いよいよ幻聴か、聞き間違いだと思った。それでも確かに、兄の名前を呼ぶ男の人の声が背後から聞こえて血の気が引く。

 ほとんど反射的に振り返ると、西陽の淡いゆらめきに溶けいるように、その声の持ち主は立ち尽くしていた。ひどく困惑しているだろう私の顔を認めて、彼は静かに歩み寄る。少しずつその姿が鮮やかになっていって、私はさらに息を呑んだ。


「──の、妹か。」


 一瞬、やっぱり私は夢を見ていて、まだ目覚めていないだけなのかと思ってしまう。

 すらりと伸びた長身、細い首、小さな顔。シャープな印象の立ち姿が、兄と似ている。でも、兄じゃない。

 色素の薄い髪は、千乃よりももっと淡い薄鳶色で、黄昏時の微かな光を透かしている。乳白色の肌が、まるでルネサンス期の絵画のように艶々と映えている。

 そして、何よりもその瞳。なめらかに削られたトパーズに、エメラルドの原石が混じっているみたいな。日本人離れした見事なヘーゼルアイに吸い込まれそうになってしまう。

 真夏の眩しい光の下では消えてしまうんじゃないかと思えるほどに、白く透ける人がそこにはいた。

 そういえば、もうすぐ夏至の季節だ。もしかして彼は、夏至前夜《ミッドサマー・イヴ》に地上へ姿を現すとかいう妖精の類いなんじゃないか。


きれい──


 率直な感情に支配されて固まってしまった私から、彼は目線を逸らさない。端正につくられた唇がわずかに動いた気がして、私はようやくはっとした。


春原音寧(はるはらおとね)。確かに似ていないな。」


 その見た目とは反した、温度の感じない声だ。思いがけない響きに、冷たく心臓を刺される思いがした。

 私と兄が似ていないと言いたいんだろう。それは自覚している。でもどうして、私たちのことを知っているんだろう。


「──兄の、お知り合いですか。」


 我にかえって恐る恐る聞く私にも、彼は精巧につくられた表情を変えなかった。


「同じ大学の院生だよ。君の兄さんとは学部生時代からの付き合いだった。君のことを、いつも話していた。大切にされてきたんだね。」


 相変わらず声は冷たいけれど、言葉の縁はどことなくまろみがあって柔らかい。その淡々とした響きが、不思議と空っぽの心の隙間にそっと入り込んでくるみたいだ。

 敵意は感じられない。同情も。嘘をついているようにも思えないけれど、兄の口から大学の同級生の話なんて聞いたことがない。

 それでも、身構えるほど怖い人ではないような気がしてならなかった。

 兄は脆くて、繊細な人だった。そんな兄と知り合いだというのが真実なら、少なくとも悪意を抱くようなタイプの人間ではないんじゃないか。そう、根拠もないのに信じたくなる自分がいた。

 私の心は、すでにただ一点へとすがろうとしているのを感じていた。


「1人なんだろう、君。」


 それなのに、この人は。


「君の兄さんの遺言だ。俺のところにおいで。」
 

 この人、何て感情のない目で私を見るんだろう。