あの夏、金木犀が揺れた

授業が始まっても、私の頭は彼のことばかりだった。

ノートに書く文字は乱れ、教師の声は遠い。

隣の琥太郎は、机に突っ伏して眠っているのか、ただ目を閉じているのかわからない。

彼の制服の袖から、細い傷跡が覗いた。

あの夏の彼にはなかったもの。

何があったの、琥太郎。

あなたをこんな目にさせたのは、誰?

胸が締め付けられる。

あの時、私が「行かないで」と言えていたら、何か変わっていたのだろうか。

昼休み、クラスメイトたちが騒がしく席を立つ中、琥太郎は一人、窓際で弁当を広げていた。

誰も彼に近づかない。

不良の噂が、すでに広がっているのかもしれない。

私は生徒会の書類を手に、席を立つ勇気が持てなかった。

でも、机の引き出しに触れた時、指先に硬い感触。

筆箱の奥に隠した、金木犀の押し花。

小学六年の夏、校庭の木の下で、彼が笑って渡してくれた。

「コハク、宝物な」と、照れた顔で。

その記憶に背中を押されるように、私は立ち上がった。

「琥太郎」

名前を呼ぶと、彼の手がピクリと止まる。

「何だよ、雨宮」

声は冷たいけど、目が私を捉える。

「…あの、押し花、覚えてる?」

言葉が勝手に出ていた。

琥太郎の眉がわずかに動く。

「は?何の話だよ」

そっけない答え。

でも、彼の指が弁当の箸を握りしめているのに気づいた。

嘘をつく時の、昔からの癖。

金木犀の香りが、教室の空気に混じる。

あの夏、言えなかった言葉が、喉の奥で疼く。

「君が、昔、くれたの。まだ持ってるよ」

私の声は小さかったけど、彼の目が一瞬、揺れた。

「…ふん、くだらねえな」

琥太郎はそう吐き捨てて、弁当を片付けて教室を出て行った。