生の眼鏡が微かに夕焼け色に光った。

「あの……わたし……その、先生、キスしたいです!」

 !?

 自分でも今なんて言ったのか、一瞬よく分からなかった。『私、先生のことが好きです』そう言いたかったのに、私の唇は全く違うことを発音した。

「キス……ですか?」
「ちが……その……」

 恥ずかしすぎて、頭の中がパニックする。パニックして、言葉がうまく出てこない。舌がうまく回らない。

 なにも、告白するより恥ずかしいことを言わなくてもいいのに、私!ああ、恥ずかしい。ああ、死にたい……

 若干半泣き気味で、そんなことを思っていると。

「……いいですよ、別に」
「気持ち悪いこと言ってすみません──……えっ?」

 先生はそう言うと。


 ─────ガラガラ……カチャッ。


 教室に入ってきて入り口の扉を閉め、鍵を掛けた。

「えっ……先生?」

 乾いた教室に、先生のスリッパ音が響く。その音が先生が、だんだん私の傍に近づいてくる。


 そして。


 ──────ギッ……


 先生は、私の席に片手を凭れさせながら、私の顔の傍に顔を近づけた。すぐ目の前に、先生の顔。ドキドキして、息苦しくなる。窒息、しそう。

 先生の吐息が、私の唇に触れる。ミントの香りが、する。

「柊さんは、キスはまだ……ですかね?」

 先生の吐息が、私の唇に触れる。唇が触れてるわけじゃないのに、キス……してるみたいで。

「……いえ、まだしたことないです。といいますか、恋人もまだ……できたことなくて」

 ふぅん……と目を細め、先生は口角を微かに上げた。

「なっ、なんですか?もしかして馬鹿にしてますか?」

 なんだか少し馬鹿にされたような気がして、私は先生にそう言った。

「まさか……馬鹿になんてしませんよ。でしたら、丁度良いかもしれませんね」
「……?どういうことです……か───」


 先生にそう言った、瞬間。


「……んっ」
「……」


 何か、あたたかくて湿ったものが、私の唇を塞いだ。

 先生の顔が、さっきより……近い。

 ミントの香りの吐息じゃない……先生の唇だ。



 今私は、先生とキス……してる─────



 ちゅぷんっ……と、湿った音をたてながら、先生は私の唇から離れた。

「あ……の……?」

 あたまが、まっしろだ。

「……キスしてる時、息……止めてたでしょう?息止めてると苦しくなるから、息は止めずに」
「は……い……?」
「では、もう一度キスしますので、次は自然に息するように……」
「へ?ちょっ、まっ……!ください」

 先生の両肩を掴んで動きを止めたけど、ちょん、と先生の唇が私の唇に当たった。

「……なんですか?」
「や、あの……つい『キスしたい』って言っちゃいましたが違くて。その、私……先生のことが……好きです」

 言った。先生に好きって言った。ぶわわっと全身が熱くなる。きっと、顔も耳も真っ赤になってると思う。すると。

「……なんだ、そう言うことですか。貴女が私に好意を持っているのは、もう知ってますよ」
「へぇ?!」

 先生は表情を微動だにせず、私を見つめながらそう言った。私はというと、驚いて変な声を出してしまった。

「それで?」
「え?」
「キスの件は……どうします?やめます?それともそのまま……続けますか?」
「えっ?あの……」

 ぶわっ……と、私のすぐ傍の白いレースのカーテンが、窓から入ってきた突風で持ち上げられ、私と先生の間で揺れた。それでも先生は微動だにせず、じっと私を見つめていた……まっすぐに。

 私は───

「は……い、そのまま続けて下さい。先生とキス……したいです」
「……わかりました。では──」

 そう言うと先生は、そっ……と、私の唇に唇を重ねた。

「んっ……」
「……」

 ちゅっ……と、先生は唇を離すと、また私の唇に唇を重ねた……けど、今度はさっきのキスとは違う。私の口の中に、濡れたあったかいものが……侵入してきた。

「ん……ふっ……」

 さっきより苦しいキス。けど、さっきより気持ちよくて高揚する……キス。

「せ……んせ……」

 はあはあと息が上がる。全身が心臓のようにばっくばっく揺れ、沸騰したように熱くなる。頭が……ぼーっとする。

 先生の両肩に乗せてた手が、ずるりと先生の胸に落ちる。先生の表情はさっきからほとんど変化がない……けど、先生の心臓もばっくばっくと跳ねていた。

「……先生、ドキドキしてる」
「当たり前ですよ、こんなところ見られたら……大変ですからね」

 そう言いながら先生は、しゅるっ……と、私のリボンをほどいた。

「先生あの……」
「……キスは唇だけじゃないですからね。因みに私は、貴女のことが────……」

 先生は眼鏡に夕焼け色の教室を微かに映しながら、告白の返事を……私の口の中に流し込むようにしてキスした……