わたしの気持ちが、少し落ち着いて。
彼の心臓の鼓動が、ほんの少し聞こえるくらいまで。
海原君は、『そのまま』でいてくれた。
彼から離れて、しまったら。
もう二度と、この熱に触れることはないのだろう。
でもその選択をするのは、わたしだ。
そうしないと、失恋の幕を下ろせない。
だから海原君は、わたしの願いどおり。
……『そのまま』で、待ってくれているのだろう。
ゆっくりと、顔を上げながら。
彼の体温が離れていくのを、感じながら。
そして、再び涙を流しながら。
……わたしは彼から、離れていこう。
涙を拭って、必死になって。
わたしは大好きだった彼を、まっすぐ見て。
そのうしろに見えるであろう、大きくて青い空の美しさに負けないように。
「最高の失恋の思い出が残りました。ありがとう」
笑顔で一度、そう伝えてから。
お辞儀をして、再び瞳にたまった涙を。
きっちりと、床にすべて落とせばいい。
それから、そのあとは。
笑顔だけを、ずっと。
海原君に、見せて終わればいい。
そう決心したつもりの、わたしは。
なにもいわずに、待ってくれている海原君に。
ようやく向き合える気がして、ゆっくりと頭を上げて。
どうにかして、笑顔で。
無理してでも、彼を見つめようとした。
はず、だったのに……。
わたしの意地の作り笑顔は、一瞬にしてはがれ落ちて。
……本当に、笑ってしまった。
「うわぁ。なにそれ……?」
思わず、わたしが声に出してしまうのほど。
彼のシャツは、あちこちが濡れていて……。
それで海原君は、固まっていた。
「ごめんね、涙でいっぱいで……」
「い、いえ……」
「えっ? でもこれ……もしかしてわたしの、オデコの汗?」
「ええっ……」
「じゃあこっちは……。キャァ〜。鼻水かも!」
「う、ウソですよね……。そこが、一番冷たいんですけど……」
もう!
妙にリアルな感想とか、このタイミングで口にしないでよ。
「ちょっと! 女子高生の涙と鼻水なんて、無料なのはいまだけだよ!」
「え、ええっ……」
「それだけ泣かせた、海原君のせいだからね!」
テンションの壊れたわたしは、もう一度笑ってしまって。
それから、完全に乾くまではここから動かないと。
勝手に宣言してから、また笑ってしまった。
「……ねぇ。帰ったら、ちゃんと漂白剤につけてから洗ってよ?」
「帰るって……。まだ随分先ですよ。それまで、このままなんて……」
「だって、仕方ないよ」
「いや、でも。鼻水ですよ!」
「ちょっと、なんかすごく失礼じゃない?」
「えぇっ……そんなぁ……」
情けないくらい、困り果てた顔の彼を見て。
ふとわたしは、どうして海原君に恋したのか考えた。
でも、その前に……。
きちんとしておかなければ、ならないことがある。
「……ねぇ、海原君?」
真面目な声のわたしに、彼は一瞬戸惑ったような顔になる。
「月子に、わたしから謝っておくね」
ところが、なにか予想とは違った話しだったのか。
「あぁ、『それ』ですか」
少し、ホッとした声を出した海原君は。
意外に、はっきりとした口調で。
「それはダメです。僕がご案内したので、怒られてもちゃんと理由を説明します」
わたしに、そう告げた。
ちょうどそのとき、気持ち強めの風が流れて。
わたしの前髪を、軽く斜めに流してくれたので。
おかげで、『視界』がなんだか。
……広く、なった気がした。
……たぶん、わたしが恋した理由は。
『そういうところ』とか、なんだろう。
海原君は、きちんと月子のことも。
わたしのことも、考えてくれている。
だから自分の言葉で、どれだけ怒られようが説明する。
決して人のせいには、しないんだ。
まぁ、その妙な使命感は。
恋愛感情的には、ちょっと複雑なのだけれど。
でもわたしは、やっぱり。
海原昴が、大好きだ。
……って、あれ?
これじゃ、もしかして。
わたし、まだ諦めてないってこと?
「……都木先輩? どうかしました?」
ちょ、ちょっと海原君!
こういうときだけ、わたしの表情に気づくのやめてくれない?
照れ隠しに、わたしは。
「『振られた』直後に、聞かされるのもなんだかさぁ〜」
いまは月子のことを、これ以上考えるなと。
わたしがいい出したのに、矛盾したことを。
伝えようと、したのだけれど。
「あの……。それでですね、都木先輩……」
珍しく、海原君が照れくさそうな顔でわたしを見てきて。
「ん? なぁに?」
「だいぶ話しを、戻すことになるんですけれど。あの、僕は……」
……えっ?
この展開、確か前にも……。
「ちょ、ちょっと待って、海原君!」
れ、れ、冷静になろう。
わ、わたし。
ここになにしにきたの?
失恋したんだよね、わたし。
……でも。
なにがあって、失恋したことになってるの?
わたし、なにかいった?
それとも、わたし。
なにか、確かなことでも。きちんと、聞いた?
……屋上に、連れてきてもらって。
「思い出の場所なんだね」
そこまでは、事実なのだけれど。
「確かななにかを、残したかったんです」
海原君は、そういって。
「だから、僕は……」
なにかを、説明しようとしてくれたのに。
「もう、いやっ!」
ま、また……。
わたしが妄想して、暴走して。
ひとりで『勝手』に、失恋したことにしたってこと……?
「……か、乾いたから戻ろうか?」
「えっ?」
ま、またわたしは……。
今回も、盛大に一人芝居をしてしまったようだ。
……ただ、今回。
少しだけ、違ったことがあって。
「も、戻るんですか?」
「えっ? じゃぁ。な、なにか『ハッキリ』と。わたしに伝えたいことがある?」
そう質問した時の、海原君のその顔は……。
……なにか、あるんだ。
それだけは、わかった。
……どうしよう。
いままでわたしは、海原君の気持ちを聞いてこなかった。
一方的に、好きだといって。
一方的に、告白して。
きょうも一方的に失恋したつもりで、泣いただけだ。
恋に落ちた。
告白した。
そしてようやく、気づいて、しまった。
でも、どうしよう。
……気づいただけで、終われるの?
「か、帰るよっ!」
「え?」
「ま、また話そう。ね?」
……それで、いいんですか?
明らかに、そんな顔をしている海原君に。
口には出さないけれど、教えてあげる。
君のその顔、少なくともわたしのこと。
いますぐ『終わり』にするつもりなんて、ないよね。
というより、海原君。
……わたしのこと、実はちょっと。
好き、なんじゃない?
だだ、どんな好きかはまだ聞かない。
うん、それできょうは十分だよ!
……懐中電灯代わりの、スマホのライトが。
屋上からの帰りも、役に立った。
「ねぇ海原君。屋上と非常階段のあいだが真っ暗なんて、おかしくない?」
「そもそも、避難が前提じゃないんじゃないですか?」
「えっと、どうしてそう思うの?」
「だっていつも、真っ暗で見えないんですよねぇ……」
「えっ?」
「……はい?」
そういえば、月子も海原君も。
スマホ、持ってないよね……。
じゃぁ、いったいどうやって。
この暗い中をふたりで、一緒に進んだの……?
……う〜ん。
妬けそうだから、考えるのをやめよう。
それにさぁ、海原君!
なんか守るべき一線とか、ちゃんとあるクセに。
女の子には、最後まで気を抜いちゃダメだよ!
……重たい扉を、ゆっくりと閉めて。
鍵を確認している、彼のうしろ姿が。
たまらなく、愛おしかった。
高校生活最後の、文化祭。
わたしのために、海原君は。
大きな空を、用意してくれた。
……そうか、そんな『確か』なものを。
わたしたちは、共有できたんだ。
……本当に、ステキな時間を。
わたしのために、ありがとう。
「……ねぇ海原君、知ってる?」
早く。
早く、ふりかえってよ!
このとき、わたしは。
これまでで、絶対に一番だと自信を持てる。
最高の笑顔で、彼を見た。
「女の子って、特別が大好きなの。だから、ありがとう!」
そして、そのとき。
海原君の、その顔が。
……いままで一番赤くなったと、確信した。
「わたし、講堂に戻るね」
だから、海原君は……。
覚悟を決めて、月子に怒られてきて。
「し、失礼します……」
そう答えながら、まだ少し顔の赤い。
彼を見たときの、わたしの本音を教えよう。
……恋するだけでは、終われない。
それから、もうひとつ。
もう、この先。
絶対に。
気づいただけでは、終わらない!


