今年の夏も猛暑続きで、毎日全国のどこかで、集団熱中症の救急搬送されたというニュースや、高温障害による不生育で野菜が高騰しているという残念なニュースが続いている。
美紗子も通勤中に倒れないよう暑さ対策グッズを詰め込んだ荷物を抱え、休憩は爽やかな夏を唄う翔太の歌声を聴きながら、暑い毎日を乗り切ろうとしている。
来春スタート予定のライブツアーに向け、翔太は秋に発売予定の新しいアルバムのプロモーションやライブ構成の打ち合わせで忙しいらしい。
世間の子供たちは夏休みに入り、平日の昼間は街も賑やかだ。美紗子の夏休みはお盆期間の3日間だ。
今年も莉子と実家で過ごす予定だが、時々顔を出して両親の様子は見ているため、さほど大した予定ではない。
たまには両親を近場ででも食事に連れて行こうかと、昼休みにお弁当を食べ終えた後、携帯で店を検索していると、突然携帯の画面が電話の着信画面に変わった。
和也からだ。
「急にごめん。ちょっと話があるんで、時間作ってもらえるかな?」
「元気?何気に久しぶりだね。夜ならいつでも大丈夫だけど、莉子も一緒のほうがいい?」
「あぁ…いや、いない方がいいな。じゃあ明日の夜、たまには一緒に飯でも」
「そうね、いいわよ。」
和也が予約して待ち合わせた店は、美紗子が働く職場から歩いて5分くらいのところにある創作和食の店だった。和モダンの内装に仄暗い照明が大人の落ち着きを感じさせる全個室のその店は全テーブル席で着席しやすい。
「美紗子、なんだか感じが変わったな」
「え?老けた?」
「いや、なんか明るくなった…って、前が暗かったってわけじゃないけど、なんていうか若くなったような綺麗になった」
「やだ、ありがとう。元夫に言われるとなんだか照れくさいな…そういうあなたも髪の毛の色は変わらないけど、パーマ…あ、ツイストパーマっていうの?イケオジ風で合ってる」
久しぶりに合う元夫婦はお互いを褒め合って笑う。
「職場の近くにこんな素敵な店があるなんて知らなかったわ」
「工場のパートさんに旨い飯屋ないかって聞いて勧められた店なんだけど、一人で行くとこじゃねぇなって。俺は普段一人でも行けるような安くて旨い系の飯屋って意味で聞いたのに、何を勘違いしたのかこんな洒落た店紹介されてさ」
和也は笑い話をするように何だか楽しそうに話す。
和也に合ったいい職場なのだろうということが伝わってくる。
「ちょうど私との約束に使えたわけね。今度莉子も連れて来てあげてよ」
「そうだな。」
「で、今日は話って?」
美紗子は注文したレモンサワーを一口飲んだ。
和也は飲んでいたビールを慌てて置き、座り直して改まった。美紗子は和也の様子に、何を告げられるのか急に不安になり身構えた。
「美紗子の口座番号を教えてほしいんだ」
「口座番号?」
金の無心か…和也が借金をしたのかと一瞬思ったが、口座番号とはおかしい。
「ちょっとよく理解できないんだけど…」
「美紗子に、これまでの莉子の養育費を渡したいんだ」
美紗子は驚いてすぐに言葉が出てこなかった。
「いや…もう莉子は成人したんだし、それなら莉子のいつかの結婚資金として、その時が来たら渡してあげてよ」
「いや、それじゃ俺の気が治まらないんだ。慰謝料や養育費も払えずに莉子を完全に押し付けて、今は自由に莉子と会って父親ぶってさ…だから定職に就いてからずっと、いつか美紗子に渡すつもりでまとまった金になるまで貯めてたんだ。莉子が結婚する時にはそれはまた別でちゃんとするつもりだから、まとまった金って言っても大した金額じゃないけど、受け取ってほしいってことをちゃんと面と向かって言いたくて」
美紗子は言葉に詰まった。
本当はこんなに人として父親としてきちんと出来る人なのに、最後まで支えることも信じ切ることも出来なかった罪悪感で自分が薄情な人間に思えてくる。
「私は…もらう資格なんてないよ。あの時、ある意味あなたを切り捨てたようなもんなのよ。自分と莉子の生活を守るために…」
「それでよかったんだ。そうでなきゃもっと最悪なことになっていたかもしれないって思うんだ。あの事件は、俺にとっちゃたまたまその会社に勤めてたってだけで、とばっちりだと思ってるよ。だけど、それは単なるきっかけで、その後の仕事がうまくいかなかったのは自分の変なプライドを脱ぎ切れなかったせいだし、うまくいかないことにいじけて自分の中に閉じこもって吐き出せなくて爆発して…。追い詰められた時、自分の本当の人間性を知られたみたいで、格好悪すぎて何もかも怖かったんだ。」
美紗子の中の、あの不安で張り裂けそうだった気持ちは、何年も経って今、「そんなことがあった」という記憶だけになっている。
「もう過ぎたことだよ。今はこうして和也もちゃんと自分を取り戻せてるじゃない。私は、莉子がいてくれたけど、あなたは寂しかったんじゃない?」
和也は頭を下げて目頭を押さえた。そしてすぐに顔を上げた。
「別れたから、色んな自分に気づけて取り戻せたんだと思う。美紗子が大変だった分を今更金でチャラにしようってわけじゃない。これからも父親としてよろしくお願いしますっていう意味も込めて受け取って欲しい」
この申し出を頑なに断ったら、また少なからず和也を傷つけるのだろう。
「わかった。色々考えてくれてのことだと思うから、受け入れます」
和也の顔が安心したようにパッと清々しい笑顔に変わった。和也は気持ちを切り替えるようにロマンスグレーの髪を両手でかきあげ、携帯を取り出した。
「じゃあ、口座番号を」
「そんな口座番号なんて急に言われてもわからないわよ」
「キャッシュカードとかに書いてるだろ?」
「私、簡単に引き出せないようにカードは持ち歩かない主義なの」
「はぁ…しっかりしてんな」
感心しているのか呆れているのか、和也はふっと笑った。
「それにしても、なんで振込?こういう時ってなんかこう…現金手渡すってドラマでよくあるじゃない?」
「だってさ、札束とかカバンに入れたりして怖いだろ。誰かに銀行で引き出すの見られてつけられて襲われでもしたらさ…だから振込がいいかなって。美紗子だって、大金カバンに入れて持って帰る途中、狙われて襲われでもしたら…」
美紗子は吹き出した。
「和也こそ…しっかりしてんのね」
二人は笑った。
玄関ドアの鍵を開け、「ただいま」と声をかけると、「おかえりー」と奥から莉子の返事が返ってきた。
これからお父さんが家に寄るからお茶の準備をしておくように、さっき莉子に電話を入れた。
「お邪魔します」
和也がリビングに入ってきて、莉子を見て微笑む。
「いらっしゃい。さ、座ってどうぞ」
莉子が淹れたコーヒーを和也の前に置いた。
「なんか変な感じ」
そう言って両親を交互に見ながら笑った莉子の顔はとても嬉しそうだった。
久しぶりに家族が揃ったことに、娘としては違和感と幸福感が入り混じった不思議な気持ちなのだろうか。
家に帰ったら口座番号を写した画像を送ると美紗子は言ったが、和也は適度な酒の酔いで莉子にも会いたくなったのだろう。美紗子を遅いから家まで送ると言って引かないため、初めて和也を家に招き入れた。
「お母さん、受入れてくれた?」
莉子が和也に聞いた。
「え?莉子知ってたの?」
美紗子は驚いて2人の顔を交互に見る。
「受け入れてくれたよ」
「お母さんのことだから、お父さん撃沈するかもって予想してたんだけど」
和也は莉子が淹れたコーヒーを飲みながら微笑む。
「莉子も知ってたなら、一緒でよかったじゃない」
「二人の方がいいって私が言ったの」
何だか仕組まれていたようで、美紗子は少々ムッとした。
和也は通帳の口座番号部分をカメラに収めた。
「次の休みの日に振込手続きするから」
美紗子は和也に「ありがとう」と頭を下げた。
莉子はその様子を見届けながら言った。
「お母さん、それで遠征とか旅行行ってくればいいじゃん。お父さん、お母さんね、岩崎翔太のファンクラブツアーにいつか行くんだって頑張ってるんだよ。お母さん、お父さんが買ってくれた岩崎翔太のライブ行ってから活き活きしてずっと楽しそうなの」
余計なことを言うなと言わんばかりに美紗子は莉子の腕を叩く。
「だからか。久しぶりに美紗子見て、なんだか若くなったなと思ったのは。岩崎翔太効果は絶大なんだな。ファンクラブ旅行っていうの?慰安旅行としていいじゃない。行ってくれば」
「ありがとう。…考えてみる」
美紗子と莉子に見送られ、和也は上機嫌に帰って行った。
「お父さん、なんか楽しそうだったな。お酒入ってるからか」
「そう?お母さんのこと明るくなったって言ってくれてたけど、お父さんも前の印象より若々しくなってこんな話す人だったかなぁって思ったんだけど、チリチリパーマとお酒のせいか」
莉子は「それギリギリ悪口」と笑いながら和也の飲んだコーヒーカップをシンクに移動させる。
「彼女でもできたんじゃない?」
冷やかすように莉子が言った。
「ほら、恋するとみんな若くなったり綺麗になったりするから」
莉子が美紗子を見て指差しながら口元を押さえて笑う。
「お母さん、本当にファンクラブツアー行ってくれば?せっかくお父さんもあぁ言ってくれてるし。その方がお父さん、もっと気が楽になると思うよ」
「うん…嬉しいわ。でも金額が…」
ファンクラブツアーよりも時間旅行の料金一覧表が美紗子の脳をかすめていた。
「お母さん、すぐ金額気にするの悪い癖。お父さんがくれるんだから心配する必要ないでしょ?」
美紗子は言うべきか言わざるべきか迷い出した。
美紗子が本当に行きたいところは【時間旅行】だ。
悶々としていた違和感が今、美紗子の中ではっきりとした。
行かなければ美紗子の中だけで閉まっておけることだ。
莉子に打ち明けたら、莉子はどうするだろう。
行くと決め、誰にも言わず黙って行くことは、美紗子の性格的に出来ない。
詳細は打ち明けられない規則であっても、莉子の同意だけはないと、【時間旅行】には行けない。
和也のおかげで行くことが可能になるのに、その和也にも言えずに行くこともひっかかる。
「…あのね、莉子。お母さんが行きたいのは…時間旅行なの」
ダメなら早いうちに諦めて気持ちを切り替えたい。
美紗子は思い切って言った。
莉子は驚いて体の動きがビタッと止まった。
先日旅行会社で説明を受けたことも莉子に話した。
「詳しいことは規則で言えないんだけど…」
莉子は考え込むように黙った。
「ごめんごめん、びっくりしたよね」
美紗子は笑って両手を顔の前で合わせてごめんのポーズをする。
「とりあえず今日は早くお風呂入って寝よ。」
言ったことを少し後悔しそうになりながら美紗子は風呂の準備をした。
数日後、和也から振り込んだから確認するよう連絡が入った。記帳すると、その振り込まれた金額に驚き、すぐ電話をかけた。300万もはいっている。
「確認しました。まとまったお金って言ってたけど、ちょっと多すぎて驚いちゃって…私頂けないよ…」
「もう振り込んだから美紗子の自由なんだよ。10年ちょっとでその程度じゃ少ない方だぞ。具体的に金額言ったら絶対に拒否すると思ってたから、振り込んじゃえば簡単に返せないし、これも作戦のうち」
和也は笑い飛ばす。言葉を返せず黙る美紗子に
「莉子と会うようになってから莉子が話す美紗子を聞いてて、うまく言えないけど何ていうか…もっと思い切り何かしてほしいって思う。俺のせいでもあるけど、ずっとこじんまりと莉子のためだけに生きてきた気がするからさ。岩崎翔太のファンで楽しくやってるって聞いて俺は嬉しかったよ。だから、これからもっと楽しく暮らして欲しいんだ。俺もこれから楽しんで生きるからさ」
「…ありがとう」
「この前会った時、美紗子が俺に【ちゃんと自分を取り戻せてる】って言ってくれて嬉しかったよ。自信がついた気がする。今度また3人で飯行こうな」
「うん。ありがとう」
美紗子も通勤中に倒れないよう暑さ対策グッズを詰め込んだ荷物を抱え、休憩は爽やかな夏を唄う翔太の歌声を聴きながら、暑い毎日を乗り切ろうとしている。
来春スタート予定のライブツアーに向け、翔太は秋に発売予定の新しいアルバムのプロモーションやライブ構成の打ち合わせで忙しいらしい。
世間の子供たちは夏休みに入り、平日の昼間は街も賑やかだ。美紗子の夏休みはお盆期間の3日間だ。
今年も莉子と実家で過ごす予定だが、時々顔を出して両親の様子は見ているため、さほど大した予定ではない。
たまには両親を近場ででも食事に連れて行こうかと、昼休みにお弁当を食べ終えた後、携帯で店を検索していると、突然携帯の画面が電話の着信画面に変わった。
和也からだ。
「急にごめん。ちょっと話があるんで、時間作ってもらえるかな?」
「元気?何気に久しぶりだね。夜ならいつでも大丈夫だけど、莉子も一緒のほうがいい?」
「あぁ…いや、いない方がいいな。じゃあ明日の夜、たまには一緒に飯でも」
「そうね、いいわよ。」
和也が予約して待ち合わせた店は、美紗子が働く職場から歩いて5分くらいのところにある創作和食の店だった。和モダンの内装に仄暗い照明が大人の落ち着きを感じさせる全個室のその店は全テーブル席で着席しやすい。
「美紗子、なんだか感じが変わったな」
「え?老けた?」
「いや、なんか明るくなった…って、前が暗かったってわけじゃないけど、なんていうか若くなったような綺麗になった」
「やだ、ありがとう。元夫に言われるとなんだか照れくさいな…そういうあなたも髪の毛の色は変わらないけど、パーマ…あ、ツイストパーマっていうの?イケオジ風で合ってる」
久しぶりに合う元夫婦はお互いを褒め合って笑う。
「職場の近くにこんな素敵な店があるなんて知らなかったわ」
「工場のパートさんに旨い飯屋ないかって聞いて勧められた店なんだけど、一人で行くとこじゃねぇなって。俺は普段一人でも行けるような安くて旨い系の飯屋って意味で聞いたのに、何を勘違いしたのかこんな洒落た店紹介されてさ」
和也は笑い話をするように何だか楽しそうに話す。
和也に合ったいい職場なのだろうということが伝わってくる。
「ちょうど私との約束に使えたわけね。今度莉子も連れて来てあげてよ」
「そうだな。」
「で、今日は話って?」
美紗子は注文したレモンサワーを一口飲んだ。
和也は飲んでいたビールを慌てて置き、座り直して改まった。美紗子は和也の様子に、何を告げられるのか急に不安になり身構えた。
「美紗子の口座番号を教えてほしいんだ」
「口座番号?」
金の無心か…和也が借金をしたのかと一瞬思ったが、口座番号とはおかしい。
「ちょっとよく理解できないんだけど…」
「美紗子に、これまでの莉子の養育費を渡したいんだ」
美紗子は驚いてすぐに言葉が出てこなかった。
「いや…もう莉子は成人したんだし、それなら莉子のいつかの結婚資金として、その時が来たら渡してあげてよ」
「いや、それじゃ俺の気が治まらないんだ。慰謝料や養育費も払えずに莉子を完全に押し付けて、今は自由に莉子と会って父親ぶってさ…だから定職に就いてからずっと、いつか美紗子に渡すつもりでまとまった金になるまで貯めてたんだ。莉子が結婚する時にはそれはまた別でちゃんとするつもりだから、まとまった金って言っても大した金額じゃないけど、受け取ってほしいってことをちゃんと面と向かって言いたくて」
美紗子は言葉に詰まった。
本当はこんなに人として父親としてきちんと出来る人なのに、最後まで支えることも信じ切ることも出来なかった罪悪感で自分が薄情な人間に思えてくる。
「私は…もらう資格なんてないよ。あの時、ある意味あなたを切り捨てたようなもんなのよ。自分と莉子の生活を守るために…」
「それでよかったんだ。そうでなきゃもっと最悪なことになっていたかもしれないって思うんだ。あの事件は、俺にとっちゃたまたまその会社に勤めてたってだけで、とばっちりだと思ってるよ。だけど、それは単なるきっかけで、その後の仕事がうまくいかなかったのは自分の変なプライドを脱ぎ切れなかったせいだし、うまくいかないことにいじけて自分の中に閉じこもって吐き出せなくて爆発して…。追い詰められた時、自分の本当の人間性を知られたみたいで、格好悪すぎて何もかも怖かったんだ。」
美紗子の中の、あの不安で張り裂けそうだった気持ちは、何年も経って今、「そんなことがあった」という記憶だけになっている。
「もう過ぎたことだよ。今はこうして和也もちゃんと自分を取り戻せてるじゃない。私は、莉子がいてくれたけど、あなたは寂しかったんじゃない?」
和也は頭を下げて目頭を押さえた。そしてすぐに顔を上げた。
「別れたから、色んな自分に気づけて取り戻せたんだと思う。美紗子が大変だった分を今更金でチャラにしようってわけじゃない。これからも父親としてよろしくお願いしますっていう意味も込めて受け取って欲しい」
この申し出を頑なに断ったら、また少なからず和也を傷つけるのだろう。
「わかった。色々考えてくれてのことだと思うから、受け入れます」
和也の顔が安心したようにパッと清々しい笑顔に変わった。和也は気持ちを切り替えるようにロマンスグレーの髪を両手でかきあげ、携帯を取り出した。
「じゃあ、口座番号を」
「そんな口座番号なんて急に言われてもわからないわよ」
「キャッシュカードとかに書いてるだろ?」
「私、簡単に引き出せないようにカードは持ち歩かない主義なの」
「はぁ…しっかりしてんな」
感心しているのか呆れているのか、和也はふっと笑った。
「それにしても、なんで振込?こういう時ってなんかこう…現金手渡すってドラマでよくあるじゃない?」
「だってさ、札束とかカバンに入れたりして怖いだろ。誰かに銀行で引き出すの見られてつけられて襲われでもしたらさ…だから振込がいいかなって。美紗子だって、大金カバンに入れて持って帰る途中、狙われて襲われでもしたら…」
美紗子は吹き出した。
「和也こそ…しっかりしてんのね」
二人は笑った。
玄関ドアの鍵を開け、「ただいま」と声をかけると、「おかえりー」と奥から莉子の返事が返ってきた。
これからお父さんが家に寄るからお茶の準備をしておくように、さっき莉子に電話を入れた。
「お邪魔します」
和也がリビングに入ってきて、莉子を見て微笑む。
「いらっしゃい。さ、座ってどうぞ」
莉子が淹れたコーヒーを和也の前に置いた。
「なんか変な感じ」
そう言って両親を交互に見ながら笑った莉子の顔はとても嬉しそうだった。
久しぶりに家族が揃ったことに、娘としては違和感と幸福感が入り混じった不思議な気持ちなのだろうか。
家に帰ったら口座番号を写した画像を送ると美紗子は言ったが、和也は適度な酒の酔いで莉子にも会いたくなったのだろう。美紗子を遅いから家まで送ると言って引かないため、初めて和也を家に招き入れた。
「お母さん、受入れてくれた?」
莉子が和也に聞いた。
「え?莉子知ってたの?」
美紗子は驚いて2人の顔を交互に見る。
「受け入れてくれたよ」
「お母さんのことだから、お父さん撃沈するかもって予想してたんだけど」
和也は莉子が淹れたコーヒーを飲みながら微笑む。
「莉子も知ってたなら、一緒でよかったじゃない」
「二人の方がいいって私が言ったの」
何だか仕組まれていたようで、美紗子は少々ムッとした。
和也は通帳の口座番号部分をカメラに収めた。
「次の休みの日に振込手続きするから」
美紗子は和也に「ありがとう」と頭を下げた。
莉子はその様子を見届けながら言った。
「お母さん、それで遠征とか旅行行ってくればいいじゃん。お父さん、お母さんね、岩崎翔太のファンクラブツアーにいつか行くんだって頑張ってるんだよ。お母さん、お父さんが買ってくれた岩崎翔太のライブ行ってから活き活きしてずっと楽しそうなの」
余計なことを言うなと言わんばかりに美紗子は莉子の腕を叩く。
「だからか。久しぶりに美紗子見て、なんだか若くなったなと思ったのは。岩崎翔太効果は絶大なんだな。ファンクラブ旅行っていうの?慰安旅行としていいじゃない。行ってくれば」
「ありがとう。…考えてみる」
美紗子と莉子に見送られ、和也は上機嫌に帰って行った。
「お父さん、なんか楽しそうだったな。お酒入ってるからか」
「そう?お母さんのこと明るくなったって言ってくれてたけど、お父さんも前の印象より若々しくなってこんな話す人だったかなぁって思ったんだけど、チリチリパーマとお酒のせいか」
莉子は「それギリギリ悪口」と笑いながら和也の飲んだコーヒーカップをシンクに移動させる。
「彼女でもできたんじゃない?」
冷やかすように莉子が言った。
「ほら、恋するとみんな若くなったり綺麗になったりするから」
莉子が美紗子を見て指差しながら口元を押さえて笑う。
「お母さん、本当にファンクラブツアー行ってくれば?せっかくお父さんもあぁ言ってくれてるし。その方がお父さん、もっと気が楽になると思うよ」
「うん…嬉しいわ。でも金額が…」
ファンクラブツアーよりも時間旅行の料金一覧表が美紗子の脳をかすめていた。
「お母さん、すぐ金額気にするの悪い癖。お父さんがくれるんだから心配する必要ないでしょ?」
美紗子は言うべきか言わざるべきか迷い出した。
美紗子が本当に行きたいところは【時間旅行】だ。
悶々としていた違和感が今、美紗子の中ではっきりとした。
行かなければ美紗子の中だけで閉まっておけることだ。
莉子に打ち明けたら、莉子はどうするだろう。
行くと決め、誰にも言わず黙って行くことは、美紗子の性格的に出来ない。
詳細は打ち明けられない規則であっても、莉子の同意だけはないと、【時間旅行】には行けない。
和也のおかげで行くことが可能になるのに、その和也にも言えずに行くこともひっかかる。
「…あのね、莉子。お母さんが行きたいのは…時間旅行なの」
ダメなら早いうちに諦めて気持ちを切り替えたい。
美紗子は思い切って言った。
莉子は驚いて体の動きがビタッと止まった。
先日旅行会社で説明を受けたことも莉子に話した。
「詳しいことは規則で言えないんだけど…」
莉子は考え込むように黙った。
「ごめんごめん、びっくりしたよね」
美紗子は笑って両手を顔の前で合わせてごめんのポーズをする。
「とりあえず今日は早くお風呂入って寝よ。」
言ったことを少し後悔しそうになりながら美紗子は風呂の準備をした。
数日後、和也から振り込んだから確認するよう連絡が入った。記帳すると、その振り込まれた金額に驚き、すぐ電話をかけた。300万もはいっている。
「確認しました。まとまったお金って言ってたけど、ちょっと多すぎて驚いちゃって…私頂けないよ…」
「もう振り込んだから美紗子の自由なんだよ。10年ちょっとでその程度じゃ少ない方だぞ。具体的に金額言ったら絶対に拒否すると思ってたから、振り込んじゃえば簡単に返せないし、これも作戦のうち」
和也は笑い飛ばす。言葉を返せず黙る美紗子に
「莉子と会うようになってから莉子が話す美紗子を聞いてて、うまく言えないけど何ていうか…もっと思い切り何かしてほしいって思う。俺のせいでもあるけど、ずっとこじんまりと莉子のためだけに生きてきた気がするからさ。岩崎翔太のファンで楽しくやってるって聞いて俺は嬉しかったよ。だから、これからもっと楽しく暮らして欲しいんだ。俺もこれから楽しんで生きるからさ」
「…ありがとう」
「この前会った時、美紗子が俺に【ちゃんと自分を取り戻せてる】って言ってくれて嬉しかったよ。自信がついた気がする。今度また3人で飯行こうな」
「うん。ありがとう」

