1
秋元鈴江はTシャツの肩をたくし上げた。上腕部の見事な般若のタトゥーが露わになった。彼女が地下格闘技団体ウィッチにスカウトされたのは、僅か2週間前、オートバイで暴走行為をして、警察に追われていた時だった。
ワゴン車の後部座席で、鈴江は煙草に火を点けた。勝手に窓を細めに開けた。
「コラ、煙草を吸うな」
運転席の河合が叱責した。河合はトレーナーだ。
「いいじゃない。呼吸器が弱くなる訳でもないし。この方が却って呼吸、楽」
「緊張感というものはないのか」河合が運転しながら言った。「これから試合なんだぞ」
「構わねえよ、ちっとも。唯の殴り合いだろう」
「喧嘩とは違う。MMAだ」
「それは立ち技だけなんだよね」
「それはシュートボクシングだ。MMAは寝技もOK、ちゃんと教えただろう。ド素人が」
「煩いな、分かったよ。なら、締めも出来るんだね」
「出来るルールだが、相手からテイクダウンは取れないぞ」
「どうして」
「全く分かってないな。相手の北和美はウィッチのフェザー級チャンピオンなんだぞ」
「どうして、私、初戦でタイトルマッチなの」
「それは教えられない」
「どうして」
河合は苦笑した。
「分かったよ。しかし俺の責任じゃない。北和美はメジャー団体Purple Rocksに移籍が決まっているんだ。絶対負けられないから、ウィッチでの最後の試合は、唯の喧嘩自慢相手と決まったんだ」
「私、負けるために闘う訳?」
「そうだ」
鈴江は煙草を窓から投げ捨てた。
「それでもいいわ、私、勝ってやるから」
「無理だ、到底。序の口と横綱の違いがある」
「私、喧嘩で負けたことないのよ」
「御前はそのレベルだ、所詮」
「そのレベルって、どうせ地下格闘技でしょう」
「だから、相手はプロだと言ってるんだ」
「私、柔道やってたから、寝技に持ち込んで、頸を締めて落としてやる」
「北和美は、寝技も素人じゃない」
「そうか、高嶺の花なんだね。きっと美人なんでしょうね」
「そうだな」
「プロになれるのは、実力より、実はルックスなんじゃない?」
「格闘技を舐めるな。実力が全ての世界だ。女子プロレスとは違う」
「どうせどちらも風俗営業ぎりぎりでしょう」
「全く分かってないな。真剣勝負だ、掛け値なしの。御前の鼻も顎も折れるかもしれない」
「脅かさないでよ」
「事実だ。北のパンチは強いぞ、覚悟しろ」
「大丈夫よ、私も喧嘩自慢だから」
ワゴン車は、伊敷を曲がって、山道に入った。
「どうでも良いけど、随分辺鄙なところが会場なのね」
「犬迫だ、この業界、まだまだ認知が足りない。鹿児島市内は何処も会場を貸してくれない」
「どうして」
「御前の言う通り、風俗営業と勘違いされている。それに暴力だから、体育館とかからは断られてるんだ」
「犬迫に会場なんかあるの」
「永源寺という浄土真宗の寺が、場所を貸してくれた」
「寺なの、何か不気味だね。納骨堂もあるんでしょ」
「あるさ、御前も死なないように、しっかり北のパンチをガードしろよ」
「了解」
永源寺の境内には、大きな阿弥陀仏の仏像があった。郊外の公民館程度の広さしかない会場で、鈴江達は控え室に入った。控え室は、僧侶の僧服への着替えのスペースらしく、痛んだ畳敷きの小部屋だ。
鈴江は河合から入念にバンテージを巻いて貰った。最初から試合を舐めていた鈴江も、次第に緊張感に囚われ始めた。
また相も変わらず殴り合いなのだ。小金を貰ったとは言え、ストリートと変わりは無い。否、遙かに危険な暴力なのだ。
私のような不良には、殴り合いしかないと鈴江は諦観した。生まれてからこの方、親から殴られ、教師に殴られ、不良の悪友から殴られ、良い思い出は一つもない。
マウスピースは昨日、歯科医にて作って貰った。付けてみると、歯にピッタリ合う。
慣れない減量も大変だった。何より水抜きは、耐え難かった。フェザー級の計量を昨日パスした。
相手がチャンピオンなので、初試合ながらメインイベントだった。待ち時間は死ぬ程長い。
鈴江は眠って過ごすことにした。テクニックなど、身につける以前の初戦だ。自分のものは格闘技とは言えない。喧嘩の勘だけは自信があったが、要するにそれのみだ。
葬儀の斎場の会場で、既に試合が始まっていた。河合に見学を促されたが、断った。唯、何もかも忘却して眠りたかった。自分の人生なんて、と留まらない内省を止めるべく、眠りに落ちたかった。
夢を見た。先刻見た阿弥陀仏が、生き仏となって鈴江に語りかける夢だった。仏様も言うことに変わり映えはない。世間の大人と同じだ。
やがて、河合から揺り起こされた。
時間が来たようだ。
鈴江はグローブを付けた。素手と変わらないような薄いグローブ。これは本当に危険らしかった。
鈴江は会場に入場した。入り口から、かの仏像が見えた。彼女は生まれて初めて、南無阿弥陀仏を唱えた。
設えられたリングも狭かった。
入場曲はライオットのウォリアー。狭い会場に観客は疎らだった。小さなライトが彼女を照射した。鈴江はリングに上がった。
続いてチャンピオンの登場。
入場曲はジューダスプリーストのペインキラー。華やかな茶髪の美貌の目立つ、北和美が冷厳に入場した。
少ない観客ながら、割れんばかりの歓声が上がった。北の肉体は良く鍛錬された筋肉隆々、それにルックスがレベル高いので、プロに行ってもかなりの人気を勝ち得そうに思われる。
ゴングが響いた。
河合が鈴江の背中を押した。
鈴江はリング中央で、北と対峙した。
まず、重いジャブが鈴江の胸元に来た。胸にそれだけで激痛が走った。
「この野郎」
鈴江は、フックかストレートか分からない喧嘩パンチを繰り出した。北はいとも軽くかわして、更にパンチを胸元に打ち込む。
かなり効いた。鈴江は腕を振り回して、パンチを返したが、全く当たらない。テクニックが違いすぎた。
北のパンチは、今度は頬にヒットした。頬骨が骨折したかと思われる程のダメージを受けた。
鈴江は後方に下がった。続いて、北のハイキックが鈴江のこめかみを捉えた。激痛などというものも超えていた。早くもダウン寸前。
続いて、ローキックが鈴江の腿を砕いた。
鈴江は、堪らずにダウン。
未だ落ちてはいなかったものの、意識朦朧とし始めていた。冷酷なカウントが続く。
「未だやれるか」
「やれる、当たり前だろう」
レフェリーの問い掛けに、怒りを込めて返した。
「この野郎、許さないからな」
鈴江は心の裡で念じて、今度はタックルを仕掛けた。逆に北は足払いを掛けてくる。それだけで鈴江は倒れかけた。
しかし転んでも、唯では起きない。
北の胴にしがみついたまま、鈴江は倒れた。結果共倒れ。
背後に回って、頸締めをと、鈴江は焦った。考えられる限りの全精力を込めて、グラウンドで北の背後に組み付いた。
運良く、相手の頸に腕が回った。
柔道で習い覚えた技だった。
鈴江は北の頸を締めた。
「この野郎」
鈴江は両腕に力を込めた。
鈴江も驚いたことに、北は堪らずにマットをタップした。
勝った、私が。
立ち上がった鈴江の、般若のタトゥーの左腕を、レフェリーは高々と上げた。
場内、歓声が渦を巻いた。
その折だった。
矢庭に場内に一発の銃声が轟いた。秋元鈴江は、胸元を鮮血に染めて倒れ伏した。
続いて、二発三発の銃声、鈴江は絶命した。
発砲した輩は、黒のキャップにサングラス、黒マスク。会場の後方から、出口の方へ全力で疾走した。
呆気に取られて、誰もあとを追わなかった。
犯人は入り口付近に停めてあった車に乗り込んで、あっという間にその場から逃走した。
2
安田警部補は、殺人事件発生を無線で通知を受け、現場の犬迫町に急行した。その途中、スマホに連絡が入った。
「安田だが」
「警部補、誠にすみません。新村です」
「ああ、どうかしたか」
警部補は路肩に車を停めて、部下からの電話に集中した。
「警部補、本当にすみません。ちょっと対向車と接触してしまいました」
「交通事故か。場所は何処だ」
「桜ヶ丘です」
「現場の犬迫町から、かなり遠いな。で、暫く動けないのだろう」
「はい、事故処理に時間を要します」
「交通事故は仕方がない。気にするな。現場で待っているから、ゆっくり来ていいぞ」
「有難うございます」
安田の覆面パトカーは山間の道路を疾駆した。九州先端医療病院の巨大な建物を通り過ぎると、殺人現場の永源寺は直ぐだった。
初動捜査は開始されたばかりだった。ストロボの閃光が瞬時遺体を捉えた。腕のタトゥーが目立つ筋肉質の躰の遺体は意外に安らかだ。銃弾は心臓を射貫いており、ほぼ即死で、苦痛はなかったらしい。
「三発撃たれて、全てが胸部、背中に命中しています」
係官の合田が警部補に説明した。
「此処は女子ボクシングの試合中だったんだな」安田は言った。
「正確にはMMA、総合格闘技です。試合は被害者の秋元鈴江が勝利していて、勝利直後に撃たれた」
「相手は」
「別室に控えています。地下格闘技団体ウィッチのフェザー級チャンピオンで、北和美という選手です」
「北という選手は負けたのだろう。チャンピオンなのか、未だ」
「難しいところですね。勝者の秋元は死んでしまった。タイトルは一体どうなるのか」
「秋元鈴江は強い選手だったのか」
「いいえ、2週間前にスカウトされたばかりのド素人です。ですから試合は大番狂わせです。確実にチャンピオンの北和美が楽勝する筈の試合でした」
「すると、動機はその辺りになるのかな。被害者は勝ってはいけない試合を勝ってしまった」
「そうかもしれません」
「この手の興行は、暴力団が関与しているのだろう」
「そうではないようですが、いずれにせよ、それに近い闇組織の興行でしょう」
「凶器は何しろ拳銃だからな。拳銃には前歴があるかもしれん」
「そうですね、案外簡単に片が付くかも」
「ところで、逃走した犯人の車は?」
「近くで乗り捨てられていました。犯人は車を変えて、逃走したようです」
「そうか。で、こんな格闘技団体の試合なのだから、カメラの撮影は行われてなかったのか」
「ありました。南日本新聞のカメラマンが犯人とその車を撮影したそうです」
「それは好都合だ」
「余り当てになりません。犯人はサングラスとマスクで顔を隠していましたし、車は乗り換えて逃走した訳ですから」
「すると車は盗難車かな」
「そうかもしれません」
「それで、この興行主は誰だ」
「貝谷太郎です。あちらに控えています」
「事情聴取してみよう」
貝谷太郎は五十代の眼光の鋭い男だった。意気消沈している様子にも見えた。
安田警部補は、興行自体から尋ねた。
「女性のみの格闘技団体なのだね」
「そうですよ。私は元プロボクサーです。戦績はお恥ずかしい限りですが」
「鹿児島ではこのような団体は珍しいと思うが」
「そうですね、ウチだけです。しかし鹿児島は伝統的にプロレス人気の高い土地柄で、女子プロレスの人気もかなりです。私達も徐々に知名度を高めている過程です」
「チャンピオンが新人に負けたということらしいが」
「ええ、全く困った事態です。北和美はメジャー団体に移籍が決まっていて、それこそ戦績に傷を付けたくなかったから、ペイペイの素人を当てたんです」
「しかし、素人が勝ってしまった」
「ええ、メジャー団体からは移籍の契約金を既に受け取っているんです。全く困ったことになりました」
「だから殺したのではないのかな」
「私がですか、とんでもありません。私共は純粋にスポーツとしての格闘技をやっているので、暴力団ではありません」
「そうかな、調べれば分かることだ」
「勘弁してくださいよ」
「凶器は拳銃だ。暴力団関与の可能性がある」
「ですから、私共は暴力関係の方々とは一切無関係なんです」
「そうは思えないが」
「偏見ですね、それは。私達は極めてクリーンです」
「まあ、いい。それでは、北和美を呼んできてくれないかね」
「分かりました」
北和美は、美貌の格闘家だが、見る影もなく萎れていた。精神的にかなり不安定な様子なのだった。
「さて和美さん、今度の事件をどう思うかね」
「私は一格闘家ですから、何も分かりません」
「負けたことについては」
「あれはまぐれだったと思っているんですが」
「というと」
「私の支え釣り込み足が利いて、相手が倒れたんです。相手は私にしがみついたままでしたから、私も倒れてしまった」
「負ける筈はなかった?」
「勿論です」
「何故相手は殺されたと思う?」
「分かりません」
「メジャー団体には、チャンピオンのままでなければ、移籍出来ないのではありませんか」
「それとは無関係と思いますけど」
「大いに関係あると思うが」
「そんな……」
「まあ、いい。君が殺した訳ではない」
3
温故知新。亀田浩志は、CDプレーヤーにジミヘンドリックスのウッドストックライブをセットした。鳴り出したのはブルースと呼ぶには余りにハードロック寄りの轟音ギター。しみじみと聴き入った。
天文館の外れ、いずろの彼の探偵事務所、珍しく最近収入の方は先ず先ずだった。浮気調査が一度に5件もあり、簡単な尾行だけで済み、懐は暖まった。
全く夏が近づくと人間の性欲が昂進して、不倫が増加するのだろうか。何とも懐かしい小説、モーリスルブランの八点鐘には、冒険は何処にでも転がっていると書かれている。私立探偵の仕事も何処にでも転がっていると思われた。
考えてみると、探偵の仕事は、郵便に対するメッセンジャーのようなものだ。郵便は行政サービスで極めて安価だが、個人のメッセンジャーは車かバイクで物を届けるだけなのに偉く高額だ。郵便局が開いていない時とか、速達より速く届けたい場合、メッセンジャーを利用せざるを得ない。私立探偵の仕事も同様だった。本当はもっと繁盛してしかるべきとも思われた。付き纏う胡散臭さが、それを阻んでいるのだろうか。
机上の電話が鳴った。
また仕事らしかった。
「はい、亀田探偵事務所です」
「あの、秋元晃司と言う者ですが」
若い男の声だった。
「秋元様、どのような御用件でしょう」
「あの、俺、警察を信用していないんです」
「ああ、なる程、そうなんですね」
「警察は俺達のような不良や半グレの味方はしてくれない」
「そうでもないと思いますが、御用件は何でしょう」
「実は、妹が殺されたんです」
「殺された。穏やかでないですね。妹さんの名前は?」
「秋元鈴江」
「何処かで聞いた名前ですね。ええと……そうだ、格闘家ではなかったですか」
「そうです」
「なる程、秋元さんの事件なら、ニュースで見て、知っています」
「今から伺って大丈夫でしょうか」
「宜しいです。事務所の場所は分かりますか」
「はい」
秋元晃司は約三十分後に、事務所を訪れた。腕に蛇のタトゥーのある、見るからに恐そうな青年だった。
「初めまして、私が亀田です。どうぞお楽になさってください」
「どうも」
「此方がメニュー表というか、探偵の利用料金を書いた表です。此方で宜しかったでしょうか」
「随分高いな」
亀田は敢えて答えなかった。
「まあ、いいでしょう。バイトで貯めた金はある」
「良かったです」
秋元は真顔になって頭を下げた。
「お願いします。妹の敵を討ってください」
「敵討ち。犯人を捕まえてくれと仰有るのですか」
「ええ、是非お願いします。警察は残念ながら俺達の敵ですから。探偵の方におすがりするよりないんです」
「私立探偵ごときを信頼頂き、有難うございます。宜しいでしょう。お引き受け致します」
「有難うございます」
「それでは、早速ですが妹さんの男性関係はどうなっていましたか」
「さあ、俺は知らないんです。分かっていれば復讐に行くんですが」
「痴情のもつれが事件の原因とは決まってはいません。まあ、その可能性はある訳ですが。で、誰に聞けば分かりますか」
「仲間たちだな」
「仲間というと」
「暴走族のメンバーです。レディースのブラックタイガーという族」
「なる程、それは調査は厄介かもですね」
「お願いします。妹はそこの総長だった」
「分かりました。他には何方と親しかったんですか」
「このタトゥーを入れた」秋元は腕の彫り物を見せた。「妹は般若のタトゥーを入れた、同じ彫り師と親しくしていました」
「男性関係があったということではないんですよね」
「いいえ、彫り師は赤村といって、かなりの老人です。親代わりのように色々な相談に乗ってくれていました」
「分かりました。で、女友達の方は、暴走族以外には」
「鈴江は高校では、はみ出し者で暴走族以外に友人はいない筈です」
「なる程、そうですか。それで、彼女は暴力団とは付き合いはあったんですか」
「暴走族はその予備軍みたいなものだから、あったと思います」
「何か手痛いミスを犯したようなことは。暴力団員を怒らせるような」
「さあ、分かりません」
「何処の組ですか」
「桜一家です」
「矢張りそうですか」
「あとは、僅かな期間の付き合いですが、格闘技団体ウィッチのトレーナー、河合という人と親しかったらしい」
「分かりました」
亀田は幾つかメモを取った。
深夜オートバイの爆音が幾台もこだましていた。物々しいレディースの特攻服に身を包んだ少女達がたむろしている。
亀田はその集団に平然と近づいた。全く場違いな存在だった。オヤジ狩りに遭う危険も無くはなかった。だが亀田はあたかも友達のように、集団に向き合った。
「何だ、御前は。サツか?」
新しい総長らしい、両腕にべったりタトゥーを入れた姉御が尋ねてきた。
「何だ、御前は?」
他の少女も口を揃えた。
凄い殺気だった。何時でも喧嘩が始まりそうだ。
「警察ではないよ。私は私立探偵だ」
「私立探偵だと」
「そうだ。前の総長の秋元鈴江さんについて訊きたい」
「鈴江についてか。彼奴は死んだ」
「ああ、だから死の原因を調べているんだ。警察からも訊かれたと思うが」
「サツになんか一切協力しない」
「だとしても、一般人の私には協力してくれないか」
「何だと、殺すぞ、御前」
取り巻きの一人が凄んできた。
「頼むよ、鈴江さんの為なんだ。何でもいい、話してくれないか」
「分かった。何を知りたい?」
「鈴江さんは、桜一家とトラブルがあったのか」
「ないでもないが、殺される程ではなかった。寧ろ桜一家は彼女の支持母体だった」
「そうなんだ。で、彼女、男性関係はどうだった?」
「そんなこと、教えられるかよ」
「知る必要があるんだ。頼むから」
「仕方ねえな……居たよ、彼奴に首ったけな中年男が」
「中年男か、名前は分かるかな?」
「知らないね。でももう大分前に関係は終わってる」
「鈴江さんが振ったのか」
「当たり前だろう。中年男なんかと、マジで付き合うものか」
「Mr.Xが出てきたな。有難う、礼を言うよ。そのXはしつこくストーカーしたのか」
「一時期はそうだったらしいな。その男は鈴江のタトゥーに惚れたとか。全く莫迦な話だよ」
「そうなんだ。有難う、少ないが、これは謝礼だ」
亀田は数万円を彼女に渡した。
「いらねえな、こんなはした金」
総長は札を地面に叩きつけた。
「兎に角、助かったよ」
亀田は一礼して、踵を返すと、その集団から離れた。
亀田は次の夜、田上町の古アパートを訪ねた。田上寺の下の外れ、モルタルぼろぼろのアパート。ジャックダニエルの700mlを土産に携えていた。
タトゥーショップから聞いた部屋番号は203、ぎしぎし鳴る階段を上がった。
亀田が203の呼び鈴を押すと、ドアの向こうで、老人特有のしわぶきが聞こえた。
「亀田と言う者です。秋元晃司さんの紹介で参りました」
「晃司の紹介」
赤村はドアを細めに開いた。
「何者かね、アンタは」
「私立探偵です。お好きということで、お持ちしました」
亀田は、ジャックダニエルを見せた。漸く赤村は部屋に招じ入れてくれた。
「汚い畳で、座布団もないが、その辺に座ってください」
「有難うございます」
赤村は、早々とグラスを出してくると、ボトルを開けた。依存症らしい。
「用件は何かね」
「実は、殺された秋元鈴江さんについて調査しているんです」
「鈴江さんか、全く残念なことをした」
「そうですね」
「いや、私が残念と言っているのはタトゥーのことなんだ。不謹慎かもしれないが。あの般若は私の生涯の自信作だった」
「そうなんですか」
「いや、少しも誇張はない。あの般若は彼女にも似合っていた。しかもだな、それだけではないんだ」
「と仰有ると」
「これで亡くしたのは二人目でね。全く双子かと思える別の女の子にも、同じ般若を彫ってあげていた」
「その子も死んだんですか」
「ああ、昨年、乳癌で亡くなったと聞いている。いや、しかし貴方のお尋ねの件は、鈴江さんの方だね」
「いいえ、其方のお話も十分参考になります。どうぞ、続きを」
「いや、私としては、自信作の般若が続けて亡くなったので、本当に呑みたい気分だったんだ」
「もう一人の名前は?」
「南洋子と言う娘だ。まあ、洋子さんはどちらかと言えば勝ち気な性格で、私にはなつかなかったが」
「鈴江さんとは仲が良かったのですよね」
「ああ、本当の娘みたいに思えた」
亀田はそろそろ本題に入ることにした。
「それで、ですね。鈴江さんが交際していた中年男性について、何かご存じないでしょうか」
「うん、実はそれは警察にも話した」
「ご存じなんですね」
「その男について詳しくは知らないね。名前も知らない」
「何を警察に話されたんです」
「その男は、鈴江さんのタトゥーに惚れたとか言うんだ、だから私としても気がかりでね」
「その情報は他からも得ています。他にご存じのことは?」
「歳の離れた中年男だったとしか聞いておらんのだがね」
「有難うございます。それだけでも十分参考になります」
4
珍しく安田警部補が、亀田の事務所に来ると言う。しかも緊急の用件だと電話で伝えてきた。何事かと亀田は訝った。
日曜日の午後5時で、亀田は出来れば従兄弟の警部補に晩飯を奢って欲しかったが、警部補は外で会うことを拒んだ。相当に内密を要する用件の様子だった。
普段ならば、人混みの会見の方が却って秘密を保持出来るとする考え方を採用する従兄弟だが、今日は一体どうしたのだろうか。
電話から凡そ10分後に、警部補は事務所に現れた。常に見ない暗澹たる表情なのだった。
「一体どうしたんですか。叔父さん」
警部補はデスクを挟んで対座し、深い嘆息とともに答えた。
「ちょっと信じられないような事態に立ち至っている」
「何がですか」
「今の事件の捜査がだ」
「どの事件です」
「秋元鈴江殺害事件だ」
亀田も嘆息した。
「それなら、丁度私も調査中ですが」
「御前も事件を調査しているのか」
「ええ」
「それならば、話は速い。どの辺りまで調査は進んでいる」
「鈴江さんに、中年男の恋人がいて、鈴江さんがその男を振った、と言った辺りまで」
「うむ、凶器の拳銃には前歴があった。桜一家の組長自宅に撃ち込まれた銃弾と、一致した」
「すると、矢張り暴力団絡みの事件だった訳ですか」
警部補は苦悩の表情で首を振った。
「そうではない。そうではないらしいから、悩んでいるんだ」
「どういう経緯ですか、説明をお願いします」
「矢張り、鈴江が振った男の線が濃厚になってきた」
「そうなんですか」
「嗚呼、実は鈴江と同じ般若のタトゥーを彫った女性がいた」
「私も其処までは調べています」
「警察が調べてみるとだな、その南洋子の付き合っていた男と、鈴江の彼氏は同一人物だった」
「何ですって」
「南洋子は異常なくらい、彼女に熱を上げていた彼氏を非情に裏切り、別の男に走った。それから、乳癌で亡くなった。男はその後、全く同じ般若のタトゥーを彫った鈴江に交際を申し込んだ。しかし鈴江も、男を冷たくあしらった」
「なる程、鈴江さんのタトゥーに惚れたというのは、そういう意味だったんですね」
「ところでだ。その男は一体何者だと思う?」
「何ですか、私の知っている人?」
「調べてみると、その男というのは新村刑事だった」
「何ですって」
亀田は絶句した。新村刑事は、安田の部下の一人で、亀田も付き合いは長かった。
「Mr.Xは、新村刑事だったんですか。信じられない」
「刑事なら、闇で暴力団の拳銃を押収することは不可能ではない。しかも彼は射撃の腕前はかなりのものだ。しかし新村は犯人ではないんだ。新村には強固なアリバイがある。彼は犬迫町での事件の直後、相当に距離の離れた桜ヶ丘で、車の接触事故を起こしている。新村は犯人ではあり得ない」
「安心しました」
「安心は出来ない。容疑の点から新村は限りなくクロに近い」
「では、叔父さんを悩ませているのは、アリバイ崩しですか」
「そうなるが、これは全く不可能だぞ」
「桜ヶ丘で事故を起こしたのは別人だったのでは?」
「あり得ない。警察が事故処理の写真を撮っている。新村本人が写っている」
「なる程、難問ですね」
「我々警察も道路交通法を遵守しなければならない。第一、どれ程車をとばしても、犬迫町から桜ヶ丘まで、瞬時に移動することは不可能だ」
「これは、困りましたね」
「だから、御前に相談だ。これを可能に出来るか?」
5
亀田はこれ程、苦悩する従兄弟を見たことはなかった。長年慣れ親しんだ一番の部下に、宣告しなければならないのは、耐え難かったらしい。
県警本部内部、取り調べ室。特別に、亀田も参与していた。証人も一人呼んでいた。
安田警部補は務めて厳かに切り出した。
「新村君、私は君を信じていた。本当に信頼していた。こんな日が来るとは思わなかった」
新村は顔を上げられなかった。
「警部補、誠に申し訳ありません。私は本気で真から南洋子と秋元鈴江を愛していたんです」
「そうらしいな。だが、それは異常な愛と言わざるを得ない」
「申し訳ありません」
「今日は一人、証人を呼んでいる。鹿児島大学医学部教授の田村医師だ……先生、どうぞこちらに」
田村医師は、警部補の隣に腰を下ろした。禿げ頭で眼鏡を掛けた知的紳士だ。
「それでは、新村さん」亀田が言った。「此処に黒眼鏡があります。それを掛けてみてください」
新村は言われるままに、眼鏡を掛けた。指先が震えていた。
「次に新村さん」亀田は続けて言った。「そのウイッグを取ってください」
新村は更に震える手で、自分の鬘を取った。
「どうです、新村さん、今の貴方の顔は、田村医師にそっくりではありませんか」
新村は観念した。
「……そうです。私が鈴江を殺しました」
「そうですね、貴方は鈴江を殺害した後、逃走に使った車を乗り捨て、九州先端医療病院に入った。其処では、丁度ドクターヘリがテスト飛行のために待機していた。貴方は田村医師に変装して、ヘリコプターに乗った。ドクターヘリは、其処から一直線に桜ヶ丘の鹿児島大学医学部に向かった。貴方のアリバイはすると、崩れますね」
「申し訳ありませんでした……」
新村は泣き崩れた。
秋元鈴江はTシャツの肩をたくし上げた。上腕部の見事な般若のタトゥーが露わになった。彼女が地下格闘技団体ウィッチにスカウトされたのは、僅か2週間前、オートバイで暴走行為をして、警察に追われていた時だった。
ワゴン車の後部座席で、鈴江は煙草に火を点けた。勝手に窓を細めに開けた。
「コラ、煙草を吸うな」
運転席の河合が叱責した。河合はトレーナーだ。
「いいじゃない。呼吸器が弱くなる訳でもないし。この方が却って呼吸、楽」
「緊張感というものはないのか」河合が運転しながら言った。「これから試合なんだぞ」
「構わねえよ、ちっとも。唯の殴り合いだろう」
「喧嘩とは違う。MMAだ」
「それは立ち技だけなんだよね」
「それはシュートボクシングだ。MMAは寝技もOK、ちゃんと教えただろう。ド素人が」
「煩いな、分かったよ。なら、締めも出来るんだね」
「出来るルールだが、相手からテイクダウンは取れないぞ」
「どうして」
「全く分かってないな。相手の北和美はウィッチのフェザー級チャンピオンなんだぞ」
「どうして、私、初戦でタイトルマッチなの」
「それは教えられない」
「どうして」
河合は苦笑した。
「分かったよ。しかし俺の責任じゃない。北和美はメジャー団体Purple Rocksに移籍が決まっているんだ。絶対負けられないから、ウィッチでの最後の試合は、唯の喧嘩自慢相手と決まったんだ」
「私、負けるために闘う訳?」
「そうだ」
鈴江は煙草を窓から投げ捨てた。
「それでもいいわ、私、勝ってやるから」
「無理だ、到底。序の口と横綱の違いがある」
「私、喧嘩で負けたことないのよ」
「御前はそのレベルだ、所詮」
「そのレベルって、どうせ地下格闘技でしょう」
「だから、相手はプロだと言ってるんだ」
「私、柔道やってたから、寝技に持ち込んで、頸を締めて落としてやる」
「北和美は、寝技も素人じゃない」
「そうか、高嶺の花なんだね。きっと美人なんでしょうね」
「そうだな」
「プロになれるのは、実力より、実はルックスなんじゃない?」
「格闘技を舐めるな。実力が全ての世界だ。女子プロレスとは違う」
「どうせどちらも風俗営業ぎりぎりでしょう」
「全く分かってないな。真剣勝負だ、掛け値なしの。御前の鼻も顎も折れるかもしれない」
「脅かさないでよ」
「事実だ。北のパンチは強いぞ、覚悟しろ」
「大丈夫よ、私も喧嘩自慢だから」
ワゴン車は、伊敷を曲がって、山道に入った。
「どうでも良いけど、随分辺鄙なところが会場なのね」
「犬迫だ、この業界、まだまだ認知が足りない。鹿児島市内は何処も会場を貸してくれない」
「どうして」
「御前の言う通り、風俗営業と勘違いされている。それに暴力だから、体育館とかからは断られてるんだ」
「犬迫に会場なんかあるの」
「永源寺という浄土真宗の寺が、場所を貸してくれた」
「寺なの、何か不気味だね。納骨堂もあるんでしょ」
「あるさ、御前も死なないように、しっかり北のパンチをガードしろよ」
「了解」
永源寺の境内には、大きな阿弥陀仏の仏像があった。郊外の公民館程度の広さしかない会場で、鈴江達は控え室に入った。控え室は、僧侶の僧服への着替えのスペースらしく、痛んだ畳敷きの小部屋だ。
鈴江は河合から入念にバンテージを巻いて貰った。最初から試合を舐めていた鈴江も、次第に緊張感に囚われ始めた。
また相も変わらず殴り合いなのだ。小金を貰ったとは言え、ストリートと変わりは無い。否、遙かに危険な暴力なのだ。
私のような不良には、殴り合いしかないと鈴江は諦観した。生まれてからこの方、親から殴られ、教師に殴られ、不良の悪友から殴られ、良い思い出は一つもない。
マウスピースは昨日、歯科医にて作って貰った。付けてみると、歯にピッタリ合う。
慣れない減量も大変だった。何より水抜きは、耐え難かった。フェザー級の計量を昨日パスした。
相手がチャンピオンなので、初試合ながらメインイベントだった。待ち時間は死ぬ程長い。
鈴江は眠って過ごすことにした。テクニックなど、身につける以前の初戦だ。自分のものは格闘技とは言えない。喧嘩の勘だけは自信があったが、要するにそれのみだ。
葬儀の斎場の会場で、既に試合が始まっていた。河合に見学を促されたが、断った。唯、何もかも忘却して眠りたかった。自分の人生なんて、と留まらない内省を止めるべく、眠りに落ちたかった。
夢を見た。先刻見た阿弥陀仏が、生き仏となって鈴江に語りかける夢だった。仏様も言うことに変わり映えはない。世間の大人と同じだ。
やがて、河合から揺り起こされた。
時間が来たようだ。
鈴江はグローブを付けた。素手と変わらないような薄いグローブ。これは本当に危険らしかった。
鈴江は会場に入場した。入り口から、かの仏像が見えた。彼女は生まれて初めて、南無阿弥陀仏を唱えた。
設えられたリングも狭かった。
入場曲はライオットのウォリアー。狭い会場に観客は疎らだった。小さなライトが彼女を照射した。鈴江はリングに上がった。
続いてチャンピオンの登場。
入場曲はジューダスプリーストのペインキラー。華やかな茶髪の美貌の目立つ、北和美が冷厳に入場した。
少ない観客ながら、割れんばかりの歓声が上がった。北の肉体は良く鍛錬された筋肉隆々、それにルックスがレベル高いので、プロに行ってもかなりの人気を勝ち得そうに思われる。
ゴングが響いた。
河合が鈴江の背中を押した。
鈴江はリング中央で、北と対峙した。
まず、重いジャブが鈴江の胸元に来た。胸にそれだけで激痛が走った。
「この野郎」
鈴江は、フックかストレートか分からない喧嘩パンチを繰り出した。北はいとも軽くかわして、更にパンチを胸元に打ち込む。
かなり効いた。鈴江は腕を振り回して、パンチを返したが、全く当たらない。テクニックが違いすぎた。
北のパンチは、今度は頬にヒットした。頬骨が骨折したかと思われる程のダメージを受けた。
鈴江は後方に下がった。続いて、北のハイキックが鈴江のこめかみを捉えた。激痛などというものも超えていた。早くもダウン寸前。
続いて、ローキックが鈴江の腿を砕いた。
鈴江は、堪らずにダウン。
未だ落ちてはいなかったものの、意識朦朧とし始めていた。冷酷なカウントが続く。
「未だやれるか」
「やれる、当たり前だろう」
レフェリーの問い掛けに、怒りを込めて返した。
「この野郎、許さないからな」
鈴江は心の裡で念じて、今度はタックルを仕掛けた。逆に北は足払いを掛けてくる。それだけで鈴江は倒れかけた。
しかし転んでも、唯では起きない。
北の胴にしがみついたまま、鈴江は倒れた。結果共倒れ。
背後に回って、頸締めをと、鈴江は焦った。考えられる限りの全精力を込めて、グラウンドで北の背後に組み付いた。
運良く、相手の頸に腕が回った。
柔道で習い覚えた技だった。
鈴江は北の頸を締めた。
「この野郎」
鈴江は両腕に力を込めた。
鈴江も驚いたことに、北は堪らずにマットをタップした。
勝った、私が。
立ち上がった鈴江の、般若のタトゥーの左腕を、レフェリーは高々と上げた。
場内、歓声が渦を巻いた。
その折だった。
矢庭に場内に一発の銃声が轟いた。秋元鈴江は、胸元を鮮血に染めて倒れ伏した。
続いて、二発三発の銃声、鈴江は絶命した。
発砲した輩は、黒のキャップにサングラス、黒マスク。会場の後方から、出口の方へ全力で疾走した。
呆気に取られて、誰もあとを追わなかった。
犯人は入り口付近に停めてあった車に乗り込んで、あっという間にその場から逃走した。
2
安田警部補は、殺人事件発生を無線で通知を受け、現場の犬迫町に急行した。その途中、スマホに連絡が入った。
「安田だが」
「警部補、誠にすみません。新村です」
「ああ、どうかしたか」
警部補は路肩に車を停めて、部下からの電話に集中した。
「警部補、本当にすみません。ちょっと対向車と接触してしまいました」
「交通事故か。場所は何処だ」
「桜ヶ丘です」
「現場の犬迫町から、かなり遠いな。で、暫く動けないのだろう」
「はい、事故処理に時間を要します」
「交通事故は仕方がない。気にするな。現場で待っているから、ゆっくり来ていいぞ」
「有難うございます」
安田の覆面パトカーは山間の道路を疾駆した。九州先端医療病院の巨大な建物を通り過ぎると、殺人現場の永源寺は直ぐだった。
初動捜査は開始されたばかりだった。ストロボの閃光が瞬時遺体を捉えた。腕のタトゥーが目立つ筋肉質の躰の遺体は意外に安らかだ。銃弾は心臓を射貫いており、ほぼ即死で、苦痛はなかったらしい。
「三発撃たれて、全てが胸部、背中に命中しています」
係官の合田が警部補に説明した。
「此処は女子ボクシングの試合中だったんだな」安田は言った。
「正確にはMMA、総合格闘技です。試合は被害者の秋元鈴江が勝利していて、勝利直後に撃たれた」
「相手は」
「別室に控えています。地下格闘技団体ウィッチのフェザー級チャンピオンで、北和美という選手です」
「北という選手は負けたのだろう。チャンピオンなのか、未だ」
「難しいところですね。勝者の秋元は死んでしまった。タイトルは一体どうなるのか」
「秋元鈴江は強い選手だったのか」
「いいえ、2週間前にスカウトされたばかりのド素人です。ですから試合は大番狂わせです。確実にチャンピオンの北和美が楽勝する筈の試合でした」
「すると、動機はその辺りになるのかな。被害者は勝ってはいけない試合を勝ってしまった」
「そうかもしれません」
「この手の興行は、暴力団が関与しているのだろう」
「そうではないようですが、いずれにせよ、それに近い闇組織の興行でしょう」
「凶器は何しろ拳銃だからな。拳銃には前歴があるかもしれん」
「そうですね、案外簡単に片が付くかも」
「ところで、逃走した犯人の車は?」
「近くで乗り捨てられていました。犯人は車を変えて、逃走したようです」
「そうか。で、こんな格闘技団体の試合なのだから、カメラの撮影は行われてなかったのか」
「ありました。南日本新聞のカメラマンが犯人とその車を撮影したそうです」
「それは好都合だ」
「余り当てになりません。犯人はサングラスとマスクで顔を隠していましたし、車は乗り換えて逃走した訳ですから」
「すると車は盗難車かな」
「そうかもしれません」
「それで、この興行主は誰だ」
「貝谷太郎です。あちらに控えています」
「事情聴取してみよう」
貝谷太郎は五十代の眼光の鋭い男だった。意気消沈している様子にも見えた。
安田警部補は、興行自体から尋ねた。
「女性のみの格闘技団体なのだね」
「そうですよ。私は元プロボクサーです。戦績はお恥ずかしい限りですが」
「鹿児島ではこのような団体は珍しいと思うが」
「そうですね、ウチだけです。しかし鹿児島は伝統的にプロレス人気の高い土地柄で、女子プロレスの人気もかなりです。私達も徐々に知名度を高めている過程です」
「チャンピオンが新人に負けたということらしいが」
「ええ、全く困った事態です。北和美はメジャー団体に移籍が決まっていて、それこそ戦績に傷を付けたくなかったから、ペイペイの素人を当てたんです」
「しかし、素人が勝ってしまった」
「ええ、メジャー団体からは移籍の契約金を既に受け取っているんです。全く困ったことになりました」
「だから殺したのではないのかな」
「私がですか、とんでもありません。私共は純粋にスポーツとしての格闘技をやっているので、暴力団ではありません」
「そうかな、調べれば分かることだ」
「勘弁してくださいよ」
「凶器は拳銃だ。暴力団関与の可能性がある」
「ですから、私共は暴力関係の方々とは一切無関係なんです」
「そうは思えないが」
「偏見ですね、それは。私達は極めてクリーンです」
「まあ、いい。それでは、北和美を呼んできてくれないかね」
「分かりました」
北和美は、美貌の格闘家だが、見る影もなく萎れていた。精神的にかなり不安定な様子なのだった。
「さて和美さん、今度の事件をどう思うかね」
「私は一格闘家ですから、何も分かりません」
「負けたことについては」
「あれはまぐれだったと思っているんですが」
「というと」
「私の支え釣り込み足が利いて、相手が倒れたんです。相手は私にしがみついたままでしたから、私も倒れてしまった」
「負ける筈はなかった?」
「勿論です」
「何故相手は殺されたと思う?」
「分かりません」
「メジャー団体には、チャンピオンのままでなければ、移籍出来ないのではありませんか」
「それとは無関係と思いますけど」
「大いに関係あると思うが」
「そんな……」
「まあ、いい。君が殺した訳ではない」
3
温故知新。亀田浩志は、CDプレーヤーにジミヘンドリックスのウッドストックライブをセットした。鳴り出したのはブルースと呼ぶには余りにハードロック寄りの轟音ギター。しみじみと聴き入った。
天文館の外れ、いずろの彼の探偵事務所、珍しく最近収入の方は先ず先ずだった。浮気調査が一度に5件もあり、簡単な尾行だけで済み、懐は暖まった。
全く夏が近づくと人間の性欲が昂進して、不倫が増加するのだろうか。何とも懐かしい小説、モーリスルブランの八点鐘には、冒険は何処にでも転がっていると書かれている。私立探偵の仕事も何処にでも転がっていると思われた。
考えてみると、探偵の仕事は、郵便に対するメッセンジャーのようなものだ。郵便は行政サービスで極めて安価だが、個人のメッセンジャーは車かバイクで物を届けるだけなのに偉く高額だ。郵便局が開いていない時とか、速達より速く届けたい場合、メッセンジャーを利用せざるを得ない。私立探偵の仕事も同様だった。本当はもっと繁盛してしかるべきとも思われた。付き纏う胡散臭さが、それを阻んでいるのだろうか。
机上の電話が鳴った。
また仕事らしかった。
「はい、亀田探偵事務所です」
「あの、秋元晃司と言う者ですが」
若い男の声だった。
「秋元様、どのような御用件でしょう」
「あの、俺、警察を信用していないんです」
「ああ、なる程、そうなんですね」
「警察は俺達のような不良や半グレの味方はしてくれない」
「そうでもないと思いますが、御用件は何でしょう」
「実は、妹が殺されたんです」
「殺された。穏やかでないですね。妹さんの名前は?」
「秋元鈴江」
「何処かで聞いた名前ですね。ええと……そうだ、格闘家ではなかったですか」
「そうです」
「なる程、秋元さんの事件なら、ニュースで見て、知っています」
「今から伺って大丈夫でしょうか」
「宜しいです。事務所の場所は分かりますか」
「はい」
秋元晃司は約三十分後に、事務所を訪れた。腕に蛇のタトゥーのある、見るからに恐そうな青年だった。
「初めまして、私が亀田です。どうぞお楽になさってください」
「どうも」
「此方がメニュー表というか、探偵の利用料金を書いた表です。此方で宜しかったでしょうか」
「随分高いな」
亀田は敢えて答えなかった。
「まあ、いいでしょう。バイトで貯めた金はある」
「良かったです」
秋元は真顔になって頭を下げた。
「お願いします。妹の敵を討ってください」
「敵討ち。犯人を捕まえてくれと仰有るのですか」
「ええ、是非お願いします。警察は残念ながら俺達の敵ですから。探偵の方におすがりするよりないんです」
「私立探偵ごときを信頼頂き、有難うございます。宜しいでしょう。お引き受け致します」
「有難うございます」
「それでは、早速ですが妹さんの男性関係はどうなっていましたか」
「さあ、俺は知らないんです。分かっていれば復讐に行くんですが」
「痴情のもつれが事件の原因とは決まってはいません。まあ、その可能性はある訳ですが。で、誰に聞けば分かりますか」
「仲間たちだな」
「仲間というと」
「暴走族のメンバーです。レディースのブラックタイガーという族」
「なる程、それは調査は厄介かもですね」
「お願いします。妹はそこの総長だった」
「分かりました。他には何方と親しかったんですか」
「このタトゥーを入れた」秋元は腕の彫り物を見せた。「妹は般若のタトゥーを入れた、同じ彫り師と親しくしていました」
「男性関係があったということではないんですよね」
「いいえ、彫り師は赤村といって、かなりの老人です。親代わりのように色々な相談に乗ってくれていました」
「分かりました。で、女友達の方は、暴走族以外には」
「鈴江は高校では、はみ出し者で暴走族以外に友人はいない筈です」
「なる程、そうですか。それで、彼女は暴力団とは付き合いはあったんですか」
「暴走族はその予備軍みたいなものだから、あったと思います」
「何か手痛いミスを犯したようなことは。暴力団員を怒らせるような」
「さあ、分かりません」
「何処の組ですか」
「桜一家です」
「矢張りそうですか」
「あとは、僅かな期間の付き合いですが、格闘技団体ウィッチのトレーナー、河合という人と親しかったらしい」
「分かりました」
亀田は幾つかメモを取った。
深夜オートバイの爆音が幾台もこだましていた。物々しいレディースの特攻服に身を包んだ少女達がたむろしている。
亀田はその集団に平然と近づいた。全く場違いな存在だった。オヤジ狩りに遭う危険も無くはなかった。だが亀田はあたかも友達のように、集団に向き合った。
「何だ、御前は。サツか?」
新しい総長らしい、両腕にべったりタトゥーを入れた姉御が尋ねてきた。
「何だ、御前は?」
他の少女も口を揃えた。
凄い殺気だった。何時でも喧嘩が始まりそうだ。
「警察ではないよ。私は私立探偵だ」
「私立探偵だと」
「そうだ。前の総長の秋元鈴江さんについて訊きたい」
「鈴江についてか。彼奴は死んだ」
「ああ、だから死の原因を調べているんだ。警察からも訊かれたと思うが」
「サツになんか一切協力しない」
「だとしても、一般人の私には協力してくれないか」
「何だと、殺すぞ、御前」
取り巻きの一人が凄んできた。
「頼むよ、鈴江さんの為なんだ。何でもいい、話してくれないか」
「分かった。何を知りたい?」
「鈴江さんは、桜一家とトラブルがあったのか」
「ないでもないが、殺される程ではなかった。寧ろ桜一家は彼女の支持母体だった」
「そうなんだ。で、彼女、男性関係はどうだった?」
「そんなこと、教えられるかよ」
「知る必要があるんだ。頼むから」
「仕方ねえな……居たよ、彼奴に首ったけな中年男が」
「中年男か、名前は分かるかな?」
「知らないね。でももう大分前に関係は終わってる」
「鈴江さんが振ったのか」
「当たり前だろう。中年男なんかと、マジで付き合うものか」
「Mr.Xが出てきたな。有難う、礼を言うよ。そのXはしつこくストーカーしたのか」
「一時期はそうだったらしいな。その男は鈴江のタトゥーに惚れたとか。全く莫迦な話だよ」
「そうなんだ。有難う、少ないが、これは謝礼だ」
亀田は数万円を彼女に渡した。
「いらねえな、こんなはした金」
総長は札を地面に叩きつけた。
「兎に角、助かったよ」
亀田は一礼して、踵を返すと、その集団から離れた。
亀田は次の夜、田上町の古アパートを訪ねた。田上寺の下の外れ、モルタルぼろぼろのアパート。ジャックダニエルの700mlを土産に携えていた。
タトゥーショップから聞いた部屋番号は203、ぎしぎし鳴る階段を上がった。
亀田が203の呼び鈴を押すと、ドアの向こうで、老人特有のしわぶきが聞こえた。
「亀田と言う者です。秋元晃司さんの紹介で参りました」
「晃司の紹介」
赤村はドアを細めに開いた。
「何者かね、アンタは」
「私立探偵です。お好きということで、お持ちしました」
亀田は、ジャックダニエルを見せた。漸く赤村は部屋に招じ入れてくれた。
「汚い畳で、座布団もないが、その辺に座ってください」
「有難うございます」
赤村は、早々とグラスを出してくると、ボトルを開けた。依存症らしい。
「用件は何かね」
「実は、殺された秋元鈴江さんについて調査しているんです」
「鈴江さんか、全く残念なことをした」
「そうですね」
「いや、私が残念と言っているのはタトゥーのことなんだ。不謹慎かもしれないが。あの般若は私の生涯の自信作だった」
「そうなんですか」
「いや、少しも誇張はない。あの般若は彼女にも似合っていた。しかもだな、それだけではないんだ」
「と仰有ると」
「これで亡くしたのは二人目でね。全く双子かと思える別の女の子にも、同じ般若を彫ってあげていた」
「その子も死んだんですか」
「ああ、昨年、乳癌で亡くなったと聞いている。いや、しかし貴方のお尋ねの件は、鈴江さんの方だね」
「いいえ、其方のお話も十分参考になります。どうぞ、続きを」
「いや、私としては、自信作の般若が続けて亡くなったので、本当に呑みたい気分だったんだ」
「もう一人の名前は?」
「南洋子と言う娘だ。まあ、洋子さんはどちらかと言えば勝ち気な性格で、私にはなつかなかったが」
「鈴江さんとは仲が良かったのですよね」
「ああ、本当の娘みたいに思えた」
亀田はそろそろ本題に入ることにした。
「それで、ですね。鈴江さんが交際していた中年男性について、何かご存じないでしょうか」
「うん、実はそれは警察にも話した」
「ご存じなんですね」
「その男について詳しくは知らないね。名前も知らない」
「何を警察に話されたんです」
「その男は、鈴江さんのタトゥーに惚れたとか言うんだ、だから私としても気がかりでね」
「その情報は他からも得ています。他にご存じのことは?」
「歳の離れた中年男だったとしか聞いておらんのだがね」
「有難うございます。それだけでも十分参考になります」
4
珍しく安田警部補が、亀田の事務所に来ると言う。しかも緊急の用件だと電話で伝えてきた。何事かと亀田は訝った。
日曜日の午後5時で、亀田は出来れば従兄弟の警部補に晩飯を奢って欲しかったが、警部補は外で会うことを拒んだ。相当に内密を要する用件の様子だった。
普段ならば、人混みの会見の方が却って秘密を保持出来るとする考え方を採用する従兄弟だが、今日は一体どうしたのだろうか。
電話から凡そ10分後に、警部補は事務所に現れた。常に見ない暗澹たる表情なのだった。
「一体どうしたんですか。叔父さん」
警部補はデスクを挟んで対座し、深い嘆息とともに答えた。
「ちょっと信じられないような事態に立ち至っている」
「何がですか」
「今の事件の捜査がだ」
「どの事件です」
「秋元鈴江殺害事件だ」
亀田も嘆息した。
「それなら、丁度私も調査中ですが」
「御前も事件を調査しているのか」
「ええ」
「それならば、話は速い。どの辺りまで調査は進んでいる」
「鈴江さんに、中年男の恋人がいて、鈴江さんがその男を振った、と言った辺りまで」
「うむ、凶器の拳銃には前歴があった。桜一家の組長自宅に撃ち込まれた銃弾と、一致した」
「すると、矢張り暴力団絡みの事件だった訳ですか」
警部補は苦悩の表情で首を振った。
「そうではない。そうではないらしいから、悩んでいるんだ」
「どういう経緯ですか、説明をお願いします」
「矢張り、鈴江が振った男の線が濃厚になってきた」
「そうなんですか」
「嗚呼、実は鈴江と同じ般若のタトゥーを彫った女性がいた」
「私も其処までは調べています」
「警察が調べてみるとだな、その南洋子の付き合っていた男と、鈴江の彼氏は同一人物だった」
「何ですって」
「南洋子は異常なくらい、彼女に熱を上げていた彼氏を非情に裏切り、別の男に走った。それから、乳癌で亡くなった。男はその後、全く同じ般若のタトゥーを彫った鈴江に交際を申し込んだ。しかし鈴江も、男を冷たくあしらった」
「なる程、鈴江さんのタトゥーに惚れたというのは、そういう意味だったんですね」
「ところでだ。その男は一体何者だと思う?」
「何ですか、私の知っている人?」
「調べてみると、その男というのは新村刑事だった」
「何ですって」
亀田は絶句した。新村刑事は、安田の部下の一人で、亀田も付き合いは長かった。
「Mr.Xは、新村刑事だったんですか。信じられない」
「刑事なら、闇で暴力団の拳銃を押収することは不可能ではない。しかも彼は射撃の腕前はかなりのものだ。しかし新村は犯人ではないんだ。新村には強固なアリバイがある。彼は犬迫町での事件の直後、相当に距離の離れた桜ヶ丘で、車の接触事故を起こしている。新村は犯人ではあり得ない」
「安心しました」
「安心は出来ない。容疑の点から新村は限りなくクロに近い」
「では、叔父さんを悩ませているのは、アリバイ崩しですか」
「そうなるが、これは全く不可能だぞ」
「桜ヶ丘で事故を起こしたのは別人だったのでは?」
「あり得ない。警察が事故処理の写真を撮っている。新村本人が写っている」
「なる程、難問ですね」
「我々警察も道路交通法を遵守しなければならない。第一、どれ程車をとばしても、犬迫町から桜ヶ丘まで、瞬時に移動することは不可能だ」
「これは、困りましたね」
「だから、御前に相談だ。これを可能に出来るか?」
5
亀田はこれ程、苦悩する従兄弟を見たことはなかった。長年慣れ親しんだ一番の部下に、宣告しなければならないのは、耐え難かったらしい。
県警本部内部、取り調べ室。特別に、亀田も参与していた。証人も一人呼んでいた。
安田警部補は務めて厳かに切り出した。
「新村君、私は君を信じていた。本当に信頼していた。こんな日が来るとは思わなかった」
新村は顔を上げられなかった。
「警部補、誠に申し訳ありません。私は本気で真から南洋子と秋元鈴江を愛していたんです」
「そうらしいな。だが、それは異常な愛と言わざるを得ない」
「申し訳ありません」
「今日は一人、証人を呼んでいる。鹿児島大学医学部教授の田村医師だ……先生、どうぞこちらに」
田村医師は、警部補の隣に腰を下ろした。禿げ頭で眼鏡を掛けた知的紳士だ。
「それでは、新村さん」亀田が言った。「此処に黒眼鏡があります。それを掛けてみてください」
新村は言われるままに、眼鏡を掛けた。指先が震えていた。
「次に新村さん」亀田は続けて言った。「そのウイッグを取ってください」
新村は更に震える手で、自分の鬘を取った。
「どうです、新村さん、今の貴方の顔は、田村医師にそっくりではありませんか」
新村は観念した。
「……そうです。私が鈴江を殺しました」
「そうですね、貴方は鈴江を殺害した後、逃走に使った車を乗り捨て、九州先端医療病院に入った。其処では、丁度ドクターヘリがテスト飛行のために待機していた。貴方は田村医師に変装して、ヘリコプターに乗った。ドクターヘリは、其処から一直線に桜ヶ丘の鹿児島大学医学部に向かった。貴方のアリバイはすると、崩れますね」
「申し訳ありませんでした……」
新村は泣き崩れた。

