──あの手のぬくもりは、今もまだ、指先に残っている。

瀬那と手を繋いだまま歩いた帰り道。
ほんの少し遠回りしただけなのに、どこか違う世界にいたような気がした。

あの時、彼がくれた言葉。
それだけで、私は安心してしまっていたのかもしれない。

だけど、その夜。
すべてが変わる一通のメッセージが届いた。

 

* * *

 

──深夜0時すぎ。
スマホに、見知らぬアカウントからDMが届いた。

【あなたが、瀬那と付き合ってる子?】
【突然ごめん。でも、あなたには知る権利があると思う】

 

目が覚めて、夢でも見てるのかと思った。

指が震える。
でも、それでも続きを開いてしまった。

【私、瀬那の“昔の友達”だった人間です】
【あなたが本当にあの人のことを思ってるなら、話さなきゃいけないことがある】
【──彼に妹がいたこと、知ってますか?】

 

息が止まった。

(妹……?)

──知らない。聞いたこともない。

その瞬間、身体の奥底が凍りついたような感覚に襲われる。

【妹さん、事故で亡くなってる】
【それはただの“事故”じゃない。──彼のせいで、って噂もあった】

 

「……やめてよ……そんなの……」

震える指先でスマホを閉じた。
でも、もう遅かった。

胸の奥に落とされた言葉は、静かに、でも確実に、私の中を侵食していく。

(どうして……そんな大事なこと……)

私は、彼のすべてを知ってるつもりだった。

──でも、“つもり”でしかなかった。

 

 

* * *

 

次の日の朝、私は鏡の前で、自分の顔を見つめていた。

いつもと同じ制服、同じ髪型。
だけど、目だけが少し赤くなっていて、私はそれをファンデーションで誤魔化した。

 

学校までの道のりは、やけに長く感じた。
瀬那からLINEは来ていない。
私も、何も送らなかった。

 

教室に入っても、乃々花が何か話しかけてくれても、どこか上の空だった。

 

(……私、瀬那にちゃんと聞かなきゃいけない)

このままじゃいけない。
知ってしまった以上、曖昧にはできない。

──それが、彼の過去だとしても。

 

 

* * *

 

放課後、私は瀬那を屋上へ呼び出した。

風の強い日だった。空はどこまでも灰色で、誰もいない屋上は静かすぎた。

瀬那は私を見るなり、「どした?」と小さく笑った。

「……ちょっと、話したいことがあるの」

「うん」

 

私はスマホを取り出して、昨日のDMを見せた。

「これ……送られてきたの。瀬那の、昔の知り合いって人から」

瀬那の顔が、一瞬で強張る。

「──なんで、お前がこれ見てるんだよ」

「私だって、見たくて見たんじゃない。でも……送られてきたの」

「……開かなきゃよかっただろ」

「それって、私が知らないほうがよかったってこと?」

 

沈黙。

 

「本当なの? 妹さんがいたって……事故で亡くなったって……瀬那の“せい”って、」

「それ以上言うな」

鋭く、瀬那が言った。
低くて、今までで一番、怖い声だった。

 

でも、私は止まれなかった。

「……教えてよ。私、瀬那のそばにいるって決めたんだよ。なのに、何も知らないなんて、もうイヤ」

「叶愛……」

「ずっと言えなかったなら、それでいい。でも、いまは違う。私は知りたい、ちゃんとあなたの全部を」

 

瀬那は黙ったまま、ゆっくりと柵にもたれかかり、そして、ポツリと話し始めた。

 

 

「──あいつの名前は、優菜」

 

「3つ下の、妹だった」

「すごく明るくて、泣き虫で、でも芯が強い子で……。俺のこと、大好きって、ずっと言ってくれてた」

「……」

「でも……事故が起きた日、俺……ケンカしてた。親と、家のことで」

「それで、俺が家を飛び出した後……優菜が、俺のあと追ってきて。……でも、途中で……車に、轢かれた」

 

声が、震えていた。
私の心も、一緒に震えた。

 

「俺のせいだって、周りは言った。……たぶん、実際そうなんだと思う。俺が、ちゃんとしてれば……あいつは……死ななくて済んだかもしれない」

 

風の音に紛れて、瀬那の声がかすかに掠れていた。

「だから、俺は自分を許せない。……今でも、あいつの夢を見る。泣きながら『置いてかないで』って言うんだ」

 

私の目にも、涙が滲んでいた。

「……瀬那、苦しかったんだね」

「叶愛……」

「それをひとりで抱えて、誰にも言わないで……そんなの、苦しくて当然だよ」

 

私は、そっと瀬那の手を取った。

「でもね。わたしは、瀬那の全部を知ったうえで、そばにいたいって思ってる」

 

「過去に何があったって、誰に何を言われたって、……私はあなたを信じてる」

 

その瞬間、瀬那の肩がかすかに震えた。

そして――ぽろりと、涙が落ちた。

 

「……ごめんな。俺、ずっと怖かったんだ。誰かに話したら、また壊れそうで」

「……ううん、謝らなくていい」

「俺……叶愛に出会えて、ほんとによかった」

 

私は、何も言わず、瀬那の胸に顔を埋めた。

強く抱きしめられる感覚。
この人の痛みも過去も、全部ひっくるめて、私の心は彼を求めている。

 

──たとえ、消えない傷を抱えていても。

私たちは今、ここにいる。

そう信じられた瞬間だった。

 

 

* * *

 

その日の夜、私は母にこう言った。

「ねえ、お母さん。家族って、すごく複雑なときもあるんだね」

「どうしたの、急に」

「なんか、思ったの。……ちゃんと向き合って、大事にしなきゃって」

 

母は少し驚いた顔をして、それから優しく笑った。

「うん、そうだね。家族って、思ってるよりずっと、繊細で強いものかも」

 

私は、その言葉を胸に刻んだ。

──私には、帰れる場所がある。
だけど瀬那には、今までなかった。

だから、私がその場所になるって決めた。

 

たとえ、過去に引きずられても。
人に何を言われても。

 

私は、瀬那のそばにいる。

それが私の、恋であり、覚悟。