一匹オオカミ君と赤ずきんちゃん

「ありがとう、もう、ここでいいよ」

保健室のドアの前で愛原がか細い声を出す。
電話越しに聞こえた叫びとは違う、別人のような力の無い声。 
消す事の出来ない叫び声が脳内で鮮明に蘇った。

『全部私が悪いんだって分かってるから、もうやめて!』

記憶の中の痛々しい声が心臓を締め付ける。

俺が今、愛原に出来る事は――、

「愛原、少し話したい」

俺の言葉に、愛原は背を向けたまま帽子を引っ張る。

「それって帽子の話?」
「いや、俺の話だよ。聞いて欲しい事がある」
「分かった……」
 
愛原は静かに頷くと、保健室へと入っていった。
幸い、誰の気配も無い。
愛原は迷うように辺りを見渡ながら、部屋の奥にあるソファに腰かけた。
俺は視線が合わないように、一人分スペースを開けて隣に座る。

「見て欲しいものがある」

そう口にしてスマホを取り出すと、素早く操作してソファの上に置いた。
俺と愛原の間で可愛らしい猫の声が響く。
誰にも見せた事が無い一番大事にしている動画。
愛原は誘われるように俺のスマホを手にした。

「猫……?」

無表情だった愛原の顔が、花が咲いたように明るくなる。
おかげで自分の話をする覚悟が出来た。

「実家近くの公園に住みついてた野良猫だよ。背中のハート柄、可愛いだろ?」
「うん」
「俺、時々学校サボってさ、この猫と一緒に公園でご飯食べてたんだ」
「そうなんだ……名前はあるの?」
「俺はタマゴって呼んでた」
「タ、タマゴちゃん???」

愛原は首を傾げる。
確かに、猫の名前としては少し変わっているかもしれない。
名付けた当時を思い出して懐古に耽る。

「この猫、タマゴが好きなんだ。たぶん……」
「たぶん?」
「はじめて会った時、俺が食べてたタマゴサンドを凄いねだられてさ」
「だからタマゴちゃん?」
「あぁ、けど、タマゴサンドって猫の体にはあまり良くなさそうだろ? だから、公園に行く時はいつも家からゆで卵を持って行ってたんだ」
「えっと……自分で茹でてたの?」

目を丸くする愛原。

「そう、けっこう家庭的だろ?」

ドヤ顔でおどけて見せると、愛原は安心したように微笑む。
何となくだが距離が近づいた気がした。

「そしてあの日もそうだった。この猫と公園で昼寝してたら、変な奴らに絡まれた」
「あの日って?」
「んー、俺が武勇伝を作った日」

調子にのっておどけてみせると、愛原の顔が強張る。