ざわついた空気の中、始業のチャイムが鳴る数分前。
教室のあちこちで「今年もよろしく」「担任誰だろ」
なんて声が飛び交うなか、枢木乙葉は窓際の席でひとり頬杖をついていた。
「よっしゃ、今年枢木さんと同じクラス!」
「お近付きになれるチャンスだな!」
そんな浮かれた男子たちの声が耳に届くが、乙葉は興味なさげに目を細めたまま空を見ていた。
春の光が差し込む窓から、柔らかい陽光が彼女の長い黒髪を透かし、艶やかな影を机の上に落とす。
(……またこれか)
可愛い、綺麗、美人。高校に入ってからずっと言われ続けてきた言葉。
でもそれは全部、「顔」に対する評価でしかない。
中身なんてどうでもよくて、ただ「手に入れたい」という欲求を満たすための言葉ばかり。
「おはよう、枢木さん」
去年も同じクラスだった男子が、少し照れたような笑みで声をかけてくる。
乙葉は軽く会釈を返すだけで、また窓の外へと視線を戻した。
「どうせ、上っ面だけの関係」
心のなかで小さく呟いたそのとき、
「また、そうやって壁作ってる」
後ろから聞こえてきた声に、乙葉は思わず笑みをこぼした。
「雫。壁くらい作らせてよ。防衛本能ってやつ」
「いやいや、それが“鉄壁”すぎるのよ。まぁ、あんたらしいけどね」
姫野雫は乙葉の幼馴染。
乙葉とは正反対で、明るくて人懐っこいけど、人に嫌われるのをどこか怖がってるところがある。
そんな雫のことを、乙葉はずっと大切に思っていた。
二人で他愛もない会話をしていたそのときだった。
「おはようございます」
教室の後ろのドアが開き、爽やかな声が響く。振り返ると、稲葉蓮也が現れた。
背は高く、整った顔立ち。柔らかそうな髪が光に透けて、白いシャツが妙に似合っている。
「稲葉くんだ……やっぱ、かっこいいよね」
雫がぽつりと呟く。
教室の女子たちもざわつき始めるなか、乙葉はちらりと彼の方を見て、すぐに視線を戻した。
(……やっぱり苦手)
笑顔は完璧、立ち振る舞いも隙がない。
でもどこか嘘っぽくて、本当の彼が見えない。見せたくない、というより、最初から「隠す」ことを前提に生きている感じ。
そんな稲葉蓮也の「完璧な仮面」が、乙葉にはどうしても居心地悪く感じられた。
──放課後。
乙葉は職員室の前で立ち止まり、深呼吸してからドアをノックした。
「失礼します」
中に入ると、橘冬馬先生が書類を見ながら顔を上げた。
「ああ、枢木さん。どうした?」
「ちょっと、相談したいことがあって……」
誰にも見せないようにしているけれど、乙葉はこの人にだけは、ほんの少しだけ心を許していた。
家のこと、進路のこと、自分の本音──橘先生は、それを変に慰めることもなく、ただ静かに受け止めてくれる。
「……なるほど。弟さん、もうすぐ年長さんか。毎朝送り迎え、偉いな」
「……慣れてますから」
穏やかに笑う橘先生の声が心地よくて、乙葉は少しだけ表情を和らげた。
「いつも助かってるよ。……君は、よく頑張ってると思う」
その言葉が、妙に胸に染みて──乙葉は、不意に視線を逸らした。
「じゃあ、また何かあったらいつでも来なさい」
「……はい。ありがとうございました」
職員室を出たとき、ちょうど廊下の曲がり角で、向こうから誰かが歩いてきた。
稲葉蓮也だった。
「あ、枢木さん……さっき職員室にいたんだね」
「……うん、ちょっとね」
二人きりになった空間が、微妙な沈黙に包まれる。
乙葉は歩きながら、ふと口を開いた。
「……ねえ、仮面って、疲れない?」
「え?」
「いつも、そうやって“良い人”演じてるけど、本当の自分とは違うんでしょ?」
稲葉は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふっと笑った。
「……さすがだね。枢木さんには通じないか」
「……別に見抜いたつもりはないけど。ただ、私はそういうの苦手だから」
乙葉の言葉に、稲葉は少しだけ真顔になった。
「でも、枢木さんのそういうところ、俺は良いと思うよ。飾らなくて、まっすぐで。……羨ましいくらいにね」
少しだけ柔らかくなったその表情に、乙葉は返す言葉を失った。
──次の日の朝。
「おはよう、乙葉!」
雫が小走りで追いついてくる。今日もいい天気だ。
新学期の空は、どこまでも青かった。
「今日、家庭科あるんだよね? あの先生、なんかいつも『女子は料理できて当然』って空気出してくるから苦手〜」
「大丈夫。料理は得意だから、私がやるよ」
「さっすが乙葉! 頼りにしてまーす」
他愛もない会話をしながら並んで歩く。そんな朝の時間が、乙葉にとっては少しだけ特別だった。
下駄箱に着くと、ちょうど向こうから稲葉蓮也が歩いてきた。
「おはよう」
いつも通りの笑顔。昨日と変わらない「作られた仮面」。
でも、乙葉の脳裏には──職員室の前で交わした“仮面”の会話が、微かに残っていた。
(……あの笑顔の奥に、本当の彼はいるのかな)
「乙葉? なんか……稲葉くんと何かあった?」
雫の問いかけに、乙葉は少しだけ目を伏せて、
「……別に、何も」
そう返しながら、稲葉の背中を無意識に目で追っていた。
──少しずつ、ほんの少しずつ。
仮面の奥にある、本当の“誰か”が見えた気がして。
新学期の空は、今日もまぶしいくらいに青い。
教室のあちこちで「今年もよろしく」「担任誰だろ」
なんて声が飛び交うなか、枢木乙葉は窓際の席でひとり頬杖をついていた。
「よっしゃ、今年枢木さんと同じクラス!」
「お近付きになれるチャンスだな!」
そんな浮かれた男子たちの声が耳に届くが、乙葉は興味なさげに目を細めたまま空を見ていた。
春の光が差し込む窓から、柔らかい陽光が彼女の長い黒髪を透かし、艶やかな影を机の上に落とす。
(……またこれか)
可愛い、綺麗、美人。高校に入ってからずっと言われ続けてきた言葉。
でもそれは全部、「顔」に対する評価でしかない。
中身なんてどうでもよくて、ただ「手に入れたい」という欲求を満たすための言葉ばかり。
「おはよう、枢木さん」
去年も同じクラスだった男子が、少し照れたような笑みで声をかけてくる。
乙葉は軽く会釈を返すだけで、また窓の外へと視線を戻した。
「どうせ、上っ面だけの関係」
心のなかで小さく呟いたそのとき、
「また、そうやって壁作ってる」
後ろから聞こえてきた声に、乙葉は思わず笑みをこぼした。
「雫。壁くらい作らせてよ。防衛本能ってやつ」
「いやいや、それが“鉄壁”すぎるのよ。まぁ、あんたらしいけどね」
姫野雫は乙葉の幼馴染。
乙葉とは正反対で、明るくて人懐っこいけど、人に嫌われるのをどこか怖がってるところがある。
そんな雫のことを、乙葉はずっと大切に思っていた。
二人で他愛もない会話をしていたそのときだった。
「おはようございます」
教室の後ろのドアが開き、爽やかな声が響く。振り返ると、稲葉蓮也が現れた。
背は高く、整った顔立ち。柔らかそうな髪が光に透けて、白いシャツが妙に似合っている。
「稲葉くんだ……やっぱ、かっこいいよね」
雫がぽつりと呟く。
教室の女子たちもざわつき始めるなか、乙葉はちらりと彼の方を見て、すぐに視線を戻した。
(……やっぱり苦手)
笑顔は完璧、立ち振る舞いも隙がない。
でもどこか嘘っぽくて、本当の彼が見えない。見せたくない、というより、最初から「隠す」ことを前提に生きている感じ。
そんな稲葉蓮也の「完璧な仮面」が、乙葉にはどうしても居心地悪く感じられた。
──放課後。
乙葉は職員室の前で立ち止まり、深呼吸してからドアをノックした。
「失礼します」
中に入ると、橘冬馬先生が書類を見ながら顔を上げた。
「ああ、枢木さん。どうした?」
「ちょっと、相談したいことがあって……」
誰にも見せないようにしているけれど、乙葉はこの人にだけは、ほんの少しだけ心を許していた。
家のこと、進路のこと、自分の本音──橘先生は、それを変に慰めることもなく、ただ静かに受け止めてくれる。
「……なるほど。弟さん、もうすぐ年長さんか。毎朝送り迎え、偉いな」
「……慣れてますから」
穏やかに笑う橘先生の声が心地よくて、乙葉は少しだけ表情を和らげた。
「いつも助かってるよ。……君は、よく頑張ってると思う」
その言葉が、妙に胸に染みて──乙葉は、不意に視線を逸らした。
「じゃあ、また何かあったらいつでも来なさい」
「……はい。ありがとうございました」
職員室を出たとき、ちょうど廊下の曲がり角で、向こうから誰かが歩いてきた。
稲葉蓮也だった。
「あ、枢木さん……さっき職員室にいたんだね」
「……うん、ちょっとね」
二人きりになった空間が、微妙な沈黙に包まれる。
乙葉は歩きながら、ふと口を開いた。
「……ねえ、仮面って、疲れない?」
「え?」
「いつも、そうやって“良い人”演じてるけど、本当の自分とは違うんでしょ?」
稲葉は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにふっと笑った。
「……さすがだね。枢木さんには通じないか」
「……別に見抜いたつもりはないけど。ただ、私はそういうの苦手だから」
乙葉の言葉に、稲葉は少しだけ真顔になった。
「でも、枢木さんのそういうところ、俺は良いと思うよ。飾らなくて、まっすぐで。……羨ましいくらいにね」
少しだけ柔らかくなったその表情に、乙葉は返す言葉を失った。
──次の日の朝。
「おはよう、乙葉!」
雫が小走りで追いついてくる。今日もいい天気だ。
新学期の空は、どこまでも青かった。
「今日、家庭科あるんだよね? あの先生、なんかいつも『女子は料理できて当然』って空気出してくるから苦手〜」
「大丈夫。料理は得意だから、私がやるよ」
「さっすが乙葉! 頼りにしてまーす」
他愛もない会話をしながら並んで歩く。そんな朝の時間が、乙葉にとっては少しだけ特別だった。
下駄箱に着くと、ちょうど向こうから稲葉蓮也が歩いてきた。
「おはよう」
いつも通りの笑顔。昨日と変わらない「作られた仮面」。
でも、乙葉の脳裏には──職員室の前で交わした“仮面”の会話が、微かに残っていた。
(……あの笑顔の奥に、本当の彼はいるのかな)
「乙葉? なんか……稲葉くんと何かあった?」
雫の問いかけに、乙葉は少しだけ目を伏せて、
「……別に、何も」
そう返しながら、稲葉の背中を無意識に目で追っていた。
──少しずつ、ほんの少しずつ。
仮面の奥にある、本当の“誰か”が見えた気がして。
新学期の空は、今日もまぶしいくらいに青い。
