『妖精中毒』



 学校から彼の家に帰ると、まずは彼の姿を探す。なんとなく「ただいま」とは言いずらいから、少しスリッパの底を擦りつけるように廊下を歩いてみたりして、さりげなく帰ってきたアピールをする。

 この家は大きい。外からは高い石塀に隠れて見えないけれど、私と兄が住んでいた家よりもずっと広い。壁も屋根も白い貝殻でつくられているみたいな美しい邸宅だ。

 真新しい檜木の匂いがする廊下を渡って、こぢんまりとした書斎室を覗いてみると彼がいた。だいたい、彼はここで本を読んでいるか、壁1面に本が詰まった本棚の前に立ち尽くし、じっと何かを考え込んでいるような素振りをしている。

 今日の彼は本棚の前に立ったまま本を読んでいて、私の気配に気づくとふわりと顔をあげた。


「おかえり。」


 その声を聞くと、ずっと張りつめていた気が抜ける。何だかんだ、彼からの「おかえり」は私を今一番安心させるものなんだと思う。私も小さく、ただいまと言う。

 私がドアのところでおずおずしていると、彼が部屋に入るよう促した。


「本が好きだって美音から聞いている。興味あるのがあれば持っていけばいいよ。」


 私は本が好きかと問われたらよくわからない。でも、兄がよく本を読んでいたから、私も少しずつ小説なんかを読むようになったのだ。


「……ありがとう。」


 寡黙な彼の気遣いが珍しく感じて、どぎまぎしながら部屋に足を踏み入れる。ここに引っ越してきたときから、ずっと気になっていた部屋だった。

 6畳くらいの小さなスペースに、書斎机と椅子、たくさんの本。ここはまるで、小さな図書室の一角のようだ。

 年季の入った木の本棚には、いろんな種類の本がぎっしり詰まっていた。エッセイ、小説、哲学書。すごい読書家なんだ。

 その中で、見覚えのある背表紙を見つけた。


「『ツァラトゥストラはかく語りき』」


 声に出すと、意外そうに瞳を開いて彼がこちらを見た。


「知っているんだ。」

「兄がよく読んでいたから。私にはちょっと難しいけれど。いつかこの本の内容を理解できる日がくるのかなって。」


 擦りきれそうなその表面を指でなぞると、兄の温もりまで思い出せる気がする。そういえば、美音くんもいつからか哲学書を読むようになった。

 そんな私をじっと見つめる、彼の鈍い視線を感じた。


「美音のことが、好きなんだな。」


 突拍子もないその言葉に、心臓が跳ねた。反射的に隣に立っていた彼を見上げて、宝石みたいな瞳と目が合ってしまう。

 私を見ているのか、見ていないのか。その曖昧さが、近くだと大地と海の境目のようにも思えて、よけい吸い込まれてしまいそうな瞳だ。

 何だろう、この美しい瞳にすべて見透かされているような気がしてしまう。

 何も動揺することなんてないのに。私はちゃんと、妹として応えればいいだけ。


「──好きです、これからも。たった1人の兄だから。」


 そんな自分の言葉にばかり傷つきそうになる。兄として好きだどうのと、今さらどう繕おうとしたって、美音くんはもうこの世界のどこにもいないのに。

 微妙な沈黙が流れる中、彼の白い手が伸びて、その本をそっと引き出した。


「信奉する絶対者の死は、すなわちその束縛と支配からの解放を意味する。」

「──え?」

「そういう本だよ、これは。」


 ぽかんとしている私に本を渡すと、彼はそのまま部屋を出ていった。あとには、お香のような香りが微かに残る。


 「──何、今の」

 
 彼はときどき、酷く冷たい視線を私に向ける。それは、美音くんの妹である私に寄り添おうとしながら、圧倒的に私をつきはなそうとしているようにも感じられる。

 まだ彼とは4日しか過ごしていないからお互いわからないことだらけなのはそうだけれど。

 この短い日数でも、ところどころの歪《ひず》みから滲み出るような違和感を覚えざるをえなかった。


「信奉する、絶対者の……」


 彼が残した不可解な言葉の意味を反芻して、手元の本を抱き締める。心臓がやけに波打って、私の身体を震わせた。