Someday 〜未来で逢いましょう〜

イベントに参加した後しばらく、あの一瞬見つめ合ったような翔太の目が思い出され、しょっちゅう美紗子の脳を支配して調子を狂わせる。夢と現実を一緒にしてしまいそうになる。
「好きな人がこちらの方を向いただけで、目が合ったとか私を見たとか思うのは、ファンあるあるよ。そんなラッキーがあるから楽しくて止められないんじゃない?」
由希が帰りの電車の中でそう言った。
それ以上の何かを望みそうになる心理もあるあるなのだろうか。
そんな出来事が、少しでも綺麗でいたい、綺麗になりたいと思う恋する少女のような忘れかけていた気持ちへと繋がっていく。
こんな歳になって、メイクや服への興味が急速に芽生え出した美紗子は今、まさにそれだ。
莉子に手厳しい指導を受けることも多々ある。
翔太に会うための礼儀正装とでも言おうか、エステや高い化粧品、高級な服は買えなくても、持っているものや割安なものでいかに自分を整えることができるか。それを探求することが今、楽しくて仕方ない。
美紗子の職場が入っているビルの一階に大きなドラッグストアがあり、ここ最近、仕事帰りに立ち寄っては、莉子も大好きプチプラ商品をあれこれ試して帰るのが楽しみになった。
そしてもう一つ、新たな楽しみが追加された。
ファンクラブ設立当時から発行されてきた会報のバックナンバーが、会員特典として携帯から閲覧できることになった。
紙媒体だった過去の会報をデジタル化し、好きに遡って見ることができるというのだ。年に2〜3回発行されてきた会報が約三十数年分程ある。
ちょっとした本の容量くらいはあるのだろうか。
文章と写真で毎日少しずつ見進め、ちょっとした楽しみだったが、もう既に一巡した。
美紗子が子育てしていた間に続いていた翔太の活動を記したインタビューや日記形式で書かれた文章や写真。
美紗子が知る若い頃に遡って1枚1枚指を横にスライドさせながらめくっていく。
若い頃はもちろん好きだし、今現在の渋い翔太も素敵だ。
ただ、美紗子が最も翔太に魅力的を感じるのは、翔太が40歳の頃。美紗子が見ていなかった時期の翔太だった。
少し悪ぶった感じの服装や小物を身につけながら、優しい笑顔とのギャップが、美紗子の中にまだ残る乙女心をストレートに突く。
48歳の自分と、ちょうど40歳の翔太を同じ40代として無理やり頭の中で括る。
翔太のこの時期を見逃していた自分が腹立たしい。
今、自分の周りにいる男性と言えば、自分自身を甘やかした体型に開き直って毎晩深酒を繰り返す数人のおじ様方、まだ若いのに自分磨きを諦めて2次元の世界へ身を投じている若者、部下に負担や責任を強いる保身第一の中間管理職の上司達…クセが強いのか、我が道にある意味ブレていないのか疑問な職場の人間くらいだ。
パートだった時は社員やバイトの出入りが激しかった分、学生から高齢者までの色々な男性がいた。
気持ちの余裕もなかったが、改めて振り返るとこれまでに素敵出会いはなかったということだ。
岩崎翔太を推すようになって、別世界にいる翔太と我々庶民を同じ土俵で見るほうがどうかしていると思うが、美紗子の中で翔太が理想の男性像となり、翔太が普通男性の基準になってしまうことは、現実を見ることができなくなっているということだと自分に警告を鳴らす。
あまりのめり込まないように自分を制御しないと、苦しい思いをする予感が美紗子に迫ってくるような気がした。

とある日曜日、莉子は和也に会うと昼前に出かけて行った。
美紗子はそれを見送ったあと、残り物で昼食を早めに済ませ、駅周辺にあるドラッグストアやセール品の洋服をチェックしに出かけた。
季節は春から夏に変わりつつあり、休日の午後に街を行き交う人々が身につける服の色は華やかに変わり、街の喧騒が軽やかに感じる。
美紗子は店を一通りチェックし、今日はこれと言った収獲がない判断をした。駅ビルの中にあるスーパーで軽く買い物して帰るか…スーパーへ向かう途中に通りすがった旅行代理店のパンフレットスタンドに目が止まった。
「九州へ行こう」と題して、九州各県のパンフレットが並ぶ。そう言えば翔太の直近のツアー先は九州だ。
これまで九州へ足を踏み入れたことのない美紗子は、並んだパンフレットを手に取ってパラパラめくる。
そういえば、こんなふうに旅行パンフレットを目にすること…いや、旅行会社に立ち寄ること自体、しばらく記憶にない。
こうしてパンフレットを目にして立ち止まった自分が心の余裕を持てたようで嬉しい。
店内は国内外さまざまな都市名が刻まれたパンフレットがズラッと並び、それだけで楽しくなることが約束されるようだ。
誰かと旅行を楽しむ自分を思い描き、顔がほころぶ自分に気づく。
手に取ったパンフレットを元に戻しながら、ふと横奥の一番隅にある単独のパンフレットスタンドが目に入った。
ひっそりと、目についてほしいのかほしくないのか、他のパンフレットとは明らかに違うシンプルな、まるで何かの会議資料のようなパンフレットだった。
対応中のお客が数人いる程度の空いた店内へ少し入り込み、そのなぜか気になってしまったシンプルなパンフレットを手にした。
「時間旅行で新たな世界を」
数年前に話題となった時間旅行のパンフレットだった。
都市伝説のような感覚を持っていたが、本当にあったことに驚くとともに、美紗子は単なる興味本位とは少し違う、妙に惹きつけられる感覚を覚えながらパンフレットを手に取った。
「ご興味おありですか?」
細い声で囁くように店員が声をかけてきた。
イニシャルの上に店長と刻まれた名札が目に入って少し驚いた。
声ばかりか体まで細い脆さを感じ、細い銀縁の薄い眼鏡をかけた知的で真面目な年齢不詳の印象で、一見失礼ながらとても店長には見えない。
美紗子は思いがけず声をかけられて、慌てて絵や画像のほとんどないその資料のようなパンフレットをもとに戻しながら、
「あ、いや、あの…都市伝説かと思っていたところもあったので…」
と口ごもりながら言った。
店長はにっこり微笑みながら、
「ご興味がおありでしたら、お声がけください」
強引なセールスをするわけでもなく、そう言ってその場を去ろうとした店長に、美紗子は後ろから咄嗟に
「本当に…あるんですか?」
どこか夢物語のようで信じられず、つい声をかけてしまった。
店長は改まったように、少し美紗子に顔を近づけながら耳打ちするように小声で話し出した。
「私も実際に行ったことはないのですが…このツアーに関しては立ち話でご案内できない規則になっているんです。説明を受けたから申し込まなきゃいけないということは一切ないのですが、簡単な説明だけでも他言無用の誓約書等色々面倒な手続きあるので、お客様に強引な勧誘はできないのです。」
「そうなんですね…」
美紗子は返答ながら、面倒そうだという気持ちと、湧き上がる興味とで、胸の鼓動が速くなっていることに気づいた。
「あの…誓約書、書きます」
興味が勝ってしまった。
どこまで話を聞けるのかわからないが、真面目な性格なので言われたことはきっちりと守るタイプだと自負している。
自分でも珍しい行動に出たことに自分で驚いた。

職員がいるデスクの脇の通路を通り、突き当たった扉の奥に通された。
「どうぞこちらへおかけ下さい」
椅子とテーブルだけのシンプルな応接室だ。
「ご説明の前に、確認とご了承を願いたいのですが、あちらにカメラがございます。誓約書をお書きいただくと共に、説明をさせていただく様子を撮らせていただき、誓約書と身分証明書、動画を時間旅行運営の機関に提出することになっております。本当によろしいでしょうか?」
「え…あ…は、はい…」
なんだか重大な事件に首を突っ込んでしまったような、本当に面倒なことになってしまったような、後に引けない緊張が走った。
店長は、部屋の角に一つだけ設置された鍵付きの引き出しから鍵でその引き出しを開け、書類を取り出してテーブルに置いた。
「では、始めますね。カメラがあるので緊張なさるかもしれませんが、これは説明する私を監視するためにもありますから…私も時間旅行についてのご案内は、時間旅行の発表があってからまだ3度目なんです。」
店長は話し相手をなるべく安心させるような口調で物腰柔らかく言って少し笑った。
真っ白な四方の壁に囲まれ、雑音のないしんとする空間のせいか、店長の細い声がはっきり聞こえる。
「数年前のメディア等の報道以来、詳細はほとんど明らかになっていないことはご存知かと思いますが、世界的に機密事項が多数ございます。案内させていただく私も実際に行った経験はありませんし、限られた内容説明でして、私自身も他言しない誓約書を書いております。もしお客様が旅行を決意されましたらその先はさらにまた内密な説明会に参加いただくことになります。」
美紗子の脈拍はずっと速いままだ。
「まず、旅行代金は遡る年数と場所によって異なります。未来へは現在行くことができません。過去のみとなります。旅行代金は、30万から起算して1年遡るごとに1万、50年前までが旅行いただける限界年数となります。行き先は日本国内外で可能ですが、海外になりますといくつかの決まった拠点のみとなります。1万円✕年数分に、現在販売しておりますご希望拠点までの旅行代金がプラスされるような感じ…となります。」
旅行可能な日本以外の拠点一覧が書かれた紙が美紗子の目の前に置かれた。
ニューヨーク、ロサンゼルス、ハワイ、ロンドン、パリ、シドニー、ニューデリー…他数カ所の記載をざっと見たが、美紗子の目はハワイで止まる。
想像していた金額より安い設定が意外だ。
20年前を希望すると50万、それにハワイまでの旅行代金をプラスして、約80万くらいになるだろうか…翔太に会いに行く体で見積もられた概算がスッと頭に浮かんだ自分が可笑しくて、込み上げてくる笑いを堪えた。
それにしても80万は美紗子にとって大金だ。
思ったより安い設定ではあっても、美紗子の現実には全く安くない。
貯金もまだまだそこまでは貯まっていない。肩を落とした。
「何かご質問ございますか?お答えできないこともあるかもしれませんが…」
「…あの…事故や不具合で現在に戻ってこれないとかっていうことは…」
「今のところそのような報告は受けておりません。このような厳重な個人説明を設けるくらいですから、もし事故や問題発生があれば、すぐに案内中止の指示が出るはずですので」
店長のほんのりとした笑顔が美紗子に安心感をもたらす。
「もし、ご決断されましたら私宛まで直接ご連絡ください。時間旅行に関しましては、他の従業員が代行できませんので…」
そう言って店長は美紗子に名刺を渡した。
「それでは他言無用でよろしくお願い致します。本日はお時間いただきましてありがとうございました。」
深々と店長はお辞儀をし、美紗子も頭を下げて店を出た。
家に帰ると、美紗子は重大な秘密を抱えてしまった重さと緊張で落ち着かず、ぼぅっとキッチンに立ち尽くしていた。
気持ちが散漫して、買ってきた材料はテーブルの上から冷蔵庫や各戸棚へしまわれることなく、袋の中の食材はバランスを崩しそうに位置が少しずつずれていく。
とりあえず紅茶を入れた。
時計を見ると16時半を少し過ぎたくらいだった。
夕飯の支度には少し早く、莉子も帰っていない。
まだ少し動悸を感じ、しばらくは何も手につかない気がした。ちょっと落ち着こうとソファに腰かけ、一口紅茶を体に流した。温かいものが体を伝っていくのを感じ、ふぅっと息を吐いた。
誓約書に名前を書きながら美紗子は、強い興味本位と勢いだけで説明を聞いてしまったことを反省していた。
安くない、行けもしないとわかっていながら都市伝説と疑っていた嘘みたいな話に、自分が柄にもなく一瞬の気の迷いでも食らいついたことに改めて驚いた。
携帯を取り出し、美紗子が好きな40歳の翔太を開く。
テーブルの上に広げた楽譜を見つめる翔太の画像に見入りながら、あの説明を聞いた時、この翔太に会うことが不可能ではないと、一瞬お金の計算をしてしまったことを思い出し、再び笑いが込み上げる。
確かにお金と勇気さえあれば、それが可能だ。
もう一度見たいと思ったあのカイルアの海と空が美紗子の脳裏にしっかりと拡がっていた。
そこにお金と勇気をかけるなら、なかなか手を出せないと思っている有料イベントやファンクラブツアーや、普通にハワイ旅行へ行く方がよっぽど安い。
不安しかない時間旅行なんて馬鹿馬鹿しい。
美紗子は携帯の画面に映る翔太を閉じ、ソファから立ち上がった。
さて、買ってきた食材をしまわなきゃ。
やっと冷静さを取り戻し動き出す。
冷蔵庫に野菜をしまいながら、40歳の翔太が脳裏にチラつく。
どうしようもないな…
自分に呆れて笑う美紗子だった。