水曜日の放課後。
外は土砂降り。

窓ガラスを叩く雨の音が、ずっと頭の中に響いてる。
偏頭痛なのか頭が痛い。


「帰りたい……」

「間違いない」


そんな言葉を何度呟いても、現実は変わらない。

今年のクラスの出し物はメイドカフェ。
私はナチと一緒にメイド役。
なんか料理とか面倒くさそうだったから、唯一簡単に出来そうなやつを選んだ。


レトくんは絶対可愛い!!写真撮りたい!!ってニコニコしてた。


今日は内装のペンキ塗り。
絵心もセンスも皆無なのに、筆を持たされた結果


「うわっ……やばっ、こぼした!」


床に青い絵の具が広がった。
周りが一斉にこっちを見た。


「もうやだぁ!!」


クラスの子に笑われて、ちょっとムッとしながらもナチと雑巾で拭き取る。


「流石不器用だな」

ナチが鼻で笑った。


「悪かったね」

そう言い返して、絵の具まみれの手を洗いにトイレに向かった。

水道の蛇口をひねって、冷たい水で手をこすっていると、背後のドアが開いた。



「……ねぇ、葵ってさ」


鏡越しにリアが立っていた。
急すぎて思わず声が出そうになる。
口元にうっすら笑み。だけど、目は笑ってない。


「男たらしなんだね?」


心臓が一瞬止まった。


「は?なにが?」


リアはゆっくりと近づいてくる。
その距離の詰め方に異変を感じで、思わず後ずさった。


「修学旅行の時に聞いちゃってさ。
 ヒラくんのこと弄んでるんでしょ?で、先生も好きとか。あんた、やばくない?」


……どうして知ってんのよ。
あれは寝てたはずのモブ1、2の前で話したのに。


てか、弄んでねぇし。


息が詰まる。けど、言い返さなきゃ。




「そんなことした覚えないし、先生のこと…好きじゃないから。いい加減にして」


鏡越しにナチが目を細める。
挑発に乗ったみたいに、口角がゆっくりと上がった。


「嘘つくなよ。私の友達が言ってたんだから本当だよ。私はただね、清川先生を取られたくないだけ」


その名前が出た瞬間、胸の奥がぐっと痛んだ。


私も……好きなのに。
そんなことは口には出せない。
仮にもあたしには彼氏がいて………


取られたくない気持ちは嫌でもわかってしまう。
けどもう、先生には彼女いるんだよな…
こんな奴には言わない方がいいか、色んな人に言いふらしそうだし。


リアに弱みを見せるわけにはいかない。


「あっそ知らないし」


吐き捨てるように言っても、喉の奥が苦しくて仕方なかった。


「先生に近づかないでくれるかな?」


リアの声が一段低くなった。
威圧するようなその視線。


「最近近づいてないじゃん。ばかなの?
その目、どこについてんだよ」


一瞬、空気がピリッと張り詰めた。
リアの眉がぴくっと動く。


「ほんっとムカつく。あんたのそういうとこ」

「へぇ、どうも」

水の音が止まり、静かなトイレに二人の息だけが残る。
外ではまだ、雨が止む気配がなかった。



リアの目が細くなった瞬間、腕を掴まれた。

「ちょ、痛い!何」

強く引かれて、個室の中に押し込まれる。
ドアが閉まる音がやけに響いた。


「頭でも冷やしてよ」


リアの声が耳元で低く響く。

次の瞬間、頭の上から冷たい感触が落ちてきた。


「っ——!」

制服の肩が一瞬で濡れる。
水だ。バケツの水。


「あんたが邪魔なんだよ、もう学校来ないで?」


リアの言葉よりも、水の冷たさが心に突き刺さる。
何も言えなかった。


「…もう…やめ……て」


声が震えて言葉にならない。


「さっきまでの威勢はどしたの?」


リアは鼻で笑うと、トイレから出ていった。
足音が遠ざかる。

扉を開けて立ちずさんだ

鏡に映る自分の姿は、髪も制服も濡れてぐちゃぐちゃだった。

冷たい。
心が痛い。
でも、泣いたら負けな気がした。


「……なんでこうなるん」


と呟く声だけが、響いた。

冷たい水が肌を伝って、制服の袖まで重くなっていた。


「……もう、帰ろしんどいわ……」


鏡に映る自分の顔が、いつもより何倍も情けなく見えた。
何も悪いことしてないのに。
運がいつも悪い。

嗚咽を堪えながらトイレを出る。
廊下はしんと静まり返っていて、雨の音だけが遠くから聞こえてくる。


机に置いたままのカバンを取りに行く気力なんてもう残っていなかった。

一旦ナチに「帰る」とだけ連絡を入れる。
すぐ返事が来たけど知らないふりをした。


とぼとぼと校門に向かって廊下を歩く。
前方から人影が近づいてきた。
こんな酷い姿誰にも見られたくないのに。


見慣れた姿に胸が一瞬だけざわつく。


「……葵?」


顔を上げると、レトくんがそこに立っていた。
制服のままで、息を少し切らしている。


「帰ってくるの遅いからさ、見に来たんやけど……どないしたん?びしょ濡れやん」


だけど、何も言えなかった。


「……大丈夫なんともない」


レトくんが眉をひそめて、そっと私の頬に触れた。


「何があったんよ」




その優しい声を聞いた瞬間、張り詰めてたものがぷつりと切れた。
堪えてた涙が一気に溢れ出す。


「……なんでも、ないのに……っ」


しゃくりあげながら言うと、レトくんは何も言わず、そっと肩に自分のジャケットを掛けて、あたしを抱き締めてくれた。
その温もりに依存しそうになる。


「…帰ろっか」


その言葉に逆らう気も起きなかった。
ただ手を引っ張られてそのまま学校を出た。
自転車もカバンも上の服も全部置いたまま。



手を繋がれて何も話さないまま、二人で歩く。
いつもなら気まずさを感じるのに、今はそれに落ち着いてしまう。


そんな中レトくんが突然止まった。


「……ここ、レトくんち?」

「うん濡れたまんまやと風邪ひくから」


そう言って、彼は玄関のドアを開けた。
雨で冷えた空気の中、家の中からふわっとあたたかい空気が流れてくる。
それだけで少し安心してしまう自分が悔しかった。


「とりあえず、お風呂入ってきて?」

「え、でも……」

「全部貸すから、な?風邪引きたくないやろ?」


いつもより優しい声。
強引じゃなくて、ちゃんと“心配”してる声。

うつむいたまま頷く。


「ありがと……」

「ゆっくり入っとき」


そう言ってレトくんはリビングの方へ消えていった。
静かになった廊下で、そっと息をつく。

こんなにあたしのことを考えてくれるのに、あたしは……

冷たくなった指先を見つめながら、
心の奥で小さく呟いた。



湯船に浸かると、体の温かみを取り戻した。
そうだナチに返事返さないと。


「帰る」

「え?なんで?どしたん?」
「ねぇいまどこ?」
「葵」

「リアになんかされた?」
「あいつ葵の後ついて行ったと思って、帰ってきたら、他の奴らに懲らしめてきたとか言ってて」
「うち一応怒ったんだけど」
「まじで何があった?どこにいる?」




スマホの画面がにじんで見えた。
湯気のせいか、涙のせいか、自分でも分からない。

文字を打とうとしても、指が震えて上手く押せない。
「大丈夫」って打ちたいのに、何度もミスする。


言ったらまた心配かける。
でも、何も言わないのも不自然。


少し考えてから、


『ありがとうまた話す』

そうだけ送って、スマホを湯船の外に置いた。


脱衣所のドアの向こうから控えめなノックの音がした。


「葵、タオルそこに置いとくな。上がったら暖かいの淹れたるよ何がいい?」


レトくんの声。

「じゃあ…カフェオレ」

「ん、わかった」

「……ありがと」


小さく返事をして、
湯船の中で膝を抱えた。

あったかいはずなのに、
心の真ん中だけはずっと冷えたままだった。


あたしここに来てよかったのか?
ちゃんと好きにもなれてない人の家に。
もう考えるのも嫌になる。


「何してんだろ…」


上がったら、ちゃんと笑おう。
そう自分に言い聞かせながら、
ゆっくりと湯船から立ち上がった。


借りたTシャツは少し大きくて、袖が手の甲を隠す。

廊下をそっと歩いてリビングに入ると、レトくんがソファに座ってテレビをつけたまま待っていた。
テーブルの上にはマグカップが二つ。


「おかえり温まった?」

「ううん、あったかかった」


タオルを両手でぎゅっと握りながら答えると、
レトくんが立ち上がって、
「貸して」と言って髪の毛をふわっと拭いてくれる。

「自分でできる」

「いいから」


優しくタオルを動かすたびに、
頭の奥がじんわり温かくなる。


「……何があったか、聞いてもいい?」


その声は静かで、押しつけがましくもなかった。
ただ“言いたくなったら話せばいい”って伝わるような、そんな優しさ。


「リ、リアに…」

「うん」

震える声がでた。
さっきのことがフラッシュバックしてまた泣きそうになる。


「男たらしって言われて…」

「は?葵がそんなことするような子ちゃうわ」


レトくんは眉をしかめて、タオルを持つ手を止めた。


「ヒラとか先生のこと弄んでるって……ほんとはそんなつもりないのに……」

言葉を吐き出すたびに、胸の奥が痛くて、息が苦しい。
レトくんは何も言わず、ただそっとあたしを抱き寄せた。


「……泣いてええよ」


その一言で、もう我慢できなかった。
気づいたら彼の胸の中で泣いてた。


「話してくれてありがと」


レトくんの声が耳元で優しく響く。
その声があたしを包み込むようで、
胸の奥の痛みが少しずつ溶けていった。

「ごめんっ…」

涙を拭いながらつぶやくと、
レトくんが少しだけ笑って、あたしの髪をくしゃっと撫でた。


「俺の方こそなんも気づけんくてごめんな…」

「そんなことない」


真剣な声に、思わず胸がぎゅっとなった。
あたしのことをこんなふうに守ってくれる。
それだけで、少しだけ救われた気がした。



「お腹すいてるやろ?ご飯なんかいる?」


「…いいん?」

「ええよ、なんか作るわ」


そう言って、レトくんは立ち上がり、キッチンへ向かった。
あたしはソファの端に座って、まだ少し濡れた髪をタオルで押さえる。
鼻の奥がツンとするけど、もう涙は出なかった。

フライパンの音と、ジュウッていう焼ける音。
その音が妙に落ち着く。
レトくんが後ろ姿で何かを炒めながら、ぽつりと話しかけてくる。


「葵ってさ人に弱見みせやんとこあるやん」

「……そう?」

「うん。強がりも下手くそやし、ほんま見てて心配になる」

「うるさい」

「はいはい、うるさいな」


そう言いながらも、笑ってるのがわかった。
いつの間にか、キッチンの匂いが部屋に広がってる。


「はい、完成!チャーハン」


レトくんが皿を差し出してくる。
卵とベーコンのシンプルなやつ。
めっちゃおいしそうで、思わず笑ってしまう。

「……たべていい?」

「どうぞ〜!」


レトくんが笑って、あたしの頭を軽く撫でた。
その瞬間、あたしの胸の奥がまた熱くなる。



「捨て猫みたいやなぁ」

「悪口?」

「ちゃうちゃう可愛いなって意味」


ニコニコしながら可愛いって言われて、嫌でも照れてしまった。


「んはは照れてる〜」



そう言って、食べてる最中に後ろから抱きしめられた。
なんかいつもより甘えてくる。
でもそれが嫌ではなかった。
なんなら少し嬉しかった。


「葵のこと大好き」


これはどう返すべき?
ありがとう?
私も?

でも今日はありがとうの気持ちも込めて


「あたしもレトくん好きだよ」




レトくんはその言葉を聞いた瞬間、あたしの肩にまわしてた腕に、力が少しだけこもる。


「初めて言われた…」


耳の近くで、かすれた声。
その声が、なんかズルいくらい優しかった。


「レトくん?」


「俺…正直嫌われてると思ってたから… いつも距離感じて……今日やっと“好き”って言ってもらえて、ほんまに嬉しくて……」

「…っ」

「こっちきて」

レトくんはあたしをソファに上がらせて、あたしの肩に顔をうずめて、静かに泣いた。
思わずレトくんを抱きしめた。

――なんで。

こんなに真っすぐな人を前にして、
胸の奥では、全然違う人の顔を思い出してる。

“先生”の声が、頭のどこかでよみがえる。


ごめんね、レトくん。
いま抱きしめ返してるこの心の中にあるのは、
あの人への未練と罪悪感でぐちゃぐちゃなんだ。


「……泣かんでよ」


精一杯の笑顔でそう言いながら、
レトくんの背中を撫でた。

その手が震えてることに、
きっと彼は気づいていない


「どうしようもないくらい葵のこと好きやねん」

「うん」

「だから…別れたくないっ」


泣きながらそう言われた。
なにそれ、あたしがいつも先生のことばっかり考えてること分かってるみたいじゃん。


「やっと付き合えたから…離れたくないんよ」

「わ、別れないよ」


嘘をついてしまった。
付き合ってから、何度も別れるタイミングを探していた。
だけど、レトくんの笑顔みるとそんなことできるはずなくて。


けどこうやって愛されるのも、悪くないのかもしれない。


もう何が正解で何が間違ってるか分からない。



今はこの腕の中で全てを勘違いしていたい。
けど、そんな勘違いが簡単にできたら楽なのに。


レトくんがそっと、あたしの頬に手を添えた。
指先が少し震えていて、胸に刺さる。


「…葵、こっち見て」


言われるままに顔を上げると、すぐ目の前にレトくんの顔があった。
夕方の光が差し込んでいる。

「…好きやで」

その言葉のあと、唇が触れた。
私のファーストキス。


一瞬のようで、永遠みたいに長かった。


レトくんの唇が離れたとき、あたしは笑って見せた。
けど、その笑顔の裏で、
罪悪感がゆっくりと胸の奥を締めつけていく。
こんな関係は長くは続かないだろう。
いつかボロがでて、レトくんはこんな酷いあたしを嫌いになる。


――ごめんね、レトくん。
あたしの「好き」は、全部あなたのものじゃない。



「今日親…帰ってこやんねん」

「そう…なんだ」


高校生にもなれば、そんな言葉の奥に隠れているものくらい分かる。
あたしの初めては先生だと思っていた。


手を引かれ、レトくんの部屋に連れ込まれる。
ドサッと言う音と共にベットに押し倒された。


もう何も考えれない。
されるがままでいい。
あたしが悪いんだ。
全部。

レトくんはただあたしを好きなだけ。



「いい?」


かすれた声。
少し震えてた



「…うん」

「初めて?」

「うん…」



その瞬間、レトくんの動きが止まる。
視線が絡まって、息を呑む。


優しくキスを交わしながら、
彼の手が、ゆっくりとあたしの服の触れ、下着姿になった。
指先が少しだけ震えてるのがわかる。


「優しくする」





レトくんの指が、そっとあたし首筋から胸へと滑っていく。


「……怖くない?」


囁かれた声が、やけに優しくて。
あたしは小さく首を縦に振る。

けれど、レトくんはそのまま動きを止めた。
静かな時間が流れる。息づかいだけが近くにある。

どんどん強くなる雨音があたしの心の高鳴りをかき消していく。



「……大好きやで」



その言葉と共にレトくんの唇があたしの胸に触れた。
初めての感覚に嫌でも声が出てしまう。


「声…めっちゃ可愛い」


んふふと笑いながらあたしの全てを愛してくれている気がして、恥ずかしくなった。


「今は俺の事だけ考えててや」



レトくんの声が、あたしの耳の奥で優しく響く。
けど――その言葉が胸に刺さった。


“今は”って言われた瞬間、
頭の中に浮かんだのは、あの人の顔だった。

先生の笑い方。
照れたときに少し目をそらす癖。
全部、全部。

「……っ」

堪えきれなくて、涙が頬を伝った。
レトくんが驚いたように顔を上げる。


「葵?どうしたん、嫌やった?痛かった?」

「ちがう…ごめん、なんでもない…」

自分でも、何に泣いてるのか分からなかった。
優しくされるほど苦しくて、
胸を締めつけた。


「やめよっか…ごめんな…」


レトくんの手が、震えながらあたしの涙を拭う。
でも、止まらなかった。
ぽろぽろとこぼれる涙が、彼の指を濡らしていく。


「ごめん…ごめんね、レトくん……」


嗚咽混じりに何度も謝るあたしを、
レトくんは何も言わず、ただ抱きしめた。

その腕の中で、
あたしは静かに気づいてしまった。

――“好き”って言葉の重さを、
ほんとうにわかってなかったんだって。


レトくんはあたしをぎゅっと抱きしめたまま、
少しのあいだ何も言わなかった。



「……葵」


優しく名前を呼ぶと、
レトくんはそっと体を離し、あたしの頬に触れた。


「ごめん嫌やったよな…こんなことして」


そう言って、ベッドの横に落ちていた服と下着を拾い上げて、あたしに着させてくれた。


その手つきが、いつも以上に優しくて。
まるで壊れ物を扱うみたいに丁寧だった。



「俺、自分勝手やった」

「……ちがうよ。あたしが……」

「欲のまま動いてた気する」


レトくんはそう言って、小さく笑った。
でもその笑顔は少しだけ泣きそうで、
見てるのがつらくなる。


「葵のこと、大事にしたいだけやのに……なんか、違う形で苦しめてもうた気がする」

あたしは首を振って、彼の胸に額を押しつけた。
布越しに感じる鼓動が、痛いほど優しい。


「ごめんあたしの方こそ」

「葵はなんも悪くない」


レトくん小さく息をついて、
あたしの髪を撫でながら微笑んだ。


「雨止むまで寝やん?家まで送るから」

「うん…そうする」

「葵おいで?」


その言葉に導かれるように、そっとレトくんの胸元に顔をうずめた。

レトくんの腕がゆっくりと背中を包み込んで、
その温かさに全身がとけていく。

「…葵」


名前を呼ばれる声が、やけに優しい。
眠りに引きずられるように、まぶたがだんだん重くなっていく。


「愛してる」


そのあと、唇がそっと触れた。
それは夢と現実の境目で溶けていくみたいに、
温かくて、儚くて。
あたしはそのままレトくんの腕の中で、静かに眠りに落ちた。






目が覚めるともう19時になっていた。
雨ももう止んでいて、帰るにはいいタイミング。
あたしの横で幸せそうに寝ているレトくんを、少し愛おしく思うようになった。


こんな感情が生まれたのはさっきの出来事のせいだ。
キスをされ、体を見られ、触れられ、心の距離が縮ったんだろう。


そっとレトくんの頬に触れると
まつげがぴくりと揺れて、彼の目がゆっくり開いた。


「ごめん起こした?」

「ん〜?そんなことないよ〜可愛いなぁ」


寝ぼけた声でそう言いながら、レトくんは腕を伸ばしてあたしの腰を引き寄せた。
そのまま背中に顔を埋めて、甘えるみたいに息を吐く。


「もう帰るん?」

「うん、雨も止んだし……」

「……嫌や」


子どもみたいな声。
その一言に、心が少し揺れた。


「でも、帰らないとパパが心配する」

「…そやんな」


そんな寂しそうな顔しないで欲しい。

レトくんは何も言わず、あたしを抱き締めたまま離さない。
体がほんの少し震えてる。
だからあたしも抱きしめ返した。


「なぁ葵」

「ん?」

「今日のこと……後悔してへん?」


その問いに、息が詰まった。
あたしの中にある罪悪感と、あたたかさと、混乱。
全部を言葉にすることなんてできない。


「……ん、わかんない」


やっとそれだけ絞り出すと、
レトくんは少しだけ笑って、あたしの髪を撫でた。


「そっか…ならそれでええよ」


優しい笑顔が、胸に刺さる。
けど、もし繋がっていたら…後悔していたかもしれない。


「また俺ん家きてくれる?」

「え、う、うん?」


一緒に寝るってこと?
ちょっと怖いよ?どういうこと?


「あ!!!えっと!!そういう意味じゃなくて!!今日みたいなんじゃなくてさ、普通にゲームとかしたいなって!!!」


レトくんが急に顔を真っ赤にして早口でそう言った。
その慌てっぷりがあまりにも必死で、思わず吹き出してしまった。


「な、なに笑ってんねん!」

「いや、焦りすぎんははは」

「だって!変な意味ちゃうねん!!ほんまに!!」


耳まで真っ赤にして必死に弁解してるのが、
なんかもう可愛くて、余計に笑いが止まらなかった。


「そういう"意味"だったら来るよ」

「もぉぉぉ!!」

「あははははは」


少し頬を膨らませて、じっとこっちを見てくるレトくん。
その視線がくすぐったくて、あたしはそっと目を逸らした。


「葵」

そう呼ばれてレトくんを見上げると
今までで1番優しくキスをされた。
そんなレトくんにドキドキしている自分がいた。



「葵が思ってるより俺葵のこと好きやねん」

「うんわかってるよ?ありがとうね?」


そう言うと、レトくんは少しだけ寂しそうに笑った。


「レトくん…」

「ん?ごめんごめん変な空気にさせてもた」


こんなにもあたしを考えてくれて、好いてくれて
優しい人を、また傷つけてしまうかもしれないのに。


「レトくん大好きだよ?」

レトくんの顔がパッと明るくなった。
心配をかけないようにするには嘘に嘘を重ねるしかなかった。

それで笑顔になってくれるならこうするしか無いと。



「そろそろ…送るわ制服も、もう乾いてるやろ」

「ありがとう」


その声が、まだどこか少し寂しそうで、
雨上がりの夜がまた静かに落ちていった。


外は、湿気の匂いで包まれていた。
アスファルトがまだ濡れていて、街灯の光がぼんやりと反射している。


何があっても離さないかとでも言うような力で手を繋がれている。

不思議とその手が嫌ではなかった。


レトくん家からあたしの家が近すぎてもう着いてしまった。


「じゃあまたあした!」

「送ってくれてありがとね!」

「無理すんなよ?」

「うん…大丈夫!」


そう無理やり笑顔を作って言った。
明日になったらまたリアになにかされるかもしれない。
もう嫌だ。


「俺のこともっと頼ってや」

「…うんありがとう」

「ひとりで抱え込むなよ、葵頑張りすぎやねん」


その優しさが、今はずるい。


「でも、今はもう大丈夫だよ?」


声が少し震えた。


「ほんまに?」

「何とかできるよ」
「じゃあ入るね?」


そう言って背を向けた。
手を離す瞬間、名残惜しそうに指先が触れた。

その温もりが、離れた後もずっと残っていた。


「ばいばい葵」

「またね」

玄関の前で、振り返る勇気はなかった。
また泣いてしまいそうだったから。

扉を閉めた瞬間、静寂が降りる。
カバンを置いて、壁にもたれて、ようやく息を吐いた。


好きになっちゃいけない人を、まだ好きなままで、
好いてくれる人の「大好き」に嘘笑いで応えるなんて。

あたしは、最低だ。




まだ誰も家に帰ってなくて安心した。
こんな泣き顔誰にも見られなくて済んだから。



部屋で気が済むまで泣いてからナチに電話した。
リアのこと全部話すと私のことのように怒っていた。

ヒラも心配してたって…
胸がぎゅっと締めつけられる。

レトくんの話はできるはずなかった。
大の親友なのに、付き合ったことも今日の出来事も全部隠して。
あたしは酷い人間だ。


通話を切ると、静かな部屋に自分の呼吸だけが響いた。
目元が熱くて、頬に残る涙の跡が冷たくなっていく。

ベッドに横になりながら、ぼんやり天井を見つめた。


「先生っ…」


その言葉を出す度に心が傷む。


あたしの心はあの夏休みからまだ晴れそうにない。