あの夜、私は夢を見た。
どこまでも深く、暗く、冷たい海に落ちていく夢。
誰の声も届かなくて、誰の手も触れられなくて、
ただただ、沈んでいくだけの夢。

朝、目が覚めても、その感覚は胸の奥に残っていた。

リビングに降りると、ソファでうたた寝してた天音が目をこすりながら起きてきた。
ボサボサの髪に、無造作に前開きのシャツ一枚。

「……姉貴、朝から顔色悪すぎ」

ぼそっと、そう言って、私の隣に腰を落とす。


「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ」
そう言うと、彼は少しだけ黙って、私を見つめた。

「……アイツら、最近変だよな」

「え?」

「一軍の奴ら。やけに騒がしい。姉貴の名前、よく出てる」

天音の言葉は冷たくも優しかった。

「何かあったなら、言えよ?……俺、ぶっ飛ばしてやるから」

その言葉に、不意に涙が出そうになった。
けど、私は微笑むだけに留めた。

「……ありがと、天音」

それだけで、朝の空気が少しだけ軽くなる。

学校では、もはや“噂”は“確信”になっていた。
のあが浮気してる――
一軍女子の間で、彩芽がまるで見てきたかのように話を盛る。

「ほら、昨日もね、裏庭で男と話してたって」
「え、マジ?誰?」
「ん~、そこは伏せとくけどぉ?」

そんな会話が、教室の端から端へ、毒のように広がっていく。

私の耳には、はっきりと届いていた。
だけど、反論したら「図星だったんだ」と思われるだけだとわかってた。



放課後、私のスマホに彩芽からLINEが届いた。

【ちょっと話そ♡ 来てほしい場所があるの】

位置情報が添えられていて、そこは――
ホテル街の外れにある、寂れた駐輪場だった。

胸騒ぎを抑えきれないまま、私はその場所に向かった。

「……来てくれてありがと♡」
薄暗い非常灯の下、彩芽はスマホ片手に笑っていた。

「これ、何のつもり?」
私は冷静に問い返した。

「ちょっと確認したいことがあって」

そう言って、彼女はスマホの画面を見せた。
映っていたのは、私が夜、誰かと電話してる姿。
相手の姿は映っていない。でも、私の顔がはっきり映ってた。

「……盗撮?」

「ん~、たまたま♡」
彩芽の声は小悪魔のようだった。

「これ、クラスの女子グルに送ろっかなって思って」

「……何がしたいの、彩芽」

「うーん……恋を譲ってくれたら、送らない♡」

一瞬、心臓が止まったような感覚がした。
まさか、そこまでの執着だったなんて。

「……最低だね」
震える声で、私は言った。

「いいよ、最低で♡ でもさ、のあはずっと目立ってて、可愛くて、皆に好かれてて……ちょっとは譲ってよ、ね?」

その時、背後から誰かの足音が聞こえた。

「のあ!」
振り向くと、そこには――恋がいた。

「……恋……」

「全部、聞いてた」
彼の声は低く、怒りに震えていた。

「お前、今すぐその動画消せ」

「ふーん、怖い顔しちゃって。そんなことしていいの?」

彩芽はスマホを掲げる。

「言うこと聞かないと、これ、拡散されちゃうかも♡」

恋は私の手をぐっと引き寄せた。

「のあは誰にも渡さねぇ。どんな手使ってでも、守る」

その言葉が、私の中の何かを壊した。
守られるだけじゃ、ダメなんだ――そう思った。

私は一歩前に出て、彩芽の手からスマホを掴んだ。
そして――そのまま、地面に叩きつけた。

ガシャッ!と音を立てて、スマホが粉々に砕けた。

「……のあ!?」

「こんなもので、私を脅すつもり?甘く見ないで」

その時、私の中で何かがはっきりと変わった。

もう逃げない。
誰かの陰に隠れて怯えてるだけの自分は、終わりにする。

彩芽はしばらく呆然としたあと、にやっと笑った。
「へぇ……やっと“面白く”なってきたじゃん」

その笑顔に、私は戦慄した。
こいつは、まだ――何かを握っている。

恋が私の肩を抱き、歩き出す。

「のあ、怖かったろ。ごめんな、俺が気づいてやれなくて」

「ううん……私が甘かっただけ」

二人で歩く帰り道。
でもその背後では、彩芽がスマホのもう一台を取り出して、何かを操作していた。
そして――SNSの鍵垢に、匿名で投稿が始まる。



【白咲のあ、夜に男と密会。裏垢晒しちゃう♡】

それは、“地獄の始まり”だった。