セイラとマツアは、秋風が吹き始めた放課後の浜辺で並んで座るのが、いつしか習慣になっていた。  陽は少しずつ短くなり、海の色もどこか深く沈んで見える。

「……お父さんって、どんな人だった?」 
 唐突にそう呟いたのは、マツアだった。

「母さんは、“遠い国から来た人”って言ってたけど、それだけ。……名前も、顔も、思い出せないんだ」

 セイラは砂をつまみながら言った。
「じゃあ、調べてみればいいじゃん。役所に行って、戸籍とかさ」
「え……いいのかな、そんなこと」
「いいも悪いも、気になるんでしょ?」 
 セイラのまっすぐな目に押されて、マツアはうなずいた。

* * *

 市役所の窓口で、戸籍謄本を受け取った瞬間――  マツアは、その紙を見つめたまま、固まっていた。

「……載ってない。父親の名前が、どこにも」

「マツア……」
「僕は……誰の子なんだ?」
 マツアは呟きながら、ゆっくりと頭を抱える。セイラは黙ってマツアの腕を引いた。
「出よ。こんなととこでうずくまっててもしょうがない」 
 強くも、優しい手だった。



 役所の階段を降りながら、マツアがまた呟く。
「……だけどさ。僕には、父親がいないんだよ……」
「しっかりしな、マツア!」
 セイラが振り返る。
「父親なら、あたしにもいない」
「え……?」
「帰るよ。マツア」
その背中を追いながら、マツアの胸の奥に、何か熱いものが灯るのを感じた。

※    ※    ※

「マツアってのはな、伝説の王の名前なんだ。昔、海を越えて島を作った王がいたんだよ」

 あのとき、確かに聞いた声。

 思い出せない“父の記憶”が、ふいに頭の中で反響する。

「お母さんを責めちゃだめだよ、マツア」
 そう言ったのは、セイラの声か、父の声か一瞬分からなくなった。

※    ※    ※

 最近のマツアは、できるだけ水に触れないようにしていた。

 セイラと浜辺で過ごす時間が増えたせいで、汗を流すためにシャワーを浴びることもある。  けれど、ほんの短時間。すぐにタオルで拭き取る。そうしないと、左腕にあの“鱗”が現れてしまうから。

 ある日、思い切って皮膚科を訪ねた。

「じゃあ、水をかけてみます……」
 診察室で、自ら左腕に水を垂らすと、みるみるうちに、銀色の斑が浮かび上がってきた。 「……なんだ、これは。見たことがないな……」  医師は顔をしかめながら、鱗の一部をピンセットで採取した。 その目に浮かんだのは、興味だった。 マツアは、鳥肌が立つのを感じた。 「……今日はこれで帰っていいよ。経過観察、また連絡するから」
「……はい」

 背筋を冷やしながら病院を出たマツアは、後ろから視線を感じた。

※    ※    ※

 通りを歩くマツアの背後で、黒塗りの車がゆっくりと発進した。

 その夜。 雨の音と共に、ひとつのニュースがテレビから流れていた。

> 「本日未明、地元の漁師が沖合で瀕死の生物を発見し、海上保安庁に通報しました。漁師は“人魚のように見えた”と証言していますが、陸に上げられた遺体は半裸の男性で、詳細は不明。漁師は“上がる直前にスマホで撮影した”と語っており、写真の真偽を含め、警察が調査中です――」

 画面には、モザイクのかかった海上の一瞬が映っていた。

 マツアは、冷めかけたスープを前にして、その映像をじっと見つめていた。

※    ※    ※

 それから数日後の夕暮れ。

 マツアは駅前の書店からの帰り道、またしてもあの黒塗りの車を見つけた。 角を曲がった先で、ぴたりと停止していた。 マツアは足を止めると、思い切って車に近づき、助手席側の窓をノックした。

「……何のようですか?」

 数秒の沈黙の後、スッと窓が降りる。現れたのは、無表情な日本人の男。

「……すみません、人違いでした」

 静かな声でそう言うと、男は窓を閉め、車はゆっくりと走り去った。

 マツアはそのとき、男の顔をはっきりと記憶した。 それが、今後、自分の運命に関わる顔であることなど、まだ知らずに。