「私、ね」
今しかないと思った。ガラスの破片のような風が私を切り裂き押し流していくように。それはいわゆる、女の直感ってやつだったのかもしれない。
「──私、」
心臓も首筋もどくどくと痛いくらいに脈を打つ。とうとう抗おうとする愚かな私への最後通告のように、私の全身を震わせる。
兄は静かに私を見つめていた。22時を過ぎたリビングで、秒針の音も今は聞こえない。
そんな夜の静寂を湛える兄の気配に、息が詰まりそうになる。
ダメだ、もう、私は。
「美音くんが好きなの。」
夢の中で、もう何度吐き出した言葉だろう。それなのに、ただ声にするだけで唇は震えて、押し出されるように涙が溢れた。
例え私の身が壊れたって、絶対に、知られてはいけない想いだった。
「すき、ずっと、ずっと好きだった。」
私が生まれてまもない頃に父が他界し、10年前
に母も逝ってしまってから、7才離れた兄と2人きりで生きてきた。
母が死んだあの頃、家に知らない大人がやってきて、「コウケンニン」とか「ホケンキン」とか聞いたことのない言葉が飛びかって、不安で毎晩のように泣いていた。そんな見えない濁流に呑まれるようなある日に、
「まだ一緒に暮らせる」
と、美音くんに抱きすくめられたのを覚えている。じりじりと照りつけるような夏の日で、半袖から伸びる白い腕もまた震えていた。
私のこめかみに押しつけられた頬から涙の気配を感じて、その熱っぽさが幼い私を焼いた。
もうどれくらいになるだろう。同級生に告白されても、先輩と付き合っていても、ただひたすらに、美しい兄だけを私は見ていた。
世界中の誰よりも近い、でも決して手の届くことのない、届いてはいけない。そんな兄の姿だけを想い続けてきた。でもそれも、私のせいでついに朽ちようとしている。
「──音寧」
少し掠れた、優しい兄の声が聞こえる。私は肩を震わせた。視界がぼやけて、堪えきれない熱が頬をつたう。もう、どんな返事がくるのかなんてわかっていたから。
これで、すべてが崩れてしまう。これまでおぼろげに保ってきた兄妹愛の均衡が、今音もたてずに壊れようとしている。
私はもう兄の顔を見ることができなかった。でも涙をすべて拭って、しっかりと目にとどめておくべきだったんだと今なら思う。
その黒い髪や濡れた瞳、すっきりとした鼻筋に滑らかなカーブを描く輪郭、笑うと八の字になる眉毛、恋い焦がれてきた兄のすべてを。
今まで聞いたことのない声色の、思いがけない言葉がただひとつ、私の耳を打ったから。
「許してほしい。」
その夜に、兄は死んだ。大量の睡眠薬の抜け殻が、部屋中に散らばっていた。
