その日の授業はすべて受けた。じっと身をすくめていると自然と涙が溜まってくるから、とにかく気を遠くへ紛らわそうとすることに体力を使ってしまった。


「ていうかあの子だよね、真下《ましも》先輩フったの。」

「ちょっと聞こえてるから絶対……。」


 掃除の時間や休み時間、ときどき聞こえてきたささやき声は、幻聴とかじゃないんだろう。千乃が特別なのだ。クラスの女子が私を見る目は、いっそう冷ややかになっていた。

 同学年や先輩らからのアプローチを中学では拒み続けていた私も、高校に入ってからは何か吹っ切れようとして、確かにめちゃめちゃだった。兄に抱いた「好き」ではない感情を、他人に向けられるはずなんだと。そしてきっと、その感情のほうが人間として正しいのだと、そう信じたかった。

 告白されたら誰彼かまわず付き合って、身体も許した。挙げ句の果てには中途半端な嘘もつけずに別れる。気づけば友だちと呼べる人もいなくなって、自業自得だ。

 きっと誰にもわからない。「他に好きな人がいる」なんて、白々しく吐露する私の気持ちが。それがどれだけ情けなくて惨めなものなのか。

 私が好きなのは、どこまでいっても血の繋がった兄だけだ。美音くんだけだったのだ。

 終業のチャイムが鳴れば、千乃は部活に行き、私は1人のろのろと家へ帰る。

 足どりは重い。でも、今、少しでも風が吹けば私は何もない宙に放りだされる気がした。そうすれば、少しでも兄に近づけるかもしれない。そんな呆れる妄想もしてみた。でも、兄はもう私を受け入れてくれないだろう。

 夕闇が訪れる夏の空。その濁った空気の上澄みへ漂うみたいに、私は兄が服用した睡眠薬の形をぼんやりと思い出した。

 水色の、丸っこいカプセルのやつ。昔ストレスで不眠症になった私のために兄が買い込んでくれたのだ。今思えば、こんな使い方をすることをあの頃から意識していたのかもしれない。

 あの日、兄の部屋に散らばっていた大量の薬の抜け殻は、ただのゴミでしかなかった。あんなものが、私にとって兄が生きていた証にでもなってしまうのだろうか。

 美音くんが、私へ最期に残したものがあの薬の抜け殻だなんて、そんなのあんまりだ。


「──いやだ。」


 私は今、初めて兄に怒りをぶつけたいと思っている。でも、今ここで声を震わせて泣いたって叫んだって、私の声は永遠に兄に届くことなんてなく、空気中に霧散する。

 あの夜、いつもと変わらない夜にすることだってできた。大学院から帰ってきた兄を迎えて、遅い夕飯を一緒に食べて、もう寝ればいいのにと困った顔をされて。そんな日常を生きていけた。

 私があんなこと言わなければ。ただひたすら、美音くんにとって普通の妹でいることを望めていたのなら、これからも穏やかに暮らせたのかもしれない。今ここに、美音くんはいたのかもしれない。それなのに。

 前を向いたほうがいいのはわかってる。でも立ち直りたくなんてなかった。私がこれから笑ったり泣いたりして生きていくのを、許せないと思った。

 だってもう、何もかもがどうにもならない。

 いっそ、私もあの水色のカプセルをすべて飲みほしてしまえば。せめて、美音くんと同じ苦しみを感じることができれば。私にはもう、それくらいしかできることはないんじゃないか。

 美音くん、と押し出されたはずのそれは、声にならなかった。その失われた輪郭をたどるようにもう一度呟こうとした。




「──美音。」



 その声は、突然私の身体に入り込んできた。