わがまま王子の取扱説明書

ミシェルは白けた天井をぼんやりと眺めた。

生を蝕む発作を何度か繰り返し、
看護婦に鎮静剤を打たれたところまでは覚えている。

深い闇に引きずり込まれれば、
もう二度と目覚めないような気がして、
光に手を伸ばし、光を得ようと必死にもがき、あがいている。

そんな自分がひどく滑稽で乾いた笑いがこみ上げた。

薄い微睡みの中で、
バイクのエンジン音が聞こえたような気がした。
はて? これは夢か現か……。

ミシェルは覚醒しきらない意識の中で
確かにそれを聞いている。
このエンジン音には聞き覚えがある。
確かこれは、ミッド・ブライアンの愛車である
ホンダ製CB450セニアだ。
間違いない。
ミシェルは確信する。

夢にしてはやけにリアリティーがある、
とミシェルは思った。

では、これが現だとしたら?

そう仮定してみる。
今は真夜中で、なぜミッドがバイクを走らせる必要があるのだ?
ミッドはどこに行くのだ?
誰かの護衛か?

そこまで思考を巡らし、何かが引っかかる。

誰かの護衛……?

私がここで寝ているとすれば
誰の……?
しかも私物のバイクで?

ミシェルは飛び起き、居間を挟んで隣の部屋に駆け込んだ。

「ゼノア!」

部屋の主がいない。
暗く静まり返った部屋に、ミシェルの声が虚しく響く。

「アレック!」

ミシェルが金切声とともに、執事の執務室に飛び込んでみれば、
アレックがモニター越しに、近衛隊に何やら指示を飛ばしている。

「ディノ、ノア、カムイは引き続き013ポイントを見張れ。
ヴェルファ、アルフは先回りしてパーキングエリアの安全を確認しろ!」

モニターに映し出されている映像に、ミシェルは愕然とした。

「お……大型二輪車の二人乗りだと?」

ミッドの背中にゼノアが抱きついた格好で、
高速道路を走行しているのである。

「ヘルメットも着用しておりますし、
 法律上なんら問題ないと思われますが」

アレックの無機質な声色が、ミシェルのカンに触る。

「そういう問題ではないっ! こんな時間にゼノアを外に出し、
 あまつさえミッドの私物のバイクに乗せるとは何事だ!
 密着度が気に食わん」

「そこですか」

もう諦めたというように、アレックが苦笑する。

「隣国の王太子殿下をこのような時間に外にお出しましたこと、
 その危険性も重々承知しております。
 元より全ての責任は、この私が負うつもりでございます」

アレックが覚悟のこもった眼差しをミシェルに向けると、
ミシェルがその眼差しを一身に受け取った。

「そうか、わかった。ならば今すぐにこの私をゼノアの元に連れて行け!」

事情もよくわからないままに、ミシェルは準備に取り掛かる。
アレックがそこまでの覚悟を持って、禁を犯すには理由がある。
そしてそれはきっと自分の命に関することだったのだろうと、
大方の予想はつく。

「しかしミシェル様、発作の方は」

その後をアレックが急いで追う。

「知らん。治った」

ミシェルは着替えながら、不機嫌に言った。

もともといつ尽きてもおかしくない命なのだ。
発作の原因も、わからない。

いや原因はわかっている。
それはおそらく、(かつ)えたこの心の奥深くにある闇なのだ。
薬や何かで解決できる問題ではない。

「説明は出発してから聞く」

ミシェルがアレックのダークアッシュの瞳を見つめた。
自分と同じ色の瞳。
その中にも、やはり自分が映し出されている。
不思議な光景であり、不思議な感覚だとミシェルは思う。

(果たして私は、その中に闇を照らす光を見出だすというのか?)

ただひとつだけ言えることがある。
私はもうこの闇から逃げてはいけない。

ミシェルの脳裏にゼノアの面影が過った。
今更ながらに思う。
その勇気を与えてくれたのは、まぎれもなく彼だ。
彼に並びたいと思う。
だから私はもうこの闇から逃げない。

車庫に向かい共に歩くアレックの背を見つめ、
ミシェルは思う。

(私の闇は、本当に闇であったのか?)

車庫に鎮座しているのは、ハーレーダビッドソン『Pan America』だ。

「お前、いつの間に……」

ミシェルの呟きを聞きつつ、アレックの機嫌は妙にいい。

(そういえば昔からアレックは、バイクが好きだったな。
 だけど私の体が弱かったから、休みもろくに取らず、
 ずっと私の傍にいてくれたんだ)

「ミシェル様、僭越ながら私の後ろにお乗りください」

独特の三拍子のエンジン音が唸る。

アレックの背中は広い。
ミシェルは暫しその背中の広さに戸惑う。

「ふんっ! 貴様なんぞとツーリングとはなっ!」

つい憎まれ口を叩いてしまう。

(そうじゃない。そうじゃないんだ。
 伝えたいのはそうではなくて)

身体を突き抜ける感情のうねりを、
ミシェルは言葉に表現することができない。
ただアレックの背にしがみつき、その手に力をこめる。

(アレック……あなたの背はどうしてこうも温かい?
 温もりを知らぬ忌まれ子のこの私に、
 どうしてこうも無償の愛を注ぐことができるのだ?)

アレックにそう問いたいと思ったことが何度もあった。
何度も口にしようとして、何度も飲み込んだ言葉がある。

ミシェルは唇を噛みしめた。
ヘルメットの中で涙が視界を歪める。

涙が熱いということをミシェルは初めて知った。
とめどなく流れる熱い涙とは裏腹に、身体は小さく震えている。

(アレック、あなたは一体誰なのか?
 あなたこそが、私の父なのではないのか?)