社会人として歩みだした莉子が入会させてくれたファンクラブは、前方の席を取れる権利を得ることはできたが、抽選制の無料イベントは落選ばかりだった。
無料は枠が少ないがゆえ、当選確率は当然低い。ハズレるのが当たり前だと思っていた方がいい。
そろそろ本格的に遠征か有料イベントに参加したいと思い始めた頃、ちょうど都心で開催されるサイン付き個展のお知らせがきた。
都心なら電車で1時間ちょっとで行けるし、他の高額なツアーやファンミーティングに比べたら、美紗子にとって財布に優しい企画だ。
とはいえ、好きなものにお金をかけることに不慣れな美紗子は、その知らせに慌て、焦った。
翔太は絵を描くのが得意で、趣味が絵画だということはファンの中で知らない者は居ない。
最近はそれに筋トレも追加されたと会報に載っていた。
その作品の多くは風景画で、ツアーグッズでも絵葉書セットとして物販に並んでいる。
全国各地をツアーで回る岩崎が、気持ちが乗った時に描き溜めた作品の個展であり、個展会場内で区切られた時間ごとに来場者に向けて挨拶をするという。
入場券プラス複製画1枚付きで1万5千円。絵はスケッチブックサイズで、気に入った作品の複製画を選び、お見送りの際に杉崎が名前入りで裏面にサインをして持ち帰るという流れだ。
複製画は複数枚購入も可で1枚につき5千円、原画購入となると数万円以上し、原画購入予約者は握手付きである。
とある昼下がりの休日に由希とお茶をしていた時、この知らせが携帯に着信した。
内容をざっと読んで慌てた美紗子は、すぐに目の前の由希に相談した。
「へぇ…そんなイベントがあるんだね。なんか面白そう。私、行きたい!」
由希がそう言ったことで美紗子も即決することができ、会員に対して同伴者1名のみ参加可の権利を使用して2人分をその場で申し込んだ。初めてのイベント参加に美紗子の胸は高鳴った。
大きなオフィスビルが建ち並ぶ中、まるでやせ細ったようにこじんまりしたビルが一軒身を潜めるようにひっそり佇む。
その1階にある小規模イベントスペースが個展会場であった。
建ち並ぶ大きなビルに比べると、圧倒的に幅は狭いが奥行きがある会場だ。
そこに翔太の描いた風景のクレヨン画が、長い壁づたいに横一列となって等間隔で並ぶ。
開場前、入口付近で列を作り待つファンの前にラフなジーンズ姿の岩崎翔太は現れ、ファンの歓喜の声の中、
「本日はお越しいただきありがとうございます。時間が決まっていて何かと窮屈かもしれませんが、楽しんで行ってください」
そう挨拶をしてどこか別室へと移動して行った。
美紗子は、ライブでも経験のない距離感に高揚し、隣にいる由希の腕をギュッと掴み過ぎて「美紗子、痛い痛い」と笑われた。
間近に見た翔太にぽぉっとしながら、スタッフに急かされるよう誘導されて中へ入る。
各地の風景を描いた翔太の絵は、一見水彩画のようにも見える淡い色使いで描かれたものが多く、翔太の優しさが表れているような印象を受ける。
その中に1枚だけ、他の絵とは明らかに違う、濃い色使いで海辺の夕焼けを描いたものが飾られていた。
海沿いから見えた景色なのだろうか。
賑わう海辺で沈んでいく夕陽を見つめるような、寄り添った恋人同士の影が印象的な画だ。
その絵に皆、惹きつけられるように一段と人集りができている。美紗子と由希もその人集りの後ろからその絵に魅せられていた。
「見惚れちゃうわね…きっと、この絵の複製画が一番人気になりそう。私もこれにしたいなぁ」
「美紗子、それはダメみたい。ほら、あそこに小さく注意書きがある」
由希が指差した画題の下に小さな文字で「この作品の購入は、原画・複製画共にできません」と書いてあった。
「なんだ…残念」
その絵を隠し撮りしてしまいたい衝動を抑えながら、出口付近でもう一度振り返ってそのはっきりと描かれた夕陽を目に焼き付ける。
由希は東北の田園風景を描いたものを、美紗子は長崎の夜景を描いた複製画をそれぞれ選んだ。
時間ラスト15分前になると、再び翔太が現れた。
受付だった場所でサイン会となり、退場する際に名前を聞き、その場で名前を入れ、前もってサインが書かれた複製画を受け取って退場完了となる。
名前は時間短縮のためカタカナとなる。
受付に立つ岩崎の姿にファン達は一気にざわめき出し、年甲斐なくキャーキャー言いながら入れて欲しい名前を告げ、受け取った後も後ろ髪を引かれまくる。
退場の列が少しずつ前に進み、翔太に近づいてくると、高まる緊張をほぐすように美紗子は腕をさりげなく回しながら前に進んだ。
とうとう美紗子と由希の順番になった。緊張の中軽く会釈をして
「素敵な絵を見せていただいてありがとうございました。名前は【ミサコ】でお願いします」
と言い終えた。
翔太の顔をまともに見ることができず、視線を翔太の顎辺りに置いて発声したが、徐々に翔太の目に視線を合わせた瞬間、翔太が美紗子をとらえる真っ直ぐな眼差しに圧倒され、美紗子はビクッと上半身が一瞬仰け反った。
「ミサコ…さん?」
聞き返すように名前を呼ばれ、直視される恥ずかしさで、心臓が爆発しそうに超高速で打ち始める。
こんな目で見られたら、そりゃ誰もが堕ちてしまうわ…
多分だらしなくニヤけているであろうこの顔を想像して我に返り、これ以上こんなみっともない顔を見られたくない恥ずかしさが一気にこみ上げ、慌ててもう一度翔太にぺこりと頭を下げ、サイン入りの画を受け取って急いで会場の外へ出た。
息が止まっていたんじゃないかと思うほど呼吸は苦しく、外の空気を一気に吸い込む。
「美紗子、大丈夫?」
「格好良すぎて死ぬかと思ったわ」
美紗子は胸を押さえて何度も深呼吸した。
由希がケタケタ笑い始める。
「美紗子、完全に高校生の頃に戻ってる」
「あの目力に腰が抜けそう…」
「老体で美紗子をおんぶして帰るなんて、私出来ないからね。自分で歩いてよ」
「由希ってば鬼」美紗子は笑う。
「そういえば岩崎さん、美紗子に何か言おうとしてたけど、美紗子が逃げるみたいに出て行っちゃったから、行っちゃいましたね…って苦笑いしてたわよ。おかげで私が話せちゃってラッキーだったけど」
「えぇ?!ウソ!だって…心臓飛び出そうであれ以上無理だよー!」
「あぁ、もったいない」
「さっきの場所に戻りたい…」
「乙女なオバさんは懲りないねー」
美紗子と由希はハイテンションなまま笑いが止まらない。
なんて楽しい時間なのだろう。高校時代と勘違いしそうだ。
こんな時間が再び持てるようになったことに涙が出そうになる。
美紗子と由希は、興奮冷めやらず語り続け、地下鉄の駅に潜り込むまで2人の笑い声は続いた。
無料は枠が少ないがゆえ、当選確率は当然低い。ハズレるのが当たり前だと思っていた方がいい。
そろそろ本格的に遠征か有料イベントに参加したいと思い始めた頃、ちょうど都心で開催されるサイン付き個展のお知らせがきた。
都心なら電車で1時間ちょっとで行けるし、他の高額なツアーやファンミーティングに比べたら、美紗子にとって財布に優しい企画だ。
とはいえ、好きなものにお金をかけることに不慣れな美紗子は、その知らせに慌て、焦った。
翔太は絵を描くのが得意で、趣味が絵画だということはファンの中で知らない者は居ない。
最近はそれに筋トレも追加されたと会報に載っていた。
その作品の多くは風景画で、ツアーグッズでも絵葉書セットとして物販に並んでいる。
全国各地をツアーで回る岩崎が、気持ちが乗った時に描き溜めた作品の個展であり、個展会場内で区切られた時間ごとに来場者に向けて挨拶をするという。
入場券プラス複製画1枚付きで1万5千円。絵はスケッチブックサイズで、気に入った作品の複製画を選び、お見送りの際に杉崎が名前入りで裏面にサインをして持ち帰るという流れだ。
複製画は複数枚購入も可で1枚につき5千円、原画購入となると数万円以上し、原画購入予約者は握手付きである。
とある昼下がりの休日に由希とお茶をしていた時、この知らせが携帯に着信した。
内容をざっと読んで慌てた美紗子は、すぐに目の前の由希に相談した。
「へぇ…そんなイベントがあるんだね。なんか面白そう。私、行きたい!」
由希がそう言ったことで美紗子も即決することができ、会員に対して同伴者1名のみ参加可の権利を使用して2人分をその場で申し込んだ。初めてのイベント参加に美紗子の胸は高鳴った。
大きなオフィスビルが建ち並ぶ中、まるでやせ細ったようにこじんまりしたビルが一軒身を潜めるようにひっそり佇む。
その1階にある小規模イベントスペースが個展会場であった。
建ち並ぶ大きなビルに比べると、圧倒的に幅は狭いが奥行きがある会場だ。
そこに翔太の描いた風景のクレヨン画が、長い壁づたいに横一列となって等間隔で並ぶ。
開場前、入口付近で列を作り待つファンの前にラフなジーンズ姿の岩崎翔太は現れ、ファンの歓喜の声の中、
「本日はお越しいただきありがとうございます。時間が決まっていて何かと窮屈かもしれませんが、楽しんで行ってください」
そう挨拶をしてどこか別室へと移動して行った。
美紗子は、ライブでも経験のない距離感に高揚し、隣にいる由希の腕をギュッと掴み過ぎて「美紗子、痛い痛い」と笑われた。
間近に見た翔太にぽぉっとしながら、スタッフに急かされるよう誘導されて中へ入る。
各地の風景を描いた翔太の絵は、一見水彩画のようにも見える淡い色使いで描かれたものが多く、翔太の優しさが表れているような印象を受ける。
その中に1枚だけ、他の絵とは明らかに違う、濃い色使いで海辺の夕焼けを描いたものが飾られていた。
海沿いから見えた景色なのだろうか。
賑わう海辺で沈んでいく夕陽を見つめるような、寄り添った恋人同士の影が印象的な画だ。
その絵に皆、惹きつけられるように一段と人集りができている。美紗子と由希もその人集りの後ろからその絵に魅せられていた。
「見惚れちゃうわね…きっと、この絵の複製画が一番人気になりそう。私もこれにしたいなぁ」
「美紗子、それはダメみたい。ほら、あそこに小さく注意書きがある」
由希が指差した画題の下に小さな文字で「この作品の購入は、原画・複製画共にできません」と書いてあった。
「なんだ…残念」
その絵を隠し撮りしてしまいたい衝動を抑えながら、出口付近でもう一度振り返ってそのはっきりと描かれた夕陽を目に焼き付ける。
由希は東北の田園風景を描いたものを、美紗子は長崎の夜景を描いた複製画をそれぞれ選んだ。
時間ラスト15分前になると、再び翔太が現れた。
受付だった場所でサイン会となり、退場する際に名前を聞き、その場で名前を入れ、前もってサインが書かれた複製画を受け取って退場完了となる。
名前は時間短縮のためカタカナとなる。
受付に立つ岩崎の姿にファン達は一気にざわめき出し、年甲斐なくキャーキャー言いながら入れて欲しい名前を告げ、受け取った後も後ろ髪を引かれまくる。
退場の列が少しずつ前に進み、翔太に近づいてくると、高まる緊張をほぐすように美紗子は腕をさりげなく回しながら前に進んだ。
とうとう美紗子と由希の順番になった。緊張の中軽く会釈をして
「素敵な絵を見せていただいてありがとうございました。名前は【ミサコ】でお願いします」
と言い終えた。
翔太の顔をまともに見ることができず、視線を翔太の顎辺りに置いて発声したが、徐々に翔太の目に視線を合わせた瞬間、翔太が美紗子をとらえる真っ直ぐな眼差しに圧倒され、美紗子はビクッと上半身が一瞬仰け反った。
「ミサコ…さん?」
聞き返すように名前を呼ばれ、直視される恥ずかしさで、心臓が爆発しそうに超高速で打ち始める。
こんな目で見られたら、そりゃ誰もが堕ちてしまうわ…
多分だらしなくニヤけているであろうこの顔を想像して我に返り、これ以上こんなみっともない顔を見られたくない恥ずかしさが一気にこみ上げ、慌ててもう一度翔太にぺこりと頭を下げ、サイン入りの画を受け取って急いで会場の外へ出た。
息が止まっていたんじゃないかと思うほど呼吸は苦しく、外の空気を一気に吸い込む。
「美紗子、大丈夫?」
「格好良すぎて死ぬかと思ったわ」
美紗子は胸を押さえて何度も深呼吸した。
由希がケタケタ笑い始める。
「美紗子、完全に高校生の頃に戻ってる」
「あの目力に腰が抜けそう…」
「老体で美紗子をおんぶして帰るなんて、私出来ないからね。自分で歩いてよ」
「由希ってば鬼」美紗子は笑う。
「そういえば岩崎さん、美紗子に何か言おうとしてたけど、美紗子が逃げるみたいに出て行っちゃったから、行っちゃいましたね…って苦笑いしてたわよ。おかげで私が話せちゃってラッキーだったけど」
「えぇ?!ウソ!だって…心臓飛び出そうであれ以上無理だよー!」
「あぁ、もったいない」
「さっきの場所に戻りたい…」
「乙女なオバさんは懲りないねー」
美紗子と由希はハイテンションなまま笑いが止まらない。
なんて楽しい時間なのだろう。高校時代と勘違いしそうだ。
こんな時間が再び持てるようになったことに涙が出そうになる。
美紗子と由希は、興奮冷めやらず語り続け、地下鉄の駅に潜り込むまで2人の笑い声は続いた。

