彼の名はトウヤ。年は八歳。
 ミス・ウィッチに敵対する者のひとりである。

 一応。


「イテテテテ……。ああ、ひどい目にあった……」

 “家”の壁に、盛大に打ちつけた自分の体をさすりながら、トウヤはつぶやいた。
 ちなみに、トウヤの“家”――屋敷、と呼んだ方が良いかもしれない。とにかくそれは、人っ子ひとり寄りつかないような、魔法界のはずれにある。
 暗闇の湖上、永遠に夜が続くような場所。
 正確には彼の家ではなく、彼の“家族”の屋敷である。
 科学界でミス・ウィッチに吹っ飛ばされた彼が、例の通路を通らずに、なぜ魔法界にある屋敷に直接たどり着けるのか(そして壁に激突できるのか)については、ここではひとまず置いておく。

 トウヤは、玄関ではなく二階の窓から、直接自分の部屋に入った。この方が近いためである。部屋に入ったトウヤは、案外重い背中のロケットを下ろした。
 部屋のなかは薄暗く、物が散乱していた。ほとんどは、彼が作った“発明品”である。まともに使えたものは、あまりない。トウヤは、科学界の“秘密基地”(ショッピングモール内)においてきた私物のことを思い出し、ため息をついた。
 一か月も留守にしていると、部屋のものはさすがに埃まみれになっていた。本当は今すぐにでも掃除に取りかかりたかったが、それよりも優先すべきことを達成するために、自室を後にする。

 螺旋(らせん)階段を上り、三階。
 一番奥の部屋。
 息を整えてから、トウヤは部屋の扉をノックした。

「どうぞ」

 なかから声がきこえ、トウヤは扉を開ける。
 しかし、そこに人の姿はない。部屋の真ん中にはカーテンがかかっており、そのさらに奥に、声の主はいる。
「ただいま、ママ。オイラだよ、トウヤだ」
 カーテン越しに、トウヤは言った。


 カーテンの裏で、なにやら手を動かしている人物、“ママ”。
 またの名を、マヤカ。
 ミス・ウィッチに敵対する集団を、まとめあげている人物である。



「ああ、おかえり。
 一体全体、どこになにしに行ってたの?」
 落ち着きのある、でも若々しい声色。
 責めるでもなく、今日の天気を尋ねるくらいの口調で、マヤカはいった。

「あ、えっと、その……、修行? みたいな」
「修行? どこに?」
「科学界に」
「へえ……。科学界。
 それはどうして?」
「オイラがずっと、“カガク”に憧れてるのは知ってるだろ?
 一度でいいから、本場の“カガク”っていうのに触れてみたくって」
「なるほどね。楽しかった?」
「そりゃもう! 特に“カデンリョーハンテン”ってのはおもしろくって……。
 って、そうだ! ママに報告があるんだ」
「報告ね……。何?」


「科学界に、ミス・ウィッチが現れたんだ!」


 どうだ! と言わんばかりの勢いで、トウヤは言った。

「へえ。すごいね」
 さらりとマヤカはいった。

 テストで百点を取った、といった方が、マヤカはきっと喜んだだろう。もっともトウヤは、学校に通ってはいないが。

 マヤカの方からは、カタカタとタイプライターを打つような音がきこえる。他にも、しきりにペンを走らせる音、鳩の鳴き声。音にはならなかったが、フリック入力も行っている。
 予想外の軽い反応に、少しうろたえるトウヤ。

「ちょ、ママ、科学界だよ? 魔法界じゃなくて!
 しかも、みんなからきいてた話とは、違うやつらだった!
 オイラが秘密基地にしていた場所にあいつら、いきなり乗り込んできやがって。
 でも、ここでオイラがあいつらを倒せれば、ママや他のみんなの力になれると思って、オイラ頑張ったんだよ!」


「……それで?」


「え?」
「倒せたの? その新たなミス・ウィッチさんたち」
 今日の夕ご飯をきくくらいの口調で、マヤカは尋ねた。

「いや……。案外手ごわくってさ、倒せてはないんだけど……
 でも! オイラが見つけたからにはオイラがカタをつけてくるよ!」
「あー、いいよいいよ。大丈夫。
 あとは、他の人にやってもらうから。あなたには、まだ荷が重すぎるよ」
「え!? そ、そんなぁ……。
 あ! そうだ。いってなかったけどオイラ、修行してた間に、ミス・ウィッチの気配をキャッチする発明品を作ったんだ!
 名付けて、“ミスマジック・サーチャー”!
 ほら、これ……、って、あ!?」

 サロペットのポケットに入れていた、小さなアンテナのような形をした“ミスマジック・サーチャー”は、バッキバキに割れていた。おそらく、壁に激突したときに、割れたのだろう。
 ちなみに、行き当たりばったりな性格のトウヤは、これの作り方を覚えてないし、記録してもいない。一度作った発明品が、二度と作れないのはよくあることである。

 肩を落とすトウヤに、マヤカは優しく微笑んだ(トウヤ側からはカーテンで見えないが)。

「ほら、あなたにはまだ早いんだよ。
 この件に関しては、私が直接指示を出して、他の人に倒しにいってもらうから。
 あなたはこの屋敷で、今まで通り、私の手伝いをしててくれる?」

 一応疑問形だが、有無をいわさない、しっとりとした口調のマヤカ。先ほどからの作業音は、“他の人”たちに連絡を取っている音なのだ。
 悔しさでうつむき、うなるトウヤ。


「……ごめん、ママ。
 やっぱ諦めきれない!」


 トウヤは、バッと顔をあげて宣言した。

「もういっぺん、もういっぺんだけ行ってくるよ!
 オイラにはまだ、作戦があるんだ!
 必ず、必ずあいつらを、ボッコボコにして帰ってくるからさ!」

 そういうと、トウヤは走って部屋を出ていった。


「……うーん。
 そろそろ止めたらいいのにな。ケガするだけだし。科学界で、あんまり事を荒立ててほしくないし……。
 ……まあ、それでキッパリ諦めてくれるならいっか。
 私としては、手伝ってもらいたいこと、たくさんあるんだけどな……」
 マヤカはつぶやいて、作業を進めた。

 ほんの数分後。
 すべてのメッセージを完成させたマヤカは、それぞれ送信する。

 だいたいのメッセージは、「待機指示」。
 ただし、一通――伝書バトの足に結び付けた手紙には、事の詳細と指示を記した。


「まずは、あなたかな。
 ……よろしくお願いするね」


 マヤカは、伝書バトを優しく撫でた。
 それを合図に、ハトは窓から飛び立つ。
 夜闇に、その真っ白な体は映えた。

 

 そして、もう一通。
 スマートフォンでメッセージを送った。
 これは、科学界のミス・ウィッチの件とは関係がない。今日の研究成果を送ってもらうために、毎日送っているメッセージである。
 ちなみに、返信はほとんどない。

 送った相手は、この屋敷内――地下フロアにいる。

『……弟は、あなたの影響を存分に受けてるみたいだね。
 もちろんあなたには、遠く及ばないけど……。
 良い報告を、楽しみに待ってるよ、コウヤ』


 



 場所は変わって、屋敷の地下一階。
 うす暗い部屋の中で、ひとりの少女が作業をしていた。
 さきほどマヤカが、メッセージを送っていた相手である。

 彼女の名はコウヤ。年は十九歳。
 トウヤの姉である。

 大きなゴーグルをつけていて、表情は見えない。
 机の上には、謎の機械が散乱し、大量の紙の束が乱雑に置かれている。それは床にも散らばっていて、足の踏み場がない。

 机の上のスマホが鳴ったが、見向きもしないコウヤ。
 ただひたすら、自分の世界に没頭する――。