夜中の薄暗いバーのカウンター。
俺はメニューをじっと見つめながら、何を頼もうかと迷っていた。
普段はあまり人が来ないこの店で、ドアのベルが静かに鳴った。
ここ、あんまり知られてないのに――そんな時間に誰かが来るなんて珍しい。
なんとなくそんなことを思いながら、グラス越しにちらりと視線を向ける。
すぐ隣に、誰かが座る気配がした。
視線を上げたその瞬間、思わず息が止まる。
大人びた雰囲気に変わっていたけれど、見間違えるはずがなかった。
面影が、しっかり残っている。懐かしい、あの顔だった。
俺がまだ注文を決めかねていると、彼女の声が耳に入ってくる。
「ジントニック、いただけますか」
少し低めで落ち着いた声。変わったようで、どこかそのままだった。
思わず口が動いていた。彼女に気づいてほしかったのかもしれない。
「じゃあ、俺も同じので」
彼女がこちらを振り向く気配。
その目がぱっと見開かれ、驚きの色があらわになる。
心臓が、早鐘を打つ。
熱が頬に広がっていくのが、自分でもわかった。
彼女はすぐには言葉を返せず、少しだけ間を置いてから、ぽつりと――
「えっ……」
その声に、俺はできるだけ自然な調子で返した。
「……久しぶりやな」
カウンターの奥で様子を見ていたマスターが、穏やかに声をかけてくる。
「お知り合いですか?」
俺は小さく頷いた。
「…久しぶり、びっくりした」
彼女はぎこちなく返してくれた。
マスターに促され、奥の静かな席へと案内される。
歩きながら、ふと彼女の手に目が止まった。
細く華奢な指には、さりげなく指輪がはめられている。
その指先は丁寧に彩られていて、昔とは違う、大人の女性の印象を強く感じた。
彼女の顔は、今まで見たことのない洗練された魅力を纏っていた。
「ほんと、久しぶりだね」
席につくと、少し照れくさそうに彼女が笑った。
話し始めると、時間が一気に埋まっていく気がした。
「この10年、どうやって過ごしてたん?」
俺の問いに、彼女は少し考えてから答えた。
「仕事が忙しくて、なかなか遊べなかったけど、充実はしてたかな。そっちは?」
「俺は、まあ、ぼちぼちやな。変わらんやろ?」
二人とも照れ笑いを浮かべながら、近況を少しずつ話し合った。
時折、彼女の笑顔が目に映って、胸がじんわり熱くなる。
酒が少しずつ回ってきて、空気が柔らかくなるのを感じた。
「昔話も少ししよか」
俺がそう言うと、彼女も頷いた。
「そうだね、懐かしい話、たくさんあるね」
言葉少なめに笑い合いながら、10年分の距離が少しずつ溶けていった。
視線が時折交わり、その度に胸がざわついた。
夜も更けて、二人とも酔いが回ってふわふわとした感覚に包まれる。
向かい合う彼女のグラスは、もう酒は空になっていて、氷が解けた水が少しだけ溜まっている。
俺は少し眠くなってきて、自然と机にもたれかかるように体を預けた。
そんなとき、彼女のグラスの水滴がふと目に入った。
指先でそっとグラスの水滴をなぞる。
ひんやりとした感触が伝わってくると、どこか悪戯心が湧いてきて、わざと少しだけ指を伸ばし、彼女の細い指先に触れた。
触れた瞬間、彼女の指先は驚くほど温かくて、胸がざわついた。
彼女は一瞬動きを止めて、俺の手をじっと見つめる。
その視線に応えるように、俺は少しだけにやりと笑った。
「冷たいやろ?」
少しだけ挑発的に、でも愛おしさを込めて囁いた。
彼女は顔をうっすら赤らめて、お酒で少し緩んだ表情で、微笑みながら言った。
「なんで、わざと触るん……?」
俺は肩をすくめて、柔らかく答えた。
「ちょっと、触りたくなってな」
酔いが回って、いつもより理性が緩んでいる。
触れたままの彼女の指先を、そっとつまんで、グラスから離す。
そのまま彼女の手に指を絡めて、優しく握りしめた。
指の間から伝わる彼女の柔らかさに、俺の胸はまたざわついた。
彼女は驚いたように目を見開き、しばらく固まったままだったけど、やがて小さく息を吐き、顔がまた赤くなった。
「なに、急に……」
声は小さくて、少しだけ照れ隠しのようだった。
俺は軽く笑いながら、でも真剣に言った。
「なんか、今日は特別に感じてん」
彼女の手を握ったまま、時間がゆっくり流れていく。
まだ――帰したくなかった。
できれば、もう少しだけこの時間を引き延ばしたかった。
マスターを呼んでお会計を頼む。
彼女の手は、握ったまま。
握り返してくることはなかったけど、強く振り払われることもなかった。
「ねえ、もう……」
彼女がそっと手を引こうとする。
でも俺は、そのまま少しだけ力を込めて離さなかった。
「なぁ、ええやん。もうちょっとだけ」
「……ずるい」
彼女はそう呟いて、でも目を合わせようとはしなかった。
顔がほんのり赤く染まっていて、視線はどこか逃げ場を探してる。
「なぁ、俺酔うてるから、いろいろ雑かもしれんけど……」
少し笑って、でもその指は優しく絡め直した。
「まだ繋いでたい」
彼女は小さく息を呑んだ。
その手は、もうさっきよりも力を抜いてた。
会計を済ませると、俺は彼女の手をやさしく引いた。
強くはないけど、はっきりとした意思をこめて。
「行こ。夜、まだ終わってへんで」
彼女はためらいがちに立ち上がった。
もう…って言いたそうな顔してたけど、それでももう手を引こうとはしなかった。
夜の街へ出た瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。
空気は澄んでいて、少し酔いの熱を冷ましてくれる。
「風、気持ちいいな」
俺がそう言うと、彼女は小さく笑って頷いた。
誰もいなくなった静かな通りを、ふたりでゆっくり歩く。
手はつないだまま。
会話は少なかったけど、静けさが心地よかった。
このまま朝まで歩いていてもいいと思えた。
足は気づけば、あの場所に向かっていた。
昔、よく一人でぼんやりしに行ってた小さな高台。
朝になると、街の向こうにきれいな朝日が見える場所。
「ちょっと寄ってええ?」
俺がそう尋ねると、彼女は少し不思議そうな顔をしながら、でも素直に頷いた。
「どこ行くの?」
「秘密基地、みたいなとこ」
いたずらっぽく言ってみせると、彼女はふっと笑って、
「なにそれ、子供みたい」って小声で返した。
でもその声は、さっきより少しだけ近くて、少しだけ柔らかかった。
その言葉に、俺は笑いながら、彼女の手をほんの少しだけ強く握った。
「俺ら、あんま変わってへんかもな」
そう言った俺の声に、彼女はほんの少しだけ笑った。
並んで歩く影が、夜の街にひとつ伸びていく。
足音も、言葉も、すこしずつ静まっていくけど――
繋いだ手だけは、まだあたたかいままだった。
あとどれくらい、この夜が続いてくれるのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、俺はただ、彼女の手を離さなかった。
朝日が昇るそのときまで。
もう少しだけ、ふたりの時間がほどけませんようにと、願いながら。
俺はメニューをじっと見つめながら、何を頼もうかと迷っていた。
普段はあまり人が来ないこの店で、ドアのベルが静かに鳴った。
ここ、あんまり知られてないのに――そんな時間に誰かが来るなんて珍しい。
なんとなくそんなことを思いながら、グラス越しにちらりと視線を向ける。
すぐ隣に、誰かが座る気配がした。
視線を上げたその瞬間、思わず息が止まる。
大人びた雰囲気に変わっていたけれど、見間違えるはずがなかった。
面影が、しっかり残っている。懐かしい、あの顔だった。
俺がまだ注文を決めかねていると、彼女の声が耳に入ってくる。
「ジントニック、いただけますか」
少し低めで落ち着いた声。変わったようで、どこかそのままだった。
思わず口が動いていた。彼女に気づいてほしかったのかもしれない。
「じゃあ、俺も同じので」
彼女がこちらを振り向く気配。
その目がぱっと見開かれ、驚きの色があらわになる。
心臓が、早鐘を打つ。
熱が頬に広がっていくのが、自分でもわかった。
彼女はすぐには言葉を返せず、少しだけ間を置いてから、ぽつりと――
「えっ……」
その声に、俺はできるだけ自然な調子で返した。
「……久しぶりやな」
カウンターの奥で様子を見ていたマスターが、穏やかに声をかけてくる。
「お知り合いですか?」
俺は小さく頷いた。
「…久しぶり、びっくりした」
彼女はぎこちなく返してくれた。
マスターに促され、奥の静かな席へと案内される。
歩きながら、ふと彼女の手に目が止まった。
細く華奢な指には、さりげなく指輪がはめられている。
その指先は丁寧に彩られていて、昔とは違う、大人の女性の印象を強く感じた。
彼女の顔は、今まで見たことのない洗練された魅力を纏っていた。
「ほんと、久しぶりだね」
席につくと、少し照れくさそうに彼女が笑った。
話し始めると、時間が一気に埋まっていく気がした。
「この10年、どうやって過ごしてたん?」
俺の問いに、彼女は少し考えてから答えた。
「仕事が忙しくて、なかなか遊べなかったけど、充実はしてたかな。そっちは?」
「俺は、まあ、ぼちぼちやな。変わらんやろ?」
二人とも照れ笑いを浮かべながら、近況を少しずつ話し合った。
時折、彼女の笑顔が目に映って、胸がじんわり熱くなる。
酒が少しずつ回ってきて、空気が柔らかくなるのを感じた。
「昔話も少ししよか」
俺がそう言うと、彼女も頷いた。
「そうだね、懐かしい話、たくさんあるね」
言葉少なめに笑い合いながら、10年分の距離が少しずつ溶けていった。
視線が時折交わり、その度に胸がざわついた。
夜も更けて、二人とも酔いが回ってふわふわとした感覚に包まれる。
向かい合う彼女のグラスは、もう酒は空になっていて、氷が解けた水が少しだけ溜まっている。
俺は少し眠くなってきて、自然と机にもたれかかるように体を預けた。
そんなとき、彼女のグラスの水滴がふと目に入った。
指先でそっとグラスの水滴をなぞる。
ひんやりとした感触が伝わってくると、どこか悪戯心が湧いてきて、わざと少しだけ指を伸ばし、彼女の細い指先に触れた。
触れた瞬間、彼女の指先は驚くほど温かくて、胸がざわついた。
彼女は一瞬動きを止めて、俺の手をじっと見つめる。
その視線に応えるように、俺は少しだけにやりと笑った。
「冷たいやろ?」
少しだけ挑発的に、でも愛おしさを込めて囁いた。
彼女は顔をうっすら赤らめて、お酒で少し緩んだ表情で、微笑みながら言った。
「なんで、わざと触るん……?」
俺は肩をすくめて、柔らかく答えた。
「ちょっと、触りたくなってな」
酔いが回って、いつもより理性が緩んでいる。
触れたままの彼女の指先を、そっとつまんで、グラスから離す。
そのまま彼女の手に指を絡めて、優しく握りしめた。
指の間から伝わる彼女の柔らかさに、俺の胸はまたざわついた。
彼女は驚いたように目を見開き、しばらく固まったままだったけど、やがて小さく息を吐き、顔がまた赤くなった。
「なに、急に……」
声は小さくて、少しだけ照れ隠しのようだった。
俺は軽く笑いながら、でも真剣に言った。
「なんか、今日は特別に感じてん」
彼女の手を握ったまま、時間がゆっくり流れていく。
まだ――帰したくなかった。
できれば、もう少しだけこの時間を引き延ばしたかった。
マスターを呼んでお会計を頼む。
彼女の手は、握ったまま。
握り返してくることはなかったけど、強く振り払われることもなかった。
「ねえ、もう……」
彼女がそっと手を引こうとする。
でも俺は、そのまま少しだけ力を込めて離さなかった。
「なぁ、ええやん。もうちょっとだけ」
「……ずるい」
彼女はそう呟いて、でも目を合わせようとはしなかった。
顔がほんのり赤く染まっていて、視線はどこか逃げ場を探してる。
「なぁ、俺酔うてるから、いろいろ雑かもしれんけど……」
少し笑って、でもその指は優しく絡め直した。
「まだ繋いでたい」
彼女は小さく息を呑んだ。
その手は、もうさっきよりも力を抜いてた。
会計を済ませると、俺は彼女の手をやさしく引いた。
強くはないけど、はっきりとした意思をこめて。
「行こ。夜、まだ終わってへんで」
彼女はためらいがちに立ち上がった。
もう…って言いたそうな顔してたけど、それでももう手を引こうとはしなかった。
夜の街へ出た瞬間、ひんやりとした風が頬を撫でた。
空気は澄んでいて、少し酔いの熱を冷ましてくれる。
「風、気持ちいいな」
俺がそう言うと、彼女は小さく笑って頷いた。
誰もいなくなった静かな通りを、ふたりでゆっくり歩く。
手はつないだまま。
会話は少なかったけど、静けさが心地よかった。
このまま朝まで歩いていてもいいと思えた。
足は気づけば、あの場所に向かっていた。
昔、よく一人でぼんやりしに行ってた小さな高台。
朝になると、街の向こうにきれいな朝日が見える場所。
「ちょっと寄ってええ?」
俺がそう尋ねると、彼女は少し不思議そうな顔をしながら、でも素直に頷いた。
「どこ行くの?」
「秘密基地、みたいなとこ」
いたずらっぽく言ってみせると、彼女はふっと笑って、
「なにそれ、子供みたい」って小声で返した。
でもその声は、さっきより少しだけ近くて、少しだけ柔らかかった。
その言葉に、俺は笑いながら、彼女の手をほんの少しだけ強く握った。
「俺ら、あんま変わってへんかもな」
そう言った俺の声に、彼女はほんの少しだけ笑った。
並んで歩く影が、夜の街にひとつ伸びていく。
足音も、言葉も、すこしずつ静まっていくけど――
繋いだ手だけは、まだあたたかいままだった。
あとどれくらい、この夜が続いてくれるのだろう。
そんなことをぼんやり考えながら、俺はただ、彼女の手を離さなかった。
朝日が昇るそのときまで。
もう少しだけ、ふたりの時間がほどけませんようにと、願いながら。



