彼は現在大学院の2年生で、哲学を専攻しているのだといった。兄と年が同じだから、24才だ。

 母親がイギリス人で、両親は仕事の都合で台湾に在住なんだという。幼い頃からアジアやヨーロッパを中心に各地を転々としていたのだとか。

 どうりで、日本人離れした風貌のはずだ。どことなく口調が柔らかく感じるのもそのせいなんだろうか。


「で、お母さんが言ってたんだけどさ、隣町に本家がある地主さん?で、昔から有名なすっごい名家らしいよ。今は地方の大企業とか駅前のショッピングモールとかの土地も所有してるって。」


 そう教えてくれたのは千乃だ。私は彼女にだけ、事の経緯を話した。この状況をどう濁そうかと一瞬迷ったけれど、正直に「少しの間、兄の同級生の家に住まわせてもらうことになって」と告げたら、千乃はさすがに訝しげな顔になった。

 それで、お母さんにそれとなく「掟」という名前について探りを入れてくれたらしい。


「本家を長男が継いで、次男は海外留学するとかで外国に行っちゃったんだって。て話までは有名らしいよ。でもその息子は日本にいたってことだね。」


 きっとお母さんの口調をそのまま写し取ったのだろう口振りで、千乃はいちごミルクを啜った。


「そう、最近ここへ引っ越してきたんだって。」


 身分証明として、学生証と健康保険証、運転免許証、パスポートまで差し出してもらったけれど、確かに本物のようだった。でも住所は以前いた場所のままらしく、こっそり調べてみたら「掟」という名前がヒットしたので、身元の知れた人なんだろうとは思っていた。

 とはいっても、そこまで名の知れた家の人だとは想像にしていなかったけれど。


「ふぅん……まぁ、何にせよ掟さんちなら怪しい人ってことはないか。」


 千乃は慎重なようでいて、けっこうあっけらかんとした性格をしている。そして、はぁーっと、今日何度目かのため息を吐いた。


「でもほんとすごくない?つまりさ、有力者の家の息子から無償で援助してもらえるってやつでしょ?シンデレラストーリーじゃん。」

「いや、確かにそうなのかもしれないけれど……」


 彼女の包み隠そうともしない言い方に苦笑してしまう。でも、あらためてこの現状を言葉にして人の口から聞いてみると、ちょっと浮世離れしているというか、確かにすごい。そして何より怖いのだ。

 彼が1人住んでいるという、一階建てのスウェーデンハウスに私がやってきてはや1週間。

 制服や教科書、簡単な荷物だけをまとめて、私は兄と暮らした家を出た。彼の家までは、駅で1駅しか離れていないのには驚いた。

 私専用の部屋に、温かい朝食。田舎の貴族が住んでいるような美しい邸宅で現実感のないまま時間がすぎ、ああやっぱりこれは夢なんだとふとした瞬間に感じる。

 でも、すべて現実であることの証拠に兄はいなくて、私の目の前には妖精と見紛う美しい人がいる。

 自分で選んだことなのに、私はどこでこの道を選択したのかわからなくなりそうになる。


「ねぇその掟さんってどんな感じ?やっぱかっこいい?」


 気づけば前のめりになって、千乃がにやつきだす。私は少しだけ返答に困った。


「優しい人なんだとは思う、けど」

「けど?」

「──まだよくわかんないな。」  


 そう、よくわからない。彼の眼差しは冷えきっていて、いつも私ではないどこかを見据えている。私に対する淡々とした優しさを、信じきってしまってもいいのか。

 そもそも、本当に兄の友人だったのかだって、いくら身分が明かされてもそれだけは何も確証もない。

 彼は、兄の何だったのか。

 兄からの遺言だという言葉を聞いてもなお、何か裏があるんじゃないかと、そう思わずにはいられない。