カチリ、と黒板にチョークを置く音とともに、終わりを告げるチャイムが鳴った。

「はい、今日はここまで。今やったところまでが中間テストの範囲だからな」

数学教師の何気ないひと言に、教室全体から「えーっ」というどよめきが上がる。机に突っ伏す者、天井を見上げて絶望のため息をつく者、それぞれが二週間後の試練にため息混じりの反応を見せた。

そのなかで、枢木乙葉は特に動じることもなく、静かに教科書を閉じた。

2年生としての生活が始まって、もう一ヶ月。新しいクラスにも少しずつ慣れてきた。目立ったトラブルもなく、平穏に過ぎていく日々の中、乙葉はいつも通り、感情を深く表に出さずに過ごしていた。

「乙葉〜」

背後から軽やかな声がかかり、振り返ると姫野雫が机に手をついていた。手を合わせて、上目遣いで頼みごとの顔。

「ねぇ、勉強教えて? 中間やばそう」

「……また?」

呆れたように眉をひそめながらも、乙葉の声はどこか諦め混じりだった。雫がテスト前に泣きついてくるのは、もはや恒例行事のようなものだ。

「仕方ないな。まあ、いいけど」

「ありがと〜!さすが乙葉、大好き!」

ぴょんと乙葉の肩に抱きつく雫に、乙葉は小さくため息をつく。その光景を、隣の列でノートを閉じていた稲葉蓮也が見ていた。

「へえ、勉強会? 二人でやるの?」

不意に声をかけてきた稲葉に、乙葉は反射的に顔をしかめる。

その様子に気づかないふりで、雫が明るく笑って返した。

「うん、乙葉先生の授業、マジでわかりやすいんだよー。稲葉くんも一緒にやる?」

思わず「え?」と声を漏らした乙葉が、すかさず小声で雫の袖を引く。

「ちょっと、なんで誘ってるの」

「だって、わざわざ話に入ってきたってことは、稲葉くんも勉強したいってことでしょ?」

乙葉が何か言い返そうとする前に、稲葉が「俺の友達も誘っていい?」とさらなる一手を投じてきた。

「全然いいよ〜! 人数いた方が教え合えるし!」

止まらない雫のノリに、もう何も言えずに乙葉は沈黙するしかなかった。

──こうして、思いもよらぬメンバーによる勉強会が、あっという間に決まってしまった。



土曜の午後、空はすっかり春の陽気で満ちていた。
風が優しく吹き抜ける並木道を通って、乙葉と雫は最寄りの市立図書館へと向かっていた。

「ちょっと早く着いちゃったね」

「うん。でも席空いてるか心配だったし、早めでよかったかも」

図書館の中は、静寂と規律の匂いに包まれていた。
閲覧スペースには、すでに何人かの学生がテキストを開いていて、試験が近い空気が肌で感じ取れる。
二人は空いていた四人掛けの机に並んで座り、持ってきたノートや参考書を並べた。

「乙葉、ほんとにありがとう。今回こそ赤点回避したい……」

「いつも通り頑張ればいけるでしょ。数学以外はなんとかなるんだし」

「そ、そんな簡単に言われても……」

そんな会話をしていると、静かな館内に「お待たせ」という低めの声が落ちてきた。
顔を上げると、稲葉蓮也が軽く手を上げながらこちらへ歩いてくる。
横には、黒髪を少し伸ばし、表情にあまり感情の波を浮かべない少年──如月湊斗の姿があった。

「連れてきたのは如月くんか」

乙葉は内心でそう呟きながらも、特に驚きはしなかった。クラスでよく稲葉と一緒にいる姿を見かけていたから、予想の範囲内だった。

「こんにちは」と如月が小さく頭を下げる。

乙葉も軽く会釈を返した。言葉は少ないが、その距離感がむしろ心地よかった。

「このテーブル使っても大丈夫?」

「うん、二人分空けてあるから大丈夫」

四人が揃い、それぞれ教材を机に広げていく。自然と、勉強会が始まった。

最初は、みんな自分の課題を進める形で黙々とノートに向かっていたが、しばらくして雫が「あ、これわかんない……」と小声で呟いた。

「どこ?」

乙葉が手元のノートを覗き込みながら聞くと、雫は教科書の数学の問題を指差した。

「関数のグラフのやつ……」

「これ、グラフの傾きの意味をちゃんと理解してないと難しいかも」

「う……乙葉の説明、頭良すぎてたまについていけん」

「……そこまで難しい言葉使ってないはずなんだけど」

その様子を見ていた如月が、唐突に口を開いた。

「それ、傾きは変化量の比って考えたらわかりやすい」

「えっ、変化量……?」

「xが1増えるごとに、yがどれだけ増えるか。式の係数がそれを表してる。グラフの線の“斜め具合”と思えばいい」

「……あー、なるほど。そう言われるとちょっとわかるかも」

如月の説明は理屈が通っていたが、口調が淡々としていて、どこか無機質だった。

「でもなんか、冷たっ……」

雫がぽそっと口を尖らせて言う。

「ごめん、別に冷たくしたつもりはなかったんだけど」

如月は眉をわずかに寄せて言うが、どこか説明の温度感は変わらない。
乙葉がそれを見て思わず笑いそうになると、その隣で稲葉がフォローに入った。

「如月は言い方が不器用なだけで、教えるのは上手だよ。多分、言葉選ぶのが面倒なんだと思う」

「……お前、それフォローになってる?」

「なってるよ、一応ね?」

そんなやり取りに、乙葉はふと、自分と雫の関係を重ねた。

(……あの子が感情で動いて、私が少しだけ先を見てる。それって、もしかしたら、如月くんと稲葉くんの関係と似てるのかも)

そこから、学力の得手不得手が徐々に明らかになっていった。

稲葉は英語の長文を読んで「え、なにこれ外国語?」と笑わせるし、如月は国語の現代文に対して「作者の気持ちなんか知らんし」とつぶやいて、また雫が笑った。

乙葉は淡々と要点をまとめ、質問が来れば即座に答えた。だが時折、稲葉や如月が説明した方が雫には伝わりやすいこともあった。

(私一人で教えるより、意外といいかもしれない……)

そう思いながら、乙葉は彼らとの“探り合いの距離”を少しずつ見直しはじめていた。

勉強会は2時間ほど続き、適度な疲労感と共に終了した。

「……意外と、集中できたね」

乙葉が言うと、如月が小さく頷いた。

「ここ、静かでいいな。家よりもずっと集中できる」

「うちなんか、弟が走り回ってるからな……。全然集中できない」

「枢木さんって、弟いるんだ?」

「うん、年離れてるけど。まあ、面倒見るのも慣れてきたけどね」

そんな風に、少しだけプライベートの話にも触れながら、四人は図書館を後にした。

その帰り道、稲葉が不意に乙葉の隣に並ぶ。

「……仮面、今日も外してない?」

「なにそれ」

「いや、ちょっと気になっただけ。なんとなく」

乙葉は小さくため息をつくと、前を見据えて言った。

「私は、仮面のつけ方、知らないだけ」

稲葉は、何も言わずに笑った。

ただ、どこかその笑みには、いつもの“作られたもの”とは違う柔らかさが宿っていた。