また変わり映えのない朝が来る。

今日は何があるのだろうか。

“憂鬱”な気分で重い重い身体を起こした。



二階にある自室を出て急な階段をゆっくり下る。

すぐ横にある扉のノブをひねり、リビングに入ると、閉まったカーテンの隙間から真っ直ぐに差し込む光の筋が、ベージュ色のフローリングを温めていた。

薄暗い部屋をズカズカと進み、いつもと同じようにカーテンの端に手をかけ、思いっきり開く。

庭に植えられたイロハモミジの葉は陽の光が透けて美しく輝いていてとても綺麗だった。

空は青い。

白く薄い雲は空を青磁色に変化させている。

美しい鳥の囀りを聞きながらキッチンに向かい、トースターに食パンを入れ、マグカップにコーヒーの素を入れ、ティファールでお湯を沸かして混ぜる、といういつもの作業を流れるように済ませる。

コーヒーの香りが漂う頃、トーストの少し焦げた独特の匂いが私の鼻を満たした。

チーン、という音が鳴り響いたのと同時に少し焦げ目のついた狐色の生地を取り出し、クリーム色のマーガリンを塗る。

お皿にパンを乗せ、コーヒーの入ったマグカップと一緒に手に持ってダイニングテーブルへ向かう。

一口パンをかじり、コーヒーを啜る。

小鳥の囀りが窓越しに聞こえる。

優雅な朝だ。

一日の中で一番空気が軽い朝の雰囲気を全身で感じながら朝食を食べ終わった。

食器を流しに持って運び、さっき持って降りてきた鞄を手に取る。


「行ってきまーす」


誰もいない家にこだまする自分の声を聞きながら私は玄関を出た。

一歩玄関を出れば優しく輝く陽の光が私の額を照らした。

目を閉じて澄んだ空気を肺に満たす。

朝の空気は美味しい。

そして私はゆっくりと瞼を開いて右足を一歩前に出した。






朝の電車は、“憂鬱”だ。

いつも押しくらまんじゅうのように詰め込まれる電車。

通勤する大人たちの間に作られたわずかな隙間に自分の体とスクールバックをねじ込ませ、息の詰まるような空間で身動きを取らないように細心の注意を払う。

冷房の効いた快適な車内のはずが蒸し器のように暑い。

大人たちの熱気が肌に伝わる。

イライラした気持ちも肌で感じられる。

汗のせいで肌にぺったりと張り付いたワイシャツはこの上ないくらいに通気性が悪く、余計に暑さを感じさせていた。






そのまま20分ほど電車に揺られ、途中乗降する人の波に呑まれながらもようやく学校の最寄りに到着した。

駅は涼しかった。

電車の中よりも涼しいのはおかしいと思うが、この電車が異常ということにする。

プラットホームを駆け抜ける風は私の自慢のボブを後ろに靡かせた。

ポツンと置かれたたった二つの改札口の一つに定期券を被せる。

ピッ、という電子音を聞き、ゆっくりとした足取りで駅の構内を出ると、そこには同じ制服を身にまとった生徒が通り過ぎていた。

それを見てまた“憂鬱”な気持ちになる。


また一日が始まる。

長い長い一日だ。

今日は何があるのだろう。


期待よりも落胆の方が大きい気持ちを抱え、学校へ向かう学生の波に乗った。



教室に入るとそのひんやりとした空気が私の肌に癒しを与えた。

少し寒いくらいのその空気は、もうすぐ夏休みだという七月の猛暑の下を潜り抜けてきた後には楽園のようである。

静かに、物音を立てないように、そっと自分の席に着く。

鞄から教科書類を出して机の中に入れて、今読んでいる本、『君と見た空色の海』を取り出す。

最近ハマっている小説家の最新作を一昨日入手し、授業の合間や休み時間などの“暇な時間”を使って読んでいる。

ホームルーム前のこの時間だってその時間に含まれる。

物語に集中して、空想の世界に没頭しているこの時間が唯一、心が安らぐ、’楽’な時間だ。


ホームルームが終わり、一時間目が始まる。現代の国語は先生が可愛くて段取りがいいからいつも本当に五十分なのか疑ってしまうほど早い。

体感二十分の授業を終えると二時間目の体育のため、体育着とシューズを取ろうとロッカーへ向かう。すると

「私今日体操着忘れちゃったんだよねー」

「えー、まじー?やばいじゃんそれ」

「でしょ。どーしよー」

クラスの中でも一番影響力のあるクラスのダブルクイーンである安藤さんと渡辺さんの会話が耳に入ってきた。

嫌な予感がする。
そしてまた“憂鬱”な気分になる。

ーーどうせまた

そう思った私の心は彼女たちの心を読んだようだ。

「ねえ、宮野さん。体操着借りてくよ?」

圧をかけるような口調でそう言われたとき、ムッとした。

自分が持ってこなかったのが、悪いんじゃん。

そう私が抗議する間もなく彼女たちは私の体操着袋を手に取り、悪びれる様子もなく去っていった。

周りの人たちも彼女たちの様子に気づいているようでこちらにチラチラと視線を送ってくる。

しかし、誰も、何も言わない。

その瞬間私は落胆した。

この世界は弱肉強食の世界。

ああ、本当にそうなんだ。

みんな怖いんだろうな、彼女たちが。

同じことをされるのが、怖いんだ。

標的にされるのが怖いんだ、嫌なんだ。

あたりまえ。

でも、だけど、誰か、助けてほしい。

手を差し伸べてほしい。

別にこういうことがあったのは今日が最初じゃない。

その度に「他のクラスの子に借りに行こ」って助けてほしいと何度願ったことだろう。

なにも、変わるはずがないのに。

私なんかを、庇ってくれる人なんて、いるはずないのに。

溢れそうになる涙を必死に堪え、私は机の横にかけた鞄を手に、逃げるように教室を後にした。




さっき通ったばかりの道は学生がいないためか閑散としている。

朝とは異なり、人の姿はなく、少し高くなった太陽が私一人を燦々と照らしつけていた。

何も考えずに歩いていたためか、気づけば駅のホームにいた。

すぐに電車が来たのでそれに乗り込む。

車内に入った瞬間、暑さで出た滝のような汗でベタついていた肌は、涼しさに発汗をやめた。

それでなんだか少し体が軽くなった。

本数が少なくなっても五分に一本は電車が来ることにありがたみを感じて椅子の一番端に座った途端、体の内側にドシッと鉛のようなものが落ちたような感覚に陥った。

そして睡魔に襲われた。





ふと気がつくと家の最寄り駅を幾つか過ぎていたが、なぜか帰りたいとは思わなかった。

多分お母さんに連絡行ってるんだろうなぁ。

また、怒られるんだろうなぁ。

私の全部を、否定されるんだろうなぁ。

今晩も、帰ってこないんだろうなぁ。

明日の朝も、一人なんだろうなぁ。

ずっとずっと、このままなんだろうなぁ。

寂しい、ままなんだろうなぁ。

全部が“憂鬱”だ。

家が一番安心できる場所なのに、はずなのに、全然安心できない。落ち着かない。

最近では寂しさに駆られて寝る夜が増えた。

なかなか寝付けない日が続くこともある。

その全てが“憂鬱”で“憂鬱”で仕方がない。

生きること自体、’’憂鬱’’なことなんだ。

全部、全部’憂鬱’でーーー。




その時ハッとした。

私はなんでこんなにネガティブなことを考えているんだ。

いつからだろう、こんなことを考えるようになったのは。

高校に入るまではこんなことはなかった。

学校が楽しくて仕方がなかった。

なのに、なのに。


自分が嫌になる。


もっとなにかされるのが、怖くて、嫌で、あの二人になにも言い返せない自分が、本当に。



最寄り駅から3駅ほど過ぎた駅で一度降りて反対側のホームに移動して来た電車に乗り、来た線路の横を通り過ぎていく。



五分ほどでいつも使っている駅のホームにたどり着いた。

長い長いエスカレーターに立ち、次第に高さが増す奇妙な階段に身を任せる。

時折すれ違う、反対側のエスカレーターに乗る大人の目が怖かったが、気にしないことにした。

この時間に一人でこの駅を使う高校生はほとんどいないから目立っているのだろう、と思いたい。

駅の改札口を出るときに目があった駅員さんの目が、怖かった。

じろりと私を見る、細くて鋭いその眼に私の背筋は凍りつく。

顔を俯け、下ろした長い髪で自分の顔が見られないようにして、小走りで改札口を抜けた。




炎天下の中歩いて帰宅する。玄関の鍵を回すとき重い感覚があった。

まだ、お母さん帰ってきてないんだ。

落胆と安心が入り混じった複雑な気持ちになる。


私のお母さんは、都内のキャバクラで働いている。

朝帰りなんてしょっちゅう。

丸一日家を空けることだってあるから慣れっこだ。

お父さんも、私の記憶にはいない。

お母さんには聞けない、聞いちゃいけないって、ずっとわかっていたから、何も知らない。


家族って本当になんだろう、と思いながら靴を脱いで、湿った靴下を床にペタペタと付けながら廊下の奥にある洗面台に向かう。

手を洗い、階段を登る。

一歩一歩、確実に。


自室に入るとモワッとした空気が私を包んだ。

乱暴に鞄を置き、エアコンのリモコンを手にする。


冷房 二十三度 風力強


その設定が一番快適になるのが早いと気づいたのも去年の今頃だっけ。

ベッドに座り、ぼーっと天井を眺める。

中学の時、友達とこの狭い空間でバレーボールをしてへこませた後がまだ残っていた。


「あぁ、中学に戻りたい」


ふとこぼれたその言葉は、今の私の思いそのままだと気づいたのは発した後だった。

息をするのを忘れて、苦しさに駆られる。

でも、冷静だった。

ツーと涙が頬を伝う感覚を覚え、それを誤魔化すように、私はベッドにうつ伏せになり、顔を枕に押し付けた。




気がつくと、窓の外は帰ってきたときのような明るさはなくなっていた。

眠ってしまったのだろうか。

時計に目をやると午後六時を過ぎていた。

さっき帰ってきたときはまだ十一時を回ったところだったのに、一日は早い。

薄暗くなった部屋に電気をつける。

そして勉強机に向かい、今日受けられなかった授業の教科書を読む。


ベクトル、シータ、サイン、コサイン、タンジェント


上に凸、下に凸、X軸に接する、共通点、全体集合、部分集合


ホーン、フィヨルド、三角州、砂嘴、安定海陸、V字谷


何に使うのかわからないような記号や言葉が並べられた本を一ページずつ読み込んでノートにまとめていく。

そんな作業をしていると既に九時を過ぎていた。

夕飯を食べるためにペンを置き、すぐにお風呂に入れるように今朝脱いだパジャマを手に取る。

部屋の電気を消し、エアコンの付けタイマーをセットして、一階に向かった。


午後十一時、寝る支度をすべて終え、アラームをセットして布団に潜り込んで、寝た。

ピピピピッ、ピピピピッ、ピピピピッ、ピピッ

バンッ

うるさい目覚ましの頭を叩き、強制的に静かにした。

ふわぁっ、と欠伸をして伸びをする。

そして昨日と同じようにカーテンを開け、制服に着替え、朝食を食べ、鞄を持って家を出る。

通勤通学電車に閉じ込められる。

そして駅に着く。

学校に着く。

教室に入る。

自分の席に座る。

そこまでは変わらなかった。

そこまでは。

今日は、違った。

机の中に、紙くずが山のように入っていた。

机に落書きがされている。

 泥棒猫

カタカナで書かれたその文字は油性マジックペンででかでかと書かれており、持ってきていたハンドアルコールをハンカチに染み込ませてこすっても殆ど落ちなかった。

ふつふつと怒りが湧く。

手が震える。

握りしめた拳に力が入った。

キッと安藤さんと渡辺さんの方に視線を向けると、教卓のあたりでこちらを見ながら談笑している二人が見えた。


なにが、泥棒猫だ。

私のものを取ったのはあなた達でしょう?

私が何を取ったっていうの?

いつ?どこで?なにを?


言えない思いが喉の奥に溜まっていく。

痛い。

苦しい。

息が、しづらい。できない。

その途端、目に涙が滲んだ。

辛さが、全部流れてしまえば良い。

きっと、涙が全部なかったことにしてくれる。

そう思って泣いたけど、それは、だめだった。

逆効果だった。

私の目に涙が光った途端、安藤さんがさっきまでの笑顔を消して、真顔で、私の目の前に歩いて来た。

「どうしたのー?だいじょうぶー?」

机越しに目の前で大きなきれいな目を見開いて口元を緩めた、いわゆる’目の笑っていない笑顔’で、優しく私に話しかけてきた。

何も言えないでいると

「なにか、嫌なことあったのー?何かあったんなら、話してみなよ。聞いてあげるから」

だめだ、言っちゃ。

言ったら、もっと、なにかされる。

私が沈黙を貫いていると

「仕方ないよ、香菜。人のものを取ったこいつが悪いんだから」

渡辺さんが安藤さんの右肩に左手を乗せながらそう言った。

「わたしはっ、」

私が言葉を発したことに二人は一瞬目を見開いたが、「わたしはー?なぁにー?」と挑発してきた。

それに余計に腹が立ち、強い口調で思っていたことをぶちまけてしまった。

「私はっ、あなた達のものを、何も、取っていない。あなた達が私のものを取ったんでしょう?昨日の体育着だって、忘れたのは安藤さんじゃない。なんで、私のものを持って行くの?忘れた安藤さんが悪いんじゃん。私だって昨日体育着が必要だった。なのに、なんで持っていったのよ。他のクラスの子に、借りても良かったんじゃないの?」

途中つまりづまりになってしまったが、ぜんぶ、言えたと思う。

二人は目を見開き、顔を見合わせた。

しばらく沈黙した後、最初に口を開いたのは安藤さんだった。

「そう。昨日の件は、確かに私達が悪かったかもしれないわね」

「香菜っ」

焦る渡辺さんを遮って安藤さんは続けた。

「なんで、泥棒猫かがわからない、か。あなた、自覚がないうちに人のもの奪っているのよ?そこ、気づいたほうが良いと思う。これは、忠告よ。わかったならさっさと泣き止みなさい。目障り」

それだけ残して二人はまた教卓に登って談笑を始めた。

気づけば静かになっていた教室に、徐々に笑い声が聞こえ始めた。ぎこちない雰囲気ではあるが、また賑やかになっていった。

しばらく、涙はやまなかったけれど、そのまま一生懸命にアルコールで机を拭き、ホームルームの五分前くらいには目立たない程度には消えてくれた。

明日からは、除光液も持ってこないと。

と思いながら、ホームルームを受けた。

その日の授業は集中できなかった。


『あなた、自覚がないうちに人のもの奪っているのよ?』


安藤さんのきれいな声が私の頭に響く。

そんなことはないと思っているが、それがいけないのだろうか。

私は、彼女たちの何を奪ったのだろう。

そんなに大切なものを奪ったのだろうか。


不安に駆られていると、あっと言う間に六時間目の授業が終わり、私は帰りのホームルームを受けていた。

今日は、朝のあれ以外は何もされなかった。

チラチラと視線を向けられたり、コソコソと悪口を言われていたりするように感じることはあったけれど、いつもよりは全然平気だった。

それから、次の日も、その次の日も、何事もなく過ぎていった。

もう、何も怖がらずに過ごして良いのか、と思った私の考えは、甘かった。

それは、荒波の直前に起こる、僅かな凪であっただけだったのだ。