玄関のドアを閉めた音が、いつもより少しだけ重たく響いた。

「マツア? おかえりなさい」

 キッチンから母の声がしたが、返事をする間もなく、マツアは靴を脱ぐとそのまま二階の部屋へと駆け上がった。

 階段の途中で、自分の左腕に視線を落とす。
――やっぱり、雨に濡れた。

 部屋のドアを閉めて、シャツの袖をまくる。
 白い布が肌に張り付き、ぴたりと音を立てる。

 そして、見えた。
 光の粒が集まって浮かび上がったような、銀色の斑点。
 それは皮膚の一部が変質したかのように、かすかに煌めきながら、静かに波打っていた。

「……まただ」

 マツアは歯を食いしばると、タオルを引き寄せて腕を強く拭った。
 擦れば消えるかと思ったが、鱗のようなそれは、しばらくじっと彼の肌に居座っていた。



「どうしたの? マツア」

 ドアの向こうから、母の声がした。

「……なんでもない」

 声がわずかに裏返ったのを、マツア自身が一番よくわかっていた。

 やがてタオルが湿りきる頃、銀色の鱗はゆっくりと肌の奥へと沈み、まるで何もなかったように元の腕に戻っていった。

「ふう……」

 小さく息を吐き、ベッドの上に崩れる。
 天井の明かりが滲んで見えた。

 なぜ、自分だけがこんな身体なのか。
 なぜ、水に触れると変わってしまうのか。
 理由も、答えも、まだどこにもなかった。


 その夜の食卓は静かだった。

 母の手料理が並ぶ食卓を前にしても、マツアの箸は止まりがちだった。
 やがて、小さくつぶやくように口を開いた。

「母さん……親父って、どんな人だったの?」

 母は箸を止め、少しだけうつむいた。
 湯気の立つ味噌汁椀の向こうで、その表情が曇るのがわかった。

「お父さんは……遠い国から来た人よ」

 それ以上、言葉は続かなかった。
 沈黙が机の上に、ぽたりと落ちた。

 その表情が悲しくて、マツアはご飯をかき込むと、立ち上がった。

「母さん、僕……好きな人ができた」

 そう言って、食卓を背にしたマツアの声は、思ったよりもはっきりしていた。
 母は驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに、柔らかな笑みを浮かべた。

「……そう。いい子なの?」

 マツアはうなずきかけて、言葉に詰まった。

「……まだ、よくは知らない。でも……知りたいんだ」

 その背中を、母は黙って見送っていた。
 マツアの腕に、もう鱗はなかったけれど、彼の心には、確かに何かが残りはじめていた。

 それは、恋の形をした、痛みだった。