『妖精中毒』



 柔らかな木目の天井と、コーヒーの匂い。冷たいシルクの肌触り。深く息を吸い込んだまま吐き出さず、私は重たい身体を起こす。まるでその動作しかプログラミングされていない機械仕掛けの人形のように。

 わかっていた。わかっていたのに、すべてを出し尽くしたはずの瞳から、はらはらと涙が溢れてやまない。
 
 わかっていた。幸せに満ちた夢のどこかで。もう私の兄は冷たい骨になってしまったのだと。幸せを感じるほど、現実は固くななのだと思い知らされる夜の長さを。

 夢は消え去り、再び空っぽになったやり場のない心で、手元に転がる本に目をやる。

『ツァラトゥストラはかく語りき』、昨日のあのあと、持ち帰って読んでみたけれど、結局3頁も進まなかった。哲学は私にとってはやっぱり難しくて、そのまま寝てしまったんだろう。

 萎びた表紙をほんやり見つめていると、昨日の胸騒ぎの続きを思い出した。ざわざわとして落ち着かないけれど、霧がかっていた意識が晴れていく感覚にも似ていた。

 だいたい、今ってどういう状況なんだろうと整理してみる。掟家に養子縁組をしたわけではない。掟家、というより、親族でも保証人でもない掟レオ個人から無償に援助を受けている、ということか。

 私って、今どういう立場なんだろう。このまま、彼の善意に甘んじるような形で生きていてもいいんだろうか。永遠なんて、ないのに。

 そもそも、私が享受しているこの生活は、本当に純粋な善意なのか。どうしてか、そうだとは思い難かった。

 あの日、抜け殻だった私は、夏の妖精に導かれたと思ったのだ。兄の名前を出され、遺言を囁き、「おいで」と言われて、私はその手をとった。

 それが、純粋な善意とは別のところから生まれた優しさなのだとしたら。


「誘拐──」


 自分でも、不意にこぼれた言葉に驚いた。