太陽の隣

ー 1章 近くて、遠い ー

バスケットボールが床を叩く音が、放課後の体育館に響いていた。
 俺、水野晴翔(みずのはると)は、その端で黙ってペットボトルの水を口に含んでいた。

 汗まみれのシャツが肌に張りついて気持ち悪い。練習の内容よりも、ただ「誰かに迷惑をかけないように」と意識するのに必死だった。

 男バスに入ったのは、正直、成り行きだった。
 中学時代の友達に誘われて、「なんとなく」で入部した。でも俺は、どちらかというとインドアなタイプだ。ボールを持っても、ドリブルひとつ上手くできない。試合に出ることなんて、ほとんどない。

 それでもやめなかったのは──
 赤坂陽向(あかさかひなた)が、そこにいたからだ。

 彼女は女バスのエース。明るくて、誰にでも分け隔てなく接する、まさに“太陽”みたいな子だった。
 笑うとぱっと世界が照らされるようで、真剣な眼差しは火が灯ったみたいにまっすぐで、俺みたいな人間からすれば、それだけで眩しくて仕方がなかった。

 でも、そんな陽向にはもう、好きな人がいる。

 俺じゃない。

 神谷優翔(かみやゆうと)。同じ男バスのエースで、俺の正反対にいる人間。
 背が高くて、運動神経抜群で、気配りもできて、誰からも信頼されている。陽向が惹かれるのも、無理はないと思う。

 「水野、次お前な」

 コートの向こうで神谷が声をかけてきた。
 俺は「あ、うん」と曖昧に返事して立ち上がる。
 神谷は優しい。どんなにヘマしても怒ったりしないし、フォローもしてくれる。それがまた、憎めなかった。

 だけど、陽向が神谷と笑い合っているところを見た時──
 俺の中に、どうしようもない感情が生まれた。

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられるような痛み。
 声も出なくなるような、見ていられない気持ち。

 ……それが、恋なんだと、俺はようやく気づいた。

 

 ***

 

 「なあ、水野。最近LINEしてるんでしょ、陽向と」

 ある日の放課後、部活後の水飲み場で神谷が何気なく聞いてきた。
 少しだけ動揺しながらも、「うん」と頷いた。

 「へえ、いいな。あいつ、ああ見えて結構人見知りっぽいからさ」

 「そうなの?」

 「たぶん。あ、でも……俺のことも前より話しかけてくれる気がする。そういうとこ、可愛いよな」

 心臓がひゅっと縮む音がした。
 神谷の言葉は悪気のないものだって分かってる。でも、刺さった。

 陽向は、神谷と話すとき本当に楽しそうだ。
 体育館の隅でシュート練習を見守る彼女の目はきらきらしていて、終わったあとに「すごかったね!」と笑うその顔は、俺が知らない表情だった。

 ──どうしようもない。
 俺はたぶん、誰にも勝てない。

 陽向は神谷を見てる。俺は、その隣で陽向を見てるだけだ。

 

 ***

 

 夜、ベッドに寝転がりながらスマホを見ていたら、「おつかれさま」と陽向からLINEが来た。
 たったそれだけの文字が、心をくすぐる。

 『今日も神谷くんすごかったね』

 陽向は飾らない。気取らない。素直な子だ。
 でも、その言葉が俺に向けられていないことも分かってる。

 『うん、やっぱ上手いな』

 そう返す俺の指は、少し震えていた。

 本当は、神谷のことなんて話したくなかった。
 本当は、「今日は俺のこと、少しでも見てた?」って聞きたかった。

 けど、そんなの、言えるわけない。

 気持ちは伝えたくて、でも伝えたら壊れる気がして、
 毎日、笑って、冗談みたいに本音を隠して、やり過ごしていた。

 

 ***

 

 ある日、陽向が神谷のことを好きだと誰かに話していたという噂を聞いた。
 体育館の隅で、たまたま耳にした女子の会話だった。

 「陽向ってさ、神谷のこと好きなんでしょ?」

 「えー、まじ? でもお似合いかも!」

 心のどこかで分かってたはずなのに、実際に聞くと、身体から音が抜け落ちていくみたいだった。

 (そっか……ほんとに……)

 目の奥が熱くなって、思わずタオルで顔を覆った。
 神谷ならいい。優しいし、完璧だし、陽向を笑顔にできる。

 だけど、俺は、俺は──
 それでも、陽向の隣にいたかった。

その日から、俺は意識的に距離を取るようになった。
 陽向とLINEをしても、少しだけ返事を遅らせた。話題も深く入らないように、当たり障りない会話だけで済ませた。向こうから送られてこなければ、自分からは送らなかった。

 でも、内心では毎日スマホの通知を待っていた。

 今日も、昨日も、その前も──陽向の名前が画面に出てくるたび、胸が詰まった。

 

 ***

 

 「水野、最近LINEしてないの?」

 練習後、帰り支度をしながら神谷が声をかけてきた。
 話題にされるだけで少し身構えてしまう自分がいる。

 「うん、まあ……最近は、あんまり」

 「そっか。陽向、ちょっと元気なかったぞ?」

 心臓が跳ねた。
 元気がない……それって、もしかして、俺のせい……?

 「……神谷は、陽向のこと、どう思ってる?」

 聞いた瞬間、自分の声が震えていたことに気づいた。神谷は少し驚いた顔をして、それから笑った。

 「なんだよ、急に。……でも、好きだよ。多分な」

 (……そっか)

 やっぱり、だった。
 自分が立ち入ってはいけない場所が、またひとつ明確になった気がした。

 その夜、俺は思いきって陽向にメッセージを送った。

 『陽向って、神谷のことが好きなんでしょ?』

 すぐには返事が来なかった。
 既読がついて、少し間をおいて──

 『うん、なんでわかったの?』

 泣きたくなるくらい、素直な言葉だった。
 俺は震える指で、こう返した。

 『神谷、いいやつだよ。応援してる』

 スマホの画面がにじんで、よく見えなくなった。
 どうしても涙をこらえられなくて、顔を伏せて声を殺した。

 

 ***

 

 数日後、陽向が話しかけてこなくなった。
 挨拶はするけど、前みたいに自然に笑いかけてくれない。

 距離ができたんじゃない。
 俺が、自分でその距離を選んだんだ。

 そう言い聞かせたけど、それでも寂しさは残った。

 

 ある日の放課後、体育館の裏手で、一人でシュート練習をしていたとき。
 背後から「水野くん」と声がして、振り向いた。

 そこには、陽向がいた。
 久しぶりに見るその笑顔は、どこかぎこちなくて、それでも俺の胸を貫いた。

 「この前、LINE……ありがとう。ちゃんと返事できなくて、ごめんね」

 「いや、俺こそ……勝手なこと言ってごめん」

 しばらく、お互い何も言えなかった。
 だけど陽向が、意を決したように口を開いた。

 「神谷くんのこと、好きだと思ってた。でも……たぶん違った」

 「……え?」

 「好きって、もっと特別で……苦しくて、嬉しくて。
 水野くんがちょっとそっけなくなったとき、私、すごく寂しかった。LINEが来ないだけで、1日が変に感じた」

 風が吹いた。少し、夏の匂いが混じっていた。

 「……私、水野くんのこと、好きだと思う」

 信じられなかった。
 でも、彼女の瞳はまっすぐで、俺の心を見透かしていた。

 「俺も……好きだよ」

 その言葉を、お互い同時に口にしてしまって──思わず顔を見合わせた。

 「あっ……」

 「……かぶったな」

 陽向が笑った。俺もつられて笑った。

 「なんか、私たちらしいね」

 「うん、ちょっと不器用だけど」

 その場にいた誰よりも、陽向の笑顔が輝いて見えた。

 ──まるで、太陽みたいだった。

 

 ***

 

 それから、俺たちは少しずつ、でも確かに距離を縮めていった。
 毎日LINEをするようになって、会話も自然になって、いつの間にか手を繋ぐのが当たり前になっていた。

 陽向は言ってくれた。

 「水野くんといると、安心する。無理しなくていい感じがする」

 それは俺にとって、神谷に勝る最高の言葉だった。

 俺はたぶん、神谷にはなれない。
 運動神経もないし、人気者でもないし、スマートなことも言えない。

 でも、陽向の隣で笑うことなら──俺にも、できるかもしれない。

 

 ***

 

 ある日、陽向が言った。

 「ねえ、水野くん。“太陽のとなり”って、どんな場所だと思う?」

 俺は少し考えてから、答えた。

 「……うるさくて、暑くて、でもあったかい場所。逃げたくなるけど、本当はずっといたい場所」

 「ふふ、いい答えだね。
 私にとって、水野くんが“太陽のとなり”だよ」

 その言葉が、胸の奥に、静かに灯った。

 太陽みたいな君の隣で、
 俺はただ、まっすぐに君を好きでいようと思った。