古民家改修のプロジェクトは順調に進み、今は内部のデザインに焦点が移っていた。連日の会議や調整で、昼休みすら削られる。
この日も莉央は美咲との待ち合わせまでのわずかな時間を使い、庁内のフリースペースでノートパソコンを広げていた。
「よ、宮本。どうなってる? 屋根裏の件」
軽く肩を叩かれ振り向くと、黒川がラフなシャツ姿で立っていた。
彼が莉央を”宮本”と呼ぶようになったのは先月ころからだ。初めは少し戸惑ったが、今ではその親しげな呼びかたが心地いい。
「黒川さん、ちょうどよかったです。午前中の課内の検討で、屋根裏は天井が低いので椅子を置かずに座れる畳敷きにしたらどうかと提案してみました」
「さすが。俺も同じこと考えてた。最近の家って畳がないからさ。子どもに良さを知ってもらうの、いいと思う。ちょっと見せて」
黒川がパソコンの画面を覗き込むように、長身をたたんでぐっと身を寄せた。
(距離が近いっ!)
頬が触れそうなほどだった。彼の息遣いが鼓膜に近く、心臓の音が跳ね上がった。
顔が赤くなっていなければいいのだけれど。
仕事の話がひと段落ついたところで、莉央はスケッチブックを取り出した。
黒川の言葉に背中を押され、また描き始めるようになってから、完成したものを彼に見せるのが習慣になっている。照れくささはあるが、それ以上に彼に見てもらいたい気持ちが勝った。
黒川は、いいところを見逃さず、的確な言葉で返してくれる人だった。
経営者としてスタッフを抱えているからだろうか。人の奥底に眠る小さな芽をそっと両手で包んで、陽の当たる場所に植えかえてくれるような導きがうまいのだと思う。
実際、莉央も黒川に褒められるたびに、次はもっといいものを描こうと思えた。
「いいよ。ここの草原の描きかた、特にいい。草のかおりまでする気がする」
そう言ってから、黒川はポンと莉央の頭に手を載せた。
「がんばれよ。お前なら、いい作品ができる」
(わ……)
その瞬間、胸の奥でなにかが跳ねるような感覚があった。
温かくて、頼りがいのある大きな手。
ごく自然な仕草なのに、心が甘く震える。触れられた場所から熱が広がって、全身に甘美な酔いがまわっていくようだった。
(ずるいよ、黒川さん)
ただの”がんばれ”なのに、こんなにも嬉しくて……こんなにも、胸が苦しい。
また、と軽く手を上げて去る彼を見送ると、入れ替わりに美咲が駆けこむようにしてやってきた。
「見た! 見たよ、莉央! なんで黒川悠真と、いい雰囲気になっちゃってるの!」
「違うよ、そんなんじゃないって」
「だって、笑ってたよ。あの黒川悠真が! あー、かっこいい!」
美咲は、黒川が去っていった方角と莉央を何度も行き来するように見ながら、声をひそめることも忘れて興奮している。
「やめてよ。自分が特別だって、勘違いしそうになっちゃう」
視線を伏せながら言った。想いなんか、届くはずがない。期待しちゃいけない。
莉央は机の上のお弁当の包みに手をかけた。
「ふーん……」
美咲は急に黙ったかと思うと、今度は口元をゆるませて笑っている。
「なに」
「自分が特別だって勘違いしちゃうのが怖いくらい、黒川さんのこと、好きなんだ」
「……っ!」
指先がぴたりととまる。平静を装っていたはずが、自分が口を滑らせていたことに気付いて、みるみる顔がほてっていく。
「莉央、耳まで真っ赤だよ~」
「美咲……」と呼んだあとは、言葉が続かなかった。
「美咲」ともう一度呼ぶ。さっきより小さい声で。
美咲、と呼ぶたびに胸がいっぱいになって、頭が自然に垂れていく。
「え、ちょっと、莉央?」
さっきまで軽口をたたいていた美咲が、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「ごめん。からかい過ぎたよね。莉央がそんな風に誰かを好きになるなんて、なんだか嬉しくて……でも、ごめん」
莉央は首を振った。
「いいの。美咲になら言ってもいいって思ってたから。そうなの。私、黒川さんのこと、好き、なんだ」
美咲は黙ってうなずいた。
どうなるかなんて、わからない。どうしていいかも、わからない。
でも、莉央は今はこの想いをただ、大切にかかえていたかった。
この日も莉央は美咲との待ち合わせまでのわずかな時間を使い、庁内のフリースペースでノートパソコンを広げていた。
「よ、宮本。どうなってる? 屋根裏の件」
軽く肩を叩かれ振り向くと、黒川がラフなシャツ姿で立っていた。
彼が莉央を”宮本”と呼ぶようになったのは先月ころからだ。初めは少し戸惑ったが、今ではその親しげな呼びかたが心地いい。
「黒川さん、ちょうどよかったです。午前中の課内の検討で、屋根裏は天井が低いので椅子を置かずに座れる畳敷きにしたらどうかと提案してみました」
「さすが。俺も同じこと考えてた。最近の家って畳がないからさ。子どもに良さを知ってもらうの、いいと思う。ちょっと見せて」
黒川がパソコンの画面を覗き込むように、長身をたたんでぐっと身を寄せた。
(距離が近いっ!)
頬が触れそうなほどだった。彼の息遣いが鼓膜に近く、心臓の音が跳ね上がった。
顔が赤くなっていなければいいのだけれど。
仕事の話がひと段落ついたところで、莉央はスケッチブックを取り出した。
黒川の言葉に背中を押され、また描き始めるようになってから、完成したものを彼に見せるのが習慣になっている。照れくささはあるが、それ以上に彼に見てもらいたい気持ちが勝った。
黒川は、いいところを見逃さず、的確な言葉で返してくれる人だった。
経営者としてスタッフを抱えているからだろうか。人の奥底に眠る小さな芽をそっと両手で包んで、陽の当たる場所に植えかえてくれるような導きがうまいのだと思う。
実際、莉央も黒川に褒められるたびに、次はもっといいものを描こうと思えた。
「いいよ。ここの草原の描きかた、特にいい。草のかおりまでする気がする」
そう言ってから、黒川はポンと莉央の頭に手を載せた。
「がんばれよ。お前なら、いい作品ができる」
(わ……)
その瞬間、胸の奥でなにかが跳ねるような感覚があった。
温かくて、頼りがいのある大きな手。
ごく自然な仕草なのに、心が甘く震える。触れられた場所から熱が広がって、全身に甘美な酔いがまわっていくようだった。
(ずるいよ、黒川さん)
ただの”がんばれ”なのに、こんなにも嬉しくて……こんなにも、胸が苦しい。
また、と軽く手を上げて去る彼を見送ると、入れ替わりに美咲が駆けこむようにしてやってきた。
「見た! 見たよ、莉央! なんで黒川悠真と、いい雰囲気になっちゃってるの!」
「違うよ、そんなんじゃないって」
「だって、笑ってたよ。あの黒川悠真が! あー、かっこいい!」
美咲は、黒川が去っていった方角と莉央を何度も行き来するように見ながら、声をひそめることも忘れて興奮している。
「やめてよ。自分が特別だって、勘違いしそうになっちゃう」
視線を伏せながら言った。想いなんか、届くはずがない。期待しちゃいけない。
莉央は机の上のお弁当の包みに手をかけた。
「ふーん……」
美咲は急に黙ったかと思うと、今度は口元をゆるませて笑っている。
「なに」
「自分が特別だって勘違いしちゃうのが怖いくらい、黒川さんのこと、好きなんだ」
「……っ!」
指先がぴたりととまる。平静を装っていたはずが、自分が口を滑らせていたことに気付いて、みるみる顔がほてっていく。
「莉央、耳まで真っ赤だよ~」
「美咲……」と呼んだあとは、言葉が続かなかった。
「美咲」ともう一度呼ぶ。さっきより小さい声で。
美咲、と呼ぶたびに胸がいっぱいになって、頭が自然に垂れていく。
「え、ちょっと、莉央?」
さっきまで軽口をたたいていた美咲が、申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「ごめん。からかい過ぎたよね。莉央がそんな風に誰かを好きになるなんて、なんだか嬉しくて……でも、ごめん」
莉央は首を振った。
「いいの。美咲になら言ってもいいって思ってたから。そうなの。私、黒川さんのこと、好き、なんだ」
美咲は黙ってうなずいた。
どうなるかなんて、わからない。どうしていいかも、わからない。
でも、莉央は今はこの想いをただ、大切にかかえていたかった。
