──その夜、眠れなかった。

部屋の中は静かすぎて、自分の鼓動がやけに響く。
布団にくるまっていても、心だけが裸のままで、ずっと落ち着かなかった。

 

「……瀬那……」

名前を呟いても、返事なんてないのに。
それでも、私は彼のことばかり考えてた。

昼間のこと。
駅前で交わした言葉。
それから、あの一瞬――胸に落ちた、あたたかな手のひらの感触。

あれだけ近くにいたのに、どうして、
まだこんなに“触れられない”って思ってしまうんだろう。

 

スマホを見つめる。
でも、メッセージを送る勇気は出なかった。

私が今、言葉でどうにかしたいって思っても、
それはきっと、彼を“追い詰める”だけになる気がして。

 

そんな夜。

 

突然、スマホが光った。
瀬那から、電話。

 

「……瀬那?」

「……寝てた?」

「ううん、起きてた」

 

声のトーンは、少しだけ低くて、くぐもってた。
でも、その声が、まっすぐ私の胸にしみてくる。

 

「……お前の声、聞きたくて」

「……っ」

それだけで、胸の奥がじんわりあったかくなった。

 

「……なあ、叶愛」

「うん」

「明日さ、ちょっと、家に来ない?」

「……えっ?」

 

突然の誘いに、心臓が跳ねた。
瀬那の“家”――。それは、あの過去が染みついた場所。

 

「無理しなくていい。別に長くいろとは言わねぇし、なんなら、玄関だけでもいい」

「……どうして?」

「……たぶん、けじめ。ちゃんとお前に……見てほしいんだ。俺の全部を」

 

静かな沈黙が流れる。

だけど私は――怖くなかった。

 

「……うん。行く」

はっきりと答えると、電話の向こうで、瀬那がふっと息をついたのが分かった。

 

「ありがとな」

その声が、ほんの少しだけ震えていた気がした。

 

 

* * *

 

日曜の午後。

駅で待ち合わせて、瀬那の家まで一緒に歩いた。

瀬那は、終始無言だった。
だけど、その手はずっと私の手を離さずにいてくれた。

 

家の前に着いた瞬間、瀬那の手がふっと力を強めた。

 

「ここ」

目の前にあるのは、古びた門と高い塀。
普通の住宅街にあって、どこか異質な空気をまとっていた。

 

「……入るよ」

 

玄関のドアを開けると、古びた匂いがした。
生活感はあるのに、誰の気配もしない。

靴を脱いで、並んで廊下を歩く。
まるで昔のまま、時が止まってるみたいな空間だった。

 

「ここが、俺の部屋」

ドアを開けると、意外なほど整った空間だった。
ベッドと机、本棚とゲーム機。
男の子の部屋、という感じ。

 

でも――そこにいるだけで、何かが胸に押し寄せてきた。

この場所で、瀬那はひとりきり、ずっと過去と向き合ってきたんだ。

父親がいなくなって、
母親にも拒絶されて、
ヤクザとの縁も捨てきれなくて。

……全部を、この部屋で、背負ってきたんだ。

 

私は、ただ立ったまま、ゆっくり部屋を見渡して――

そっと、瀬那の背中に腕を回した。

 

「……叶愛?」

 

「わたし、ここに来られてよかった。……瀬那の全部を、ちゃんと知れてよかった」

耳元でそう呟くと、瀬那の肩が、ほんの少しだけ震えた。

 

「こんな俺でも……いいのかよ」

 

「……うん。ぜんぶ、含めて“瀬那”だから」

 

彼の胸に、ぎゅっと顔を埋めた。
自分の体温を、全部、彼に預けるように。

 

しばらくの間、言葉はなかった。
でも、それ以上のものが、ちゃんと確かにあった。

 

静かな空間の中で、私たちは、初めて本当の意味で寄り添っていた。

 

「……ありがとな、叶愛」

 

その言葉が、今日いちばんあたたかかった。

 

 

──そして、帰り道。

 

空は少しだけ夕焼け。
私は瀬那の横を歩きながら、ふと尋ねた。

 

「ねえ。瀬那って、将来どうなりたいの?」

 

彼は少しだけ考えてから、照れくさそうに言った。

 

「……まだちゃんとは決めてない。でもさ、誰かのために生きていけたらって思ってる」

 

「……それって、私のこと?」

 

「どうかな」

にやっと笑うその横顔に、胸がじんわりした。

 

「じゃあ、わたしも決めた」

 

「ん?」

 

「“瀬那の隣にずっといる人”が、将来の夢」

 

瀬那が一瞬、目を見開いて――
ふっと優しく笑った。

 

「……それ、叶えさせてくれよな」

 

──夕暮れの中で、私たちはもう一度手を繋いだ。

どこまでも不安で、どこまでもあたたかい、この恋。

 

きっと、まだ触れきれない場所がたくさんある。
でもそれでも、私は――

 

彼を、抱きしめたい。
この心ごと、丸ごと愛したい。