『妖精中毒』



 本当は、私のことが心底憎いのではないかと思った瞬間は多々あった。人が人に接するうえで最も恐ろしいのは無関心だ。彼は、まるで冷たく暗い井戸の底を見ているかのような、そんな視線を私に向ける。

 誘拐。だなんて、事実的に私を支えてくれている人に何て言い種だと思うけれど、その響きが妙にしっくりとはまって心に落ちてしまう。


 「……やめよう。」


 (もや)ををかき消すように深く息を吐いて、今度こそ本当にベッドから降りた。突然はじまった見知らぬ男との生活に、馴染めそうかと言われれば首を横に振りたい。でも、兄を失った私が頼れるのはもうこの人しかいない。

 1階に下りると、白い朝の光をたっぷりと浴びて、彼はコーヒーを淹れていた。いつもは紅茶だから珍しい。高い漆喰にまるで隠されているような家のに、この場所はいつも生まれたての光に包まれている。


「おはよう」


 私に気づくと、ソーサーを片手に持ったまま、目線だけをゆるやかに向ける。穏やかな夕波のような声が、朝日に冷たく溶けてゆく。その静謐(せいひつ)な動作に、私の張りつめていた意識が少しだけほぐれてゆくのがわかった。

 もう少しだけ、掟レオの薄いベールをめくってみたい。そんな気持ちにさせられた。

 私も余ったコーヒーをカップに注いで、レオさんの向かいに座ったけれど何も言われない。いつものように新聞をめくるその繊細な指先を追うみたいに、自然と話しかけていた。


「今日も大学の研究室?」

「そう。紀要の原稿を片付けにいく。」


 紀要論文のことは美音くんもよく頭を悩ませていたから知っている。学会誌に掲載されるような論文を執筆できるなんて、院生ってすごいなと思ったものだ。


「レオさんが大学に行く日は、私が朝食をつくってもいい?いつも用意してもらってるし。兄にもよく作ってたの。あとお掃除とかも─」

「好きにすればいいよ。ここは君の場所だから。」


 少しだけ、「しまった」と思って口をつぐむ。彼の前にいると、何となく兄の名前を出しずらい。冷たい膜が張られたような感覚に落ちてしまう。私自身が、彼と兄との関係性をまだ消化しきれていないのだとも思う。


「テレビつけてもいい?」


 彼が軽く頷くのを確認して、テレビをつける。おぼつかなく不安定なようで、それでも、とうとうと流れる平和な時間。すべてを失った自分が、またこんな休日の朝を過ごせるなんて思わなかった。


『──続いてのニュースです。小一女児誘拐殺人事件から10年となった今日、遺族と警察は引き続き情報提供を呼び掛けています。──』


 もくもくと新聞を読んでいたレオさんの動きがひたりと止まる。珍しくテレビの内容に集中しているみたいだ。

 定期的に流れるニュースだ。私が小学生の時に起きた事件だったから、よく覚えている。7才の女の子が下校中に何者かに連れ去られて、数日後に川の底で見つかった。被害者の子は、私と同い年だった。

 もう10年になるんだ。そう言おうとして彼をみたけれど、言葉を呑み込んだ。

 彼は息をしてない。トパーズ色の綺麗な瞳をじっと開いて、画面の向こうの狂気を淡々と見つめていた。いつもの真っ白な横顔は、少し血色が戻ってわずかにつやめいている。

 この人は、私をみていないのだ。最初から。

 なぜだろう。彼を彼たらしめる違和感の正体が、空気中にきらりと光ったかのようにみえた。