傘をさす音ばかりが、遠ざかっていく。
 放課後の校門前で、誰かの足音に混じって、マツアはひとり立ち止まっていた。

 見えたんだ。
 長いスカートの制服。濡れた黒髪。
 セイラ(清良)先輩は、また傘を持っていなかった。
 ペタンコな鞄にはきっと何も入ってない、傘さえ入らない。
 ショーワの不良少女を一人で演じているのもカッコいいと、マツアは密かに思っていた。


 少し離れた位置から、マツアはそれをただ見ていた。
 君のまわりだけ、風が冷たく感じたのは気のせいだろうか。
 声をかけようとした。でも、無理だった。

 遅れて歩く自分の影だけが、ゆっくりと舗道に滲んでいく。
 先輩の後ろ姿が小さくなるたびに、胸の奥が、少しずつ軋むように痛んだ。

 それが、最初の雨の日だった。

 二度目の雨は、数日後だった。

 その日もセイラは、校門のそばを傘もささずに歩いていた。
 まるで、あのときの続きをなぞるかのように。

 マツアは、ふと手にしていた自分の傘を見た。

 一歩、また一歩。
 迷いながらも、彼女に向かって足を速める。
 気づけば、駆け出していた。

 びしょ濡れのままのセイラの腕に、そっと傘を差し出す。
 その手は、少し震えていたかもしれない。

「……風邪、ひきますよ」

 セイラは驚いたように顔を上げ、そして、ふっと笑った。

「そっちが入ればいいじゃん」

 マツアが首を振ると、セイラは傘を押し戻すような彼に、少しだけ声の調子を変えた。

「……一緒に入ればいい」
 セイラがじっと見つめていた。
「……あたしが怖いかい?」

 その声はまるで、マツアの心の内をずっと前から知っていたようだった。


気づけば、二人は並んで歩いていた。
  雨の音と、少しの沈黙。
  そして――

「ねぇ、いつもあたしを視ているでしょう?」
「えっ……」

 不意に、マツアの心臓が跳ねる。

「あたしの噂は聞いてるでしょう? まっ、いいけど」

 そう言ってセイラは、ふいに首を傾げて、微笑んだ。

 その一瞬。時が止まった。
 その笑顔が、マツアの胸の奥に、焼きついた。

 どんなに風が吹いても、どんなに雨に濡れても――
 たぶん、もう消えない。

「あんた、名前は? 後輩くん」
「ま、マツアです。セイラ先輩」
「マツア? わかった」

 マツアは、自分の名前の由来をふと思い出した。
 父が言っていた。

「マツアっていうのはな、伝説の王の名前なんだ。昔、海を越えて島を作った王がいたんだよ」

 そのときは笑って聞き流した。
 でも今、自分のなかに芽生えつつあるものが、いつかその伝説と重なることを、マツアはまだ知らなかった。