慎司の指先に、まだ春菜の震えが残っている。
 USBを百地に預けた瞬間から、店内の空気は何事もなかったように元の熱と匂いを取り戻した。

 「……ごめんなさい。ごめんなさい……」

 春菜は何度も頭を下げ、泣き笑いを繰り返した。
 百地は何も言わず、鉄板を磨いている。

 「もう大丈夫だ。」

 慎司が短く告げると、春菜は頷きながらも慎司の袖を離そうとしなかった。
 カウンターの奥で、里奈が微かに笑っている。

 「……私……私、バカですね……。
 こんなことになって……もう、どうしたら……。」

 涙混じりの声が途切れ、春菜はゆっくりと顔を上げた。
 頬は赤く、目元も潤んでいる。

 「……高村さん……もう、私……どうにでも……」

 春菜の手が慎司の胸元に伸びる。
 指先がシャツのボタンを一つ外す。

 「ホテル……行きたいです……。
 お願い……抱いてください……。」

 店内の誰もが見ないふりをしている。
 慎司だけが、春菜の瞳を真っ直ぐに見つめていた。

 ――あと少し、あと少しで全部手に入る。

 それでも慎司は、ゆっくりと首を横に振った。

 「……俺は、こういう時は興ざめするんだ。」

 春菜の肩が、小さく震えた。

 「先生は先生に戻れ。
 今日のことは、全部ここで終わりにしろ。」

 慎司の言葉に、春菜の目からまた涙が溢れた。

 「……はい……」

 声は小さいのに、ちゃんと届いた。

 店を出る時、春菜は振り返って一度だけ微笑んだ。
 泣き虫教師は、明日からまた誰かの前で強い大人に戻る。

 慎司は鉄板前に戻り、冷めたジョッキを一気に空けた。

 「また面倒を片付けましたね。」

 里奈のからかう声が背中越しに聞こえる。

 「余計な世話だ。」

 慎司は笑い、ポケットからスマホを取り出した。

 新しい通知が光っている。

 『玲奈(27)/0.8km圏内』

 慎司は無言で画面を閉じ、店主の百地に軽く頭を下げた。

 ――煙の奥には、まだ面倒な女がいくらでもいる。

 外に出ると、丸の内のビル街が夜の匂いを漂わせている。

 慎司は心の中で、いつもの一言を繰り返した。

 「……行きたい店がある。」