『妖精中毒』



 「─レオさんって、趣味とかは何かあるんですか?」


 暗いニュースは動物園で生まれた赤ちゃん特集に移り変わって、私も無理に別の話へ切り替えようとしてしまった。自分に趣味といえるものがないくせに。


「ないね。どうして?」

「……ちょっと気になっただけです。たくさん本があるから、読書が好きなのかなとか。」

「あれはほとんど学部生時代に集めた研究資料に過ぎない。娯楽の気分では読まないよ。」


 せっかくの話の芽が早々に摘みとられてしまい、私は本当に手持ち無沙汰になってしまった。ため息を呑みこんで、笑顔のリポーターと動物たちで晴れやかな画面をみる。彼の視線もテレビにあった。

 先月孵化したばかりだというフラミンゴの雛をまるで興味なさそうにみていたけれど、ふいにその花びらみたいな唇が「鳥」と呟いたようか気がして、私も思わず反応した。


「え?」

「鳥は、昔から好きでよくみているな。」

「鳥?」

「ヒッチコックの」

「あ、そっち?」


 ここで映画の話題がでるなんて思いもよらないことだったから、すっときょうな声が出てしまう。ヒッチコック作品はやっぱり美音くんの影響で、私もいくつか観たことがあった。純粋に面白いなと思ったけれど、今までの誰にも話の通じる子はいなかった。それはそうか。

 私自身が特別映画好きっていうわけではないし、そもそも千乃くらいしか仲のいい子はいない。千乃はひと昔前の洋楽が好きで、海外のバンドや歌手の話はたびたびされる。

 そういう話に相づちを打って共感することに慣れているから、いざ自分の好きなものの話をしようとなると言葉につまる。

 というか、自分の「好き」を自分から話すことのハードルを勝手にあげてしまって越えられないのだ。

 でも、何ともいえない反応をされそうな自分の話も、彼の前でならできるかもな。と、ふと思った。


「…私は、ヒッチコックなら『めまい』が好き。『鳥』は昔みたけど、ちょっとトラウマになっちゃった。」

「『めまい』、か。」


 さらさらと流れるようだった彼の口調がふいに滞った気がした。しなやかな睫毛を伏せて、彼は今、私の言葉を拾っている。そう感じるだけで、どうしてか胸がせわしなく鳴った。


「『死者の中から』だ。原作は。」

「原作なんてあったの?」

「映像化前提で書き下ろされたフランスの小説だよ。」


 知らなかった。


「詳しいのね。」

「もともとフランス文学ゼミだったから、そのときに軽く触れただけだよ。」


 それも知らなかった。私の知っている本といえば、現代ドラマとかミステリーとか、海外ならファンタジー小説ばかりだ。だから、まるで初めて聞いた言葉みたいに、フランス文学、と復唱してしまう。

 そんな私に相変わらず目線をあわせないまま、顎に指を添えて、ふっと口の端に笑みを浮かべた。


「哀れな男が死んだ女の妄想に取り憑かれて破滅する。ファム・ファタル作品が好きなのか、よりにもよって君が。」


 何か含みのある言い方に、少しむっとする。


「……好きだと何か不都合なんですか。」

「いいや。俺が感心してるのはそこじゃない。どうしてこうも同じ(わだち)を通ろうとしてるんだろうと。」


 まただ。彼は時折(ときおり)よくわからないことを言う。美音くんのことをいっているのだろうか。でも美音くんが好きなのは『めまい』じゃない。
 
 鳥だ。美音くんも『鳥』が好きだった。私よりも怖がりで、もとからホラー映画は苦手だといっていたのに、『鳥』は円盤で持っていた。

 そういえば、美音くんの部屋の書棚は、書店ではみたことのないような中古っぽい文学作品ばかり並んでいたけれど、今思うとあれらはほとんど、フランス人作家のものだったんじゃないか。

 本のことを話す美音くんを見たくて、読めもしないのにあれこれと美音くんに聞いたものだ。


──これ?これはプルースト。かなりの長編で、俺もまだ第1部しか読めてないんだけど、音寧も好きに読んでいいよ。──

──これは音寧が好きそうだな。邦題は『死者の中から』っていうんだけど、このヒロインがまさにファム・ファタルで……そう、男を破滅させる宿命の女なんだ──

 

「何だか、あなたと兄って──」


 よく似ている。そう言いかけたけれど、それとは少し異なる気がした。雰囲気も声も形も何もかもが違うのに、彼の中に兄の影を濃く感じる瞬間がある。でも、決定的に違う何かが彼を覆っている。

 いつの間にか動物の赤ちゃん特集は終わっていた。ニュースキャスターが8時を告げると、レオさんはさっさと食器を片付けて、あっという間にリビングをでていく。まるで最初から私なんていなかったみたいに。もともと静かだったこの場所は、いっそうその息を潜めていく。

 私も何だかぼんやりとした心地だった。もうすぐ試験だから、その勉強をしないといけないのに。コーヒーカップに指をひっかけたまま動作が止まってしまう。

 彼の言葉の端に浮かび上がる不穏な音、現実、ふつふつとした不思議な胸の高鳴り、そういったものが溶け込んで、カップの底でドロリと沈んでいる苦いものを、いつまでも飲み込めずにいた。