放課後。 今日も下駄箱でセイラを待つマツアの背中に、切なげな視線を向けるレムール。 けれどすぐに気を取り直すように笑顔を作って、マツアの顔を覗き込んだ。

「一途ねぇ、マツア」
「……レムール」
「マツアを本気で奪いたい、私」
「冗談ばかり言うなよ」

「何してるんだ、レムール。あたしとタイマン張る気かい?」 セイラが割って入る。
「おーこわ。私はおしとやかなレディなの。タイマンなんて張らない。でも、私のチャーミングさは消さないの、先輩」
「腹立つ」
「まあまあ、セイラ先輩、大丈夫です。先輩にかなう人はいません」
「腕っぷしには自信はある」

「ち、違いますよ」

「じゃあ、なんだよ?」
 レムールは肩をすくめて、舞うように校庭の方へ駆けて消えた。

 学校を出てからも、セイラはマツアの隣でふと呟く。
「何が、“かなう人はいない”なんだ?」
「ちゃ、チャーミングさですよ」
「アハッ、マツア、あたしに惚れてるのか?」
「えっ?今さら!? ……そんなことを……」
「ジョークだよ。純粋だなぁ、マツア。だから、レムールがちょっかい出して来るんだよ」
「先輩だって純粋でしょ?」
「あたしは不良だろ? アハッ」
「また、からかう……」

 放課後のセイラとのひとときが、マツアの不安を忘れさせる唯一の時間だった。

――別れまで、あとどれくらい?


※    ※    ※


 翌日。 夕食の片づけを終えたマツアが茶を淹れていると、母が食卓の向かいに腰を下ろした。
 しばらく沈黙が続いたあと、母は静かに口を開いた。
「マツア……最近、あなたの背中が、あの人に似てきた気がしてね」
 マツアは驚いたように顔を上げる。
「父さんに……?」
 母は微笑を浮かべたまま、遠い記憶を見るように視線を落とした。
「十五年前、あなたのお父さんと初めて会ったとき、あの人はまるで――」 言葉に詰まった母は、ひと呼吸置いて続けた。

「私は人に戻ったお父さんにしか会ってない。だけど――地上のものじゃないって、どこかで気づいてた。でもね、不思議と怖くなかったのよ。むしろ、心が惹かれたの。何も語らないその瞳にね」
 マツアは黙って聞いていた。 母は少し笑い、茶を一口すする。
「私ね、あなたが生まれたとき、心から思ったの。“この子は人間だ”って。そう思いたかった。でも……」
「でも?」
「あなたは海水に触れても変異しなかったのよ。だから今日まで、何もなかったことにして生きてきたのよ」
「でも、最近の出来事で……もう無理だって、そう思ったんだね?」
 母は何も言わずにうなずいた。
「内閣調査室の人がまた来たの?」
「ええ。彼らは言ったわ。“守ります”と。“隔離もせずに”と。でも、本当のところは分からない」
「守るっていう名の、監視かもしれないね」
「かもね。……でも、どんなことがあっても、私はあなたの味方よ。変わったって、変わらなくたって、あの人の子だもの」
 マツアは胸の奥で何かがふっと溶けるような気がした。
「母さん……ありがとう」
 その夜、マツアは自室の天井を見上げながら、静かに目を閉じた。 誰にも届かない未来の音が、微かに聞こえた気がした。

――別れまで、あとどれくらい

 その夜。じっとしていられなくなったマツアは街はずれの防泥壁の方へと足を向けていた。 その上には小さな灯台があり、海と空がつながるような静かな場所だった。
 そこに、いつもの白いパーカー姿のレムールが立っていた。
「上に、奴らがいる」
「うん、でしょうね。私のことは心配いらないわ。“姫”ですから。一応、海の中に護衛がうじゃうじゃいるのよ」
 マツアは思わず海面を見つめる。 波間に、光る目のようなものがいくつも浮かんだ気がした。
「……護衛か」
 そのとき、海中から響くような声が届く。

『姫、もし何かあればすぐに合図を』

 レムールは小さく返す。

「心配いらないわ。黙って見ていて」

「君も監視されてしまったのか……?」
「マツアに接触する者は全員、監視対象よ」
「でも、なぜ僕は……」
「あなたのおじいさんがお父さんを陸に引き上げた時、水難届けを出さないはずがないでしょ? ただ、15年前はまだ“何も起きていなかった”」
「なぜ父さんは陸に近づいたんだ? それに、救助されるほどの状態だったのは……」
「探索よ。地上人がオロイの言うように本当に“危険な存在”かどうかを。瀕死の状態になったのは、あれのせい」
 レムールは湾に沿って並ぶ工場群を指さした。 ライトアップされた建物群は、蜃気楼のように夜空に浮かんでいた。

「工場からの廃液」
「……え?」
「私たちは海の果ての島々で生きている。海の中は、澄みきった世界。地上に上がる前に海棲人状態でいたら、エラ呼吸に変わっている。そこに、汚染された水が入ってきたら……」
「……体内に直接?」
「そう。お父さんはそれで衰弱したのよ」
 マツアは、思わず海を振り返った。
「先日、亡くなった漁師さんが引き上げた海棲人も?」
「私たちは同じ過ちは繰り返さない。あの同胞は、反対派閥の男だったの。もともと潜入していたけど、オロイ派の者と揉めたらしい」
「君たちは……他にも、いっぱいいるのか?」
「もちろん。マツアのお父さんの後、正式な“潜入部隊”が組織されたの」
「じゃあ、漁師さんを殺したのも?」
「表に出るつもりはまだなかった。あれは過激なオロイ派の仕業。……と、言われてる」
「でも、どうやって……」
「完全変異すれば、サメのように地上人を引き裂けるわ。……見る? 私の“変異体”」
「……見たくない」
「ふふ、本当に? 私も、最近は“見せたくない”と思うようになってきたわ。……セイラのモノの、あなたに対してはね」

 防泥壁のふもとで、マツアが去ったあと。
 灯台の明かりが弱く瞬く下、レムールはふと振り返り、波間に向かって静かに口を開いた。
「出てきなさい。隠れるの、下手すぎ」
 すると、海中からゆらりと浮かび上がるように、黒装束のようなフォルムの男たちが三人、水面の縁に姿を見せた。目元だけが覗くその顔には、感情の色はない。
「姫、危険な接触です。あの少年は――」
「マツアは私が許可したの。勝手な指図は許さないわよ」
「……ですが、オロイ派の目もあります。次に地上で動くのは、我らではなく彼らかと」
 レムールは一歩前に出て、波の際に立った。
「次に誰が動いても関係ない。あの子は私の判断で守る。――わかった?」
 海の中から一人がうなずく。
「了解しました、姫」
「それと、母にはまだ報告しないで。もう少しだけ、私に時間をちょうだい」
 レムールの声は風にかき消されそうに静かだった。
 波がまた音を立てる頃には、護衛たちの姿はすでに水の中へと消えていた。
 レムールは海に背を向け、もう一度、防泥壁の上――灯台の光に照らされた空を見上げる。

――別れまで、あとどれくらい?

※   ※   ※

 その夜、セイラの部屋では、小さな卓上ライトだけが点いていた。 便箋の前で、セイラはため息をついていた。

『マツアへ』
 書き出したはずの言葉が、何度も何度も消されていた。
(どうして、こんなに素直になれないんだろ)
 ペンを握り直し、ようやくひとこと書く。
『あんたのこと、ずっと気になってた。初めて出会ったときから。』
 だけど、そこまで書いてセイラは手を止める。
「……違う、これはあたしらしくない」
 そのまま、便箋を破ってくしゃくしゃに丸め、ゴミ箱に投げ入れた。
――届かなくていい手紙。けれど、確かに想いはあった。

※   ※   ※

 翌日の放課後。

 マツアはいつものように下駄箱前でセイラを待っていた。 レムールは現れなかった。
 不安げに周囲を見渡すマツアの姿を、少し離れた影からセイラが静かに見つめていた。

「お待たせ。マツア」
 振り返るマツアに丸めた紙を投げつけるセイラ。
 紙くずを広げるマツア、中を見るとノートのメモ書きのように
『ありがとう。あたしを見つけてくれて』
 マツアはくしゃくしゃになったメモを綺麗に畳んで財布の中にしまった。
「先輩、待ってよ」
 セイラは照れくさいからか足早に歩いて行く。
 マツアが追いかける。

──別れまで、あとどれくらい?