セイラのことをもっと知りたくて、マツアは休み時間になるたびに、三年生の教室がある三階の廊下を歩くようになった。
 誰にも気づかれないように。けれど心の奥は、彼女のことでいっぱいだった。

 三階の廊下から旧校舎へ繋がる中庭が見えた。
 旧校舎裏手の影に、セイラと別の三年生が消えるのを見たマツアは、胸騒ぎがしてそこへ向かった。

 信じられない光景を見た。

 セイラが、同じ三年の女子生徒から何かを受け取っていた。
 茶封筒。明らかにお金だった。

 女子生徒は伏し目がちで、どこか怯えた表情をしていた。
 マツアは思わず一歩踏み出してしまった。足音に気づいたセイラが振り返る。

「……マツア?」

 一瞬、沈黙が走る。

「違う、これは違うんだ!何かが間違ってる」

 セイラは軽くため息をつくと、封筒を制服のポケットに押し込み、手を振って彼女を解放した。

「何が違うって? マツア。あたしは不良だよ、知ってるでしょ?」

 その瞳には、雨の日の笑顔はなかった。
 どこか投げやりで、痛みを隠したような強さだけがあった。

「でも、違う。そんなの……違う!」

 声が震えた。セイラを否定しているのではない。
 そうであってほしくないだけだった。
 そのとき、校舎の陰からひとりの女子生徒が姿を現した。

「セイラ先輩……」

 それはマツアの同級生、島田 香だった。
 セイラは受け取っていた封筒を島田に渡す。

「島田。あんたの言葉に嘘があったら、許さないよ」

 島田は深く頭を下げた。

「あたし……影浦先輩にお金を貸したのは本当です」
「ふん。あっちからも話は聞いた。心配すんな」
「ありがとうございました、セイラ先輩……」

 島田が去ると、セイラはマツアの方をちらりと見て、苦笑いを浮かべた。

「言っとくけどね。島田からはちゃんと“謝礼”もらってる。不良ですから」
「……どんな謝礼?」
「ふん……“マツアのことを教えろ”って脅した」

 そう言って、セイラは首を傾けて、雨の日と同じ笑顔を見せた。


「今日も午後、雨かな?」
「天気予報は……降水確率70パーセントです」
「ちっ……また傘がない」
「僕はあるから。先輩、送ります」
「……じゃあ、雨だったら、下駄箱で待ってる」

 マツアは、空を見上げて心の中で祈った。

――雨よ、降れ。


* * *


 放課後、予報通りの雨が降った。
 傘を持ったマツアは下駄箱でセイラを待ち、二人は相合傘で歩き出す。

「何、もぞもぞしてるの?」

 左腕が濡れないように気をつけていたマツアの動きを見て、セイラが不思議そうに覗き込む。

「べ、別に……」

「はいはい。こっち来な」

 そう言って、セイラはマツアの腕を引き寄せた。


 雨上がりの潮風の中、自然に浜辺へ降りていく。
 対岸の工場地帯に灯りがともりはじめた。夜にはライトアップされ、このあたりは地元ではちょっとしたデートスポットになっている。

 工場のひとつの排水口から、海へと続く配管が伸びていた。
 普段は誰も気にしないが、今もそこからゆるやかに濁った水が流れ出していた。

 マツアはふと視線を向けたが、何も言わなかった。


「マツアってさ、今日も“違う”って言ってくれたよね。あたしがカツアゲするはずないって」

「うん……」

「嬉しかったよ。……変だね、あたし」

 照れたように笑ったセイラの横顔に、マツアの胸がぎゅっとなった。


「マツア、あんたは――あたしの“マブ”だよ。これからは」

「マブ……?」

 意味が分からず、マツアはポケットからスマホを取り出して検索を始めた。

「ちょ、なに検索してんのよ! 恥ずかしいじゃん!」

 セイラが笑いながらスマホを取り上げる。


 潮風の中、じゃれあうふたり。



 その様子を、堤防の上から黒塗りの車が見下ろしていた。
 曇った窓の向こうから、ふたりの姿をじっと監視する目があった。


 そして――その視線の先、対岸の工場地帯から、ゆっくりと海へと流れ出る廃液が、波に混じっていた。

 工場群のライトが、夜の始まりを告げるように、静かにまたたいていた。