夜にかける君に、希望の朝日を

何も起こらず二日が過ぎた後の三日目は、なんの覚悟も、警戒もしないで教室に入った。

私が教室に足を踏み入れたその途端、教室中の全員が私を見ることを避けたように見えた。

私が自分の席に行くために通る導線には、全員背を向けている。

なにがあったのだろう。

たまたまだろうか。

そうだと信じたい。

平常心を保ちながら、自分の席の前に立つと、一通の手紙が置いてあることに気がついた。

誰だろう。

白い封筒にーー宮野 はるか 様ーーときれいな字で書かれていた。

差出人は、わからない。

封のされていないその封筒をゆっくりと開ける。

三つ折りにされた便箋は少しボコボコしていた。

その便箋を開いた瞬間、顔から血の気が引いたのがわかった。

それは、封筒に書かれたきれいな整った字とは裏腹に、


呪、死、殺、没、消えろ、くず、かすーーーー。


不吉な言葉が、不規則に、大きさを変えて殴り書きされている。

それを目にした瞬間、油断していた自分が嫌になった。

油断していたから、真に受けている。

なんの防御もされていない生身の体に刃が振り下げられるような衝撃があった。

頭を銃で打たれたような衝撃があった。

頭がふらっとしてよろける。

賑やかなはずの教室の喧騒がすごく遠く感じる。

その時、胃から込み上げてくるなにかを察してまだ肩に鞄をかけたまま、口元を抑えてトイレに駆け込んだ。

トイレで、吐いた。

今朝食べたばかりのマーガリントーストと、まだ吸収されていなかったコーヒーが、胃酸とともに流れ出てきた。

一波超えたとき、

もう、今日は、帰ろう。

そう思い、私はそのまま昇降口に向かった。


私が学校を出たときにはまだ青空が見えていた空も、家に近づくにつれてだんだんと雲行きが怪しくなっていっていた。

最寄り駅に着いた頃にはポツポツと雨が降り始めていた。私は鞄から折りたたみ傘を取り出し、小さなその屋根の下に身を縮こませて雨をしのぎながら家に向かった。


家に着き、鍵を開けようとすると、今日は重さがなかった。

お母さんがいる

それが、最悪だった。

今は、会いたくない。会いたくなかった。

そのまま門に向かおうとするまもなく、ドアが空いた。

ハッとして開かれたドアの中から出した顔は、なんの感情もないように見えた。

鋭い瞳。通った鼻筋。細くシュッとしている、整った輪郭。

きれいという言葉が似合うその顔は、紛れもなく私の母親だった。

ギロリと私を見下ろしたその瞳は、冷たかった。

ゴクリとつばを飲み込む。

緊張感に心が押しつぶされそうだ。

「あんた、なんで帰ってきてんの」

冷たい、なんの感情もないようなその言葉に、ごめんなさいと小さく呟く。

そんな私を見て、

「あんた、学費いくらかかってると思ってんの。自分で高校に行きたいって言って選んだ学校よね。そこにちゃんと通わせてもらってんのに、サボってどうすんの。行きたいところに通わせてもらえるのが、当たり前じゃないんだから。せめて授業くらいはしっかり出ろよ」

もう一度ごめんなさいというと、鋭い瞳で私をしばらく見下ろされた後、パタリとドアが閉められた。

あの冷淡な瞳には、私はどう写っているのだろうか。

自分が稼いだ金を使う貧乏神。

自分の家に住み着いて食料を漁る醜く哀れで、邪魔な娘。

ただ生きているだけで目障りな子供。

いや、そもそも私のことを自分の子供だとも思っていないのかもしれない。

私に興味なんかないあの人には、私はいてもいなくても同じ、むしろいないほうがマシ。

その程度の存在なんだ。

きっと、そうなんだ。

そう思い、フラフラとした足取りで玄関のドアに背を向け、門を出て、町中を歩いた。

公園の前を通り過ぎたとき、ふと誰もいないベンチを見かけた。

雨の日の公園には誰もいなかった。

鼻を突く、緑の香りが心地よかった。

何も考えずに公園に足を踏み入れ、ベンチに腰掛ける。

どんどん強くなる雨で付いた座面の水滴は、私のスカートにどんどん染み込んでいった。

手に力が入らなくなって傘が手から滑り落ちた。

だけどもう、それを拾う気力すら湧かない。

合皮製の鞄がはじいた水滴がベンチに水溜りを作る。

湿った髪が首筋に張り付く。

頬を雨粒がつたう。

けど、もう何もしたくない。

動くのも、息をするのも、生きるのも、全部嫌だ。

全部、どうでもいい。

このまま、消えて、なくなってしまいたい。

いなかったことにしてほしい。

どうして生まれてきてしまったんだろう。

どうして生きているのだろう。

死にたい。

生きるのが辛い、しんどい、苦しい。



溢れる涙を拭うこともせず、絶望と孤独に苛まれながらどれだけの時間いたのだろう。

身体が冷え切り、指先に垂れてくる雨水が氷のように思える。

首筋を流れる水に鳥肌が立った。

意識が遠のく中、気づくと雨が、止んだ。

詳しく言うと、私の上にだけ、雨が降らなくなった。

恐る恐る顔を上げると、そこには、ブラックの大きな傘が差し出されていて、ボツボツと低い音程で雨音を奏でていた。

目を見開いて、傘の柄を持つ指先から差し出した人物の顔へと辿る。

そこには、茶髪にピアスを付けまくっている男の子が、心配そうな顔をして立っていた。

肩を濡らして、私のために傘を差し出してくれている。

その時、我に返り、

「ご、ごめんなさい。私の、せいで濡れてしまって⋯」

焦って鞄からタオルを出して男の子の肩を拭く。

「俺は全然平気。それより君が心配だ。どうしたんだよ、こんな雨の中、傘もささずにずぶ濡れになってまでベンチに座って。これ、君の傘だろ?」

落ちていた私の傘を持つ左手に軽く視線を送りながらそう言った。

眉を下げたその人は本当に心配そうな顔をしていた。

なんて言うべきだろう。

いや、そもそも事情を話すべきなのだろうか。

見ず知らずの私に傘を差し出してくれた彼を、信じても良いのか。

もしかしたら、安藤さんと渡辺さんとどこかで繋がっているかもしれない。

彼女たちが、私の様子を探るために派遣した手下なのかもしれない。

不安が私を渦巻き、何も答えられずにいると、彼はなにか察したように「とりあえず」と口を開いた。

「俺の家、そこだから、一緒に行こ着替えと何か温かいものを用意するよ」

そう言って私の鞄を持ち、大きな手で私の手を握り、大げさなくらいに私の方に傘を傾けながら公園の向かいにある『CAFE LUMI』という看板を吊るしたお店に入った。


チリーン

という鈴の音とともにドアを開くと、そこは喫茶店だった。

一斉に人々の視線の的となり、反射的に顔を俯けて濡れた髪の毛で顔を隠す。

そんな私とは裏腹に彼は迷うことなく「ただいま」と言い、慣れた足取りで今入ってきたドアの真向かいにあるドアをまた開けた。

その先は細い通路のようになっており、抜けると下駄箱が設置されていた。

「ここで靴を脱いで」と言って下駄箱の扉を開けてくれた。

「ありがとう」と素直にその中に自分の靴を入れる。

そっと下駄箱の扉を閉めた彼は私の鞄を持ったまま、「こっち」と廊下をズンズンと進んでいった。

廊下の途中にある階段を上がる彼についていくと、ある一室に案内された。

ブルーとホワイトで殆どが統一されたその部屋は妙に落ち着いた。

「ここ、俺の部屋。そこのタンスの上から二つ目と三つ目に着替えの服あるから、適当に選んどいて。で、この鞄の中、濡れてたらそこら辺干してといてくれて構わないから。俺は一階にいるから、着替えて色々済んだら降りてきて。温かいもんだすわ」

そう言って「ほい、これタオル」と言って私にバスタオルを投げて彼はドアを閉めて一階に降りていった。

ぼーっとしていると我に返る。

彼の好意に甘えて服を借りることにする。ずぶ濡れになった制服を脱ぎ、濡れた身体を極力拭く。

タンスの中から自分が着れそうなパーカーとズボンを選び、髪を拭いてから着る。

鞄を開けると大きなチャックの中身はほとんど濡れていなかったけれど、外ポケのハンディーファンやティッシュ、ICカードケースはびしょ濡れだった。

バスタオルを敷いてその上にそれらを並べる。

そして、言われたとおりに部屋を出て一階に降りると、奥の方で「うわっち」という声が聞こえたのでその方向に行ってみると、さっきの男の子が奥の方にあるキッチンを向いてやかんでお湯を沸かしていた。

私は彼の後ろに回り、頭を下げながら

「あのっ、あ、ありがとう」

と感謝の言葉を述べた。

「うわぁぁぁぁぁ」

「あぶない!!」

でも彼は私の声に驚いてしまったようで、もう少しでやかんをひっくり返すところだったが、なんとか大事には至らなかったから、良かった。

ふう、と彼は一息つき

「別に、大したことはしてないよ。ちょっと心配になっただけ。それよりさぁ、やかんでお湯沸かしたことある?」
「なんかい、かは」

私がそう言うと彼はぱぁぁぁと顔を輝かせて私に両手を合わせた。

「俺、やったことないんだ。粉のコーンスープ入れられるくらいの温度になったら火を止めてくんね?」

こくりとうなづくと

「サンキュ。おれ、こっちのマグに粉入れとくわ。そっちよろしくっ」

そう言って彼はキッチンの後ろ側にあるダイニングテーブルにせっせとマグカップを二つ運んで、棚からコーンスープのもとを取り出し、サーと入れていた。

私も、やかんのお湯がちょっとプクプクし始めたな、という頃にコンロの火を切って近くに置いてあった保温ポットにそのお湯を注いで、持っていった。

そのポットを見るなり彼はにっこり笑って私に親指を立てた。

受け取ったポットを慣れた手つきで何回かその場で軽く回し、湯気が立ち上るお湯を、横に並べた二つのカップに均等に入るように注いだ。

なぜだろう。

それが、すごく懐かしく感じた。

彼はお湯が入ったカップを私の目の前にスライドして「そこの椅子、座って」と促した。

その言葉に私は目の前に置いてあった椅子を引いた。

目の前の椅子を引いて彼も席についたことを確認して、横に置かれていたスプーンを一つ手渡した。

「さんきゅ」とそのスプーンを受け取って彼は豪快にスープをかき回し始めた。

彼が入れてくれたコーンスープにスプーンを入れると円形の波紋が広がった。

それを見つめていると、「飲みなよ」と催促されて、ふと彼の方を見るとグビグビとカップに口をつけて飲んでいた。

それを見て「いただきます」と手を合わせて、スプーンで少しかき混ぜてからスープを乗せて口に運んだ。

とうもろこしの甘さが口いっぱいに広がる。

ゴクリと飲むと、喉にその温かさが広がり、胃が熱を持ったように感じられた。

また一口、もう一口、とその温かさが私の心をすべて温めてくれるようで、とても心地よかった。

私がすべて飲み干したとき、彼は口を開いた。

「あのさ、君、まだ名前聞いてなかったよね。なんて呼べば良い?」

はっとする。

こんなに親切にしてくれたのに、私、自己紹介まだだった。

そのことも、すっかり忘れていた。

顔が熱くなる。

少し俯いてしまった。男の子は「ごめん、言いたくないなら良いんだ」と目を逸らして小さな声で言ったが、私は首を横に振ってそんなことないよ、と顔を上げた。

「私は、宮野はるか。自己紹介、遅れちゃってごめん、なさい。助けてくれて、ありがとう、ございました」

私の声に彼はホッとしたような表情になる。

「はるか、か。いい名前だね。俺は東健斗。ここのカフェのマスターの息子」

「けんとくん。ほんとに、助かった。ありがとう」

「健斗でいいって。おれも、はるかって呼ぶから」

「うん。ありがと」

そう言って見つめ合う。

なんだか、初めて会ったとは思えないような、そんな感覚だった。

しっくりくるような、落ち着くような、初めての感覚だ。

それからしばらくして、健斗は「食器、下げる」と言って両手でマグカップ二つを持ってキッチンの方に歩いていった。

健斗の方に身体を半分向けて「あのさ」と口を開いた。

「ん?」と健斗はこちらを振り向きもせずに返事をした。

聞くべきか最後まで悩んだけれど、思い切ってまた口を開く。

「あのさ、健斗は、なんで、私を助けてくれた、の」

スポンジを持つ健斗の手が止まる。

何も音のない空間に二人の呼吸音だけが響いていた。

「別に、大した理由は、ない。ただ、雨に濡れて座ってる人がいたから声をかけただけ」

しばらくしてスポンジを置き、その手で蛇口を捻って水を出しながら健斗は小さく言った。

「そ、っか」

また前を向き、「ありがと」と頭越しに言葉をかけると今度は大きな声で「めっちゃありがとうって言うな」とからかわれた。


健斗が洗い物を終えると、「これからカフェの手伝いに行く」と扉に向かった。

「わ、たしも行っても、いい?」

しろもどになりながらも尋ねてみた。

少し振り返ってにっこりとうなづく彼の横顔はとても綺麗だった。


「これはあそこ、それはそっち、あれはここで、その隣があっち」

指示を聞き逃さないよう神経を研ぎ澄ます。

「アイスティーは13番席、ホットコーヒーは5番席、パンケーキと紅茶は10番席でーーー」

「お嬢ちゃん、これ、違う席のもんじゃわい」

「し、失礼しました」

中年の男性にそう言われ、急いで厨房に戻って確認する。

ーー9番席か

さっきの向かいの席に「失礼しました」と商品を置いて、6番席にメロンソーダを置いて伝票を差してカウンター席の前に戻ってくる。

「まーたやらかしたのかよ」
嫌味ったらしく言ってくる健斗に口を尖らせながら「だって」と言い訳を試みるが、うまい言葉が見つからない。その間に注文の呼び出しがあり、大きな返事をしながら客席の間をするすると抜けていった。

やっとひと段落ついたのは午後6時。

すでに日が落ちて辺りはすっかり夜の闇に溶け込んでいた。

「はるか、自分で帰れる?俺店の片付け手伝わないといけなくて」
「うん、今日はありがと」

にっこり笑って返したつもりだけど最近あまり笑っていないせいか上手く表情筋を動かせているかは自信がない。

そのまま健斗の部屋にお邪魔して広げてあった鞄の中身を戻し、干してあった制服に着替えて『CAFE LUMI』を出た。

雨の上がった空にはもう、夜の闇が見え始めていた。

漆黒が迫る夕焼け空を眺めて、少し心が軽くなった、そんな気がした。