……三藤(みふじ)先輩と交代のために、メインテントに戻ると。
海原(うなはら)くん、やっぱりお昼は食べなかったのね」
 僕が説明するよりも早く、先輩がそういった。

 どうしていつも、伝える前から色々わかるのだろう?
 そんな疑問を考える僕をよそに。
「お腹すいた〜。じゃ、お願いします!」
 高嶺(たかね)が元気よく、玲香(れいか)ちゃんとハイタッチしながら交代する。

「ふたりとも、歯磨きは済んだようね」
 僕たちふたりがギクリとした顔をしながら、三藤先輩の顔を見る。
「なにかしら?」
「あ、ううん、別に……」
「玲香さん、やましいことでも?」
「あ、そういうわけじゃないよ……」
「例のパンの臭いがしないので、いっただけよ? わたしもこの拷問のような状況から早く解放されたいので、失礼するわ」
「ど、どうぞ……。ごゆっくり……」

「……ただの、社交辞令みたいなものかな?」
 三藤先輩の姿が見えなくなってから、玲香ちゃんがヒソヒソ声で聞いてくる。
「いまのはたぶん、そういうことだった気がします」
 玲香ちゃんと僕は、とりあえずそれで納得しておくことにした。
 するといまさらだけど……。
 お腹が、空いてきた。


 ……あのふたり、なにをそんなに警戒していたの?
 ただ、歯磨きしただけでしょ?
 その割に、変なようすだったわね。
 それはともかく、早くわたしも歯磨きにいきたい。
 わたしは、それを教室に置いてきたことを少し後悔しながら。
 玄関ホールで靴を履き替え、階段を登りはじめる。

「あら、陽子(ようこ)?」
「あっ! つ、月子(つきこ)……」
 いつもとうようすが違う陽子に、声をかけるべきか少し迷った。
「歯磨き、教室に取りにいく途中なのだけれど……」
「えっ! 歯磨き! あ……。そうなんだ……」
 どうして歯磨きに、そんなにあなた『も』反応するの?
「ちょ、ちょっと急いでるので……。ごめんね!」
 なぜだか、よくわからないけれど。
 まるで陽子は、わたしから逃げるように消えていった。


 三階中央の水飲み場にいくと、歯磨きを中の姫妃(きき)と出会う。
「もう、あの臭いが残ってて三回目〜」
 歯磨きの回数を、笑顔でいわれるのも変だけど。
 彼女の反応は、特に変わらない。
 そうよね、だって歯磨きするだけだもの。

 教室から歯磨きセットを持って戻ると、まだ姫妃は歯を磨いている。
「なんかいつもと違う手だから、やたら時間がかかっちゃう〜」
 本当はきょう、病院にいけばギプスを外せるはずなのに。
 彼女はわたしたちの手伝いを選んで、体育祭に参加している。

「そういえば、さっき玲香が男子と並んでここで歯磨きしてたんだって」
「えっ?」
「でもそれって、海原君でしょ?」
「他には、いないわよね……」

 そうか、そんなことがあったんだ。
 体操着の袖の色と上履きの色は、学年ごとに違っている。
 だから、玲香が『後輩』と『三階で』並んで歯磨きしていたから。
 きっと話題に、なったんだろう。

「歯磨きしていただけで、騒ぐことはないわ」
「……ほんとに、思ってる?」
「さすがのわたしでも。その程度なら、気にしませんけど」
 目の前で見たら、もう少しなにか思うのかもしれない。
 だけど、聞くだけなら平気。
 むしろ、状況は理解できる。

「放送室で、お昼を食べる気にならなくて。とりあえず一階で海原くんの歯磨きセット、それから非常階段を登って玲香のを取って。近くのここで、歯磨きしただけじゃないの。だからテントに戻ってくるのも、随分と早かったわ。それがどうかしたのかしら?」
 そう、こうやって。
 いまのわたしには、手に取るようにわかる。

「……なんか月子、ちょっと強くなった?」
「なんのことかしら?」
「べ・つ・にぃ〜」

 ただ、あとでふたりに嫌味くらいはいっておこう。
 あちこちで妙な話題を振らないでほしいのは、本当なのだから。


「……そういえば」
「どうかした? 月子?」

 そうか。もしかして……。
 陽子は、あのふたりをここで『直接』見たのかもしれない。

 でも、どうしてそれで動揺するの?
 陽子。あなたは『姉』なのよね?


「……今後わたしは、(すばる)の『姉』になります」
 夏休みの合宿で、そう宣言したのは陽子だ。
「えっと……。留学を辞めて、その影響でなにかが吹っ切れたからかな?」
 あのあと美也(みや)ちゃんは、困ったような顔をしながら、わたしにそういった。

 美也ちゃんは、教えてくれたあとで……。
 ……えっ?
 そういえば、美也ちゃんは。
 お祭りのときに、海原くんに『告白』した。

 わたしの頭の中で、これまでの出来事がぐるぐると回転している。
 その、過程で。
 偶然隣の姫妃が、目に入る。
 そういえば、彼女も海原くんのことを……。


「……もしかして」

「月子、ど・う・し・た・の?」
「陽子って……」
「んっ?」
「『好き』だったの?」


 姫妃が隣で、大袈裟にため息をついた。
「や・っ・と! わかったのかぁ〜」
「えっ?」
「ねぇ、月子……」
 流したままだった、水をとめて。
 姫妃がわたしの目の前まで、顔を近づけてくる。

「わかっていないのって。月子と、あの鈍感君だけだって知ってる?」
「う、うそっ……。じゃぁ姫妃も?」

 彼女はもう一度、ため息をつく。
「あのねぇ。新参者のわたしだってわかるくらい、わかりやすいんですけどぉー」


「ちっとも、知らなかったわ……」
 正直、落ち込んだ。
 陽子は、親友なのに。
 その気持ちに、気づいてあげられなかった……。

 するとまたしても。
 いや、三度目の。ため息が聞こえた。
「……あ・の・ねぇ月子。ちゃんと聞いてね」
「はい……」

「あなたはそのままで、い・い・の!」
「……ごめんなさい、いまいち、よくわからない」
「だ・か・ら、それが月子な・の!」




 ……四度目の、ため息は。
 さすがに気の毒だと思って、やめてあげる。
 まったく……。
 なんていうか。
 月子、あなたは『無敵』だよ。

 最大のキーパーソンはね、三藤月子。
 あなたなの。
 あなたが、もし。
 自分の気持ちを正しく自覚して、動き出したら。
 正直、みんな困っちゃうよ……。

 だからあなたが、陽子ちゃんの気持ちを理解しなくても。
 そんなの、誰も責めないよ。


 女の子に、鈍い男子と。
 女心に、鈍い女子。
 そんなふたりが、いてくれるからこそ。

 ……恋するだけでは、終われない。


 それにね、わたしたちは。
 まだ付き合おうとまで、伝えきれていないから。

 ……告白したって、終われない。
 

 月子は、ようやく彼に恋した先輩や同級生たちに気づいたよね?
 じゃぁ、これからどうする?
 そろそろ、月子もね。

 ……気づいただけでは、終われない


 そんな気持ちが、芽生えるのかもね。
 でも、でもわたし。



「……海原君のこと、諦めていないから」



「ねぇ姫妃、いまの言葉。よく聞こえなかったのだけれど……」
「そうだね、聞こえないようにつぶやいた」
「えっ?」
 ……だってそれで、あなたの心に火がついたら困るもの。

「月子は月子のペースで、進めばいいよ」
「どういうこと?」
「だって、それがあなたの魅力でしょ?」
 不思議そうな顔をする、『戦友』にわたしは。
「鈍い女がひとりくらいいたほうが、世の中うまくいくもんだよ」
 恋の先輩として、全部教えるつもりはないと暗に告げた。

「ねぇ、姫妃」
「な・あ・に?」
「さっきそんなこと、いってなかった気がするわ。それに、なんだか……」
 女心には、鈍いクセに。
 もう……。プライドは高いんだから……。
「随分と、失礼なことをいっていないかしら?」

「それくらいいいでしょ? わたし、性格悪いし」
「そんなのは、とうの昔に知っているわ。だからといって、わたしが『鈍い』だなんて、どういうことかしら?」
「その言葉どおり、だけど?」
「説明に、なっていないわよ」
「し・ら・な・いっ!」
「ちょ、ちょっと!ちゃんとわかるようにいいなさい!」
「い・や・で・す〜」


 ……ちょうど、そのとき。
 水飲み場に、大きな声が響いた。

「ふたりとも、長い歯磨きだと思ってたら! 遊んでないでください!」
「えっ?」
「あら……」」
 それから、わたしたちふたりは。
 お腹を空かせた由衣(ゆい)に、怒られた。


 でも正直わたしは、助かった。
 だって、話しているうちにふと陽子のことが頭をよぎって。
 『まだ』なのか、『やっぱり』なのか。
 陽子の恋には、続きがある予感がしてきたから。

 ただでさえ、美也ちゃんという強敵がいるのに。
 そんなときに、わたしは。
 ……月子にまで、対応できないよ。



 ……解放された廊下の窓から、校庭の大きな声援がこだまする。
「とりあえず、戻るわよ」
「そうですよ、早く食べますよ」
「わたしも、一緒にた・べ・る!」

 こうして、体育祭が進む中。
 わたしたちは、わたしたちのペースで。
 親友同士の、時間を過ごしていた。