汗のにおいが、うっすらと漂う朝の楽屋。
今日も暑くなる。鏡の前で着ぐるみの頭を抱えながら、私は小さく息を吸い込んだ。
「よし、今日も頑張ろう」
地味で小柄な自分。すっぴんの顔も、ざっくり結んだポニーテールも、鏡の中で頼りなく見える。
でもこの“中”に入ってしまえば、私は「誰か」になれる。
――地味で目立たない私が、唯一、誰かに笑ってもらえる“存在”になれる場所だった。
ちら、と視線を向ける。
楽屋の隅には、今日もあの人が座っていた。
黒髪が目元にかかるほど長く、顔立ちはよく見えない。
真っ白なTシャツ。無駄のない体つき。無言でノートパソコンを叩く姿は、機械みたいに無駄がなかった。
――あの人が来て、今日で三日目。
パフォーマーの安全を守るために会社が雇った、“体調管理の専門家”だと聞いている。
でも、来てからというもの、誰ともまともに会話していない。無表情で、無口で、近寄りがたい。
それでも、存在感だけは、やたらと強い。
「あの……おはようございます」
思い切って声をかけてみる。
返ってきたのは、小さく、かすれたような声だった。
「……おはよう」
それだけ。顔も上げない。
でも、返事をしてくれた。それだけで、少しだけ安心する自分がいた。
(やっぱり、ちょっと怖い……けど)
着ぐるみの頭をかぶる。中に入れば、私はマフィンちゃん。
夢と笑顔と、ほんの少しの“自分らしさ”を届けるために。
⸻
シュガーランドは、今日もにぎやかだった。
けれど太陽は、いつもよりもさらに暴力的に照りつけている。
「マフィンちゃーん!写真撮ってー!」
子どもたちの笑顔。手を振る。ハグする。しゃがむ。
息が上がる。中の湿度が尋常じゃない。水分も抜けきって、視界が揺れる。
(もうちょっとだけ……もう一枚だけ……)
足が、ふらついた。
その瞬間。
「中断」
低く、鋭い声が響いた。
誰よりも早く、私の肩に手が伸びてきた。
「撮影は、ここまで。すみません、マフィンちゃん戻ります」
きっぱりと断りを入れ、私の体を支えてくれる腕。
クマの頭が大きく揺れて、目の前の視界が一瞬だけ開けた。
――早見さんだった。
⸻
気づけば、楽屋に戻っていた。
椅子に座らされ、首筋に冷たいタオル。まだ頭がぼーっとしている。
視界の端で、何かが近づく気配。
次の瞬間、額に、ひやりとした感触が落ちた。
「……っ」
見上げると、早見さんが目の前にいた。
表情は変わらないまま、無言で冷えピタを貼っている。
その指先は、静かで、ほんの少しだけ震えていた。
貼られた瞬間、彼の顔がふいに近づく。
長い睫毛。涼しげな目元。輪郭の整った横顔。
(……えっ、なにこの……美形……)
無言なのが、逆にずるい。
呼吸がふっと詰まった。
貼り終えると、彼は少し間を置いて、低くつぶやいた。
「……もっと早く、声かけるべきだった」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
「この三日、ずっと暑さ対策の資料まとめてて……現場の変化、ちゃんと見れてなかった」
無表情なのに、悔しさがにじんでいた。
早見さんは、ただ黙って座っていたんじゃなかった。ずっと、考えて、動いていてくれたんだ。
「……今日は、もう帰って。これは命令」
「で、でも……」
早見さんは、私の目を見て、首を横に振る。
「……篠原さんのマフィンちゃんが、いちばん可愛い。だから」
短く、まっすぐ。
言葉がストンと胸の奥に落ちて、私の呼吸が一瞬止まった。
「……自分の体、ちゃんと守って」
その声が、耳の奥にずっと残る。
顔が熱い。ずっと暑かったせいかもしれないし――
それとも、たった今の言葉のせいかもしれない。
どちらなのか、私にはまだわからなかった。
今日も暑くなる。鏡の前で着ぐるみの頭を抱えながら、私は小さく息を吸い込んだ。
「よし、今日も頑張ろう」
地味で小柄な自分。すっぴんの顔も、ざっくり結んだポニーテールも、鏡の中で頼りなく見える。
でもこの“中”に入ってしまえば、私は「誰か」になれる。
――地味で目立たない私が、唯一、誰かに笑ってもらえる“存在”になれる場所だった。
ちら、と視線を向ける。
楽屋の隅には、今日もあの人が座っていた。
黒髪が目元にかかるほど長く、顔立ちはよく見えない。
真っ白なTシャツ。無駄のない体つき。無言でノートパソコンを叩く姿は、機械みたいに無駄がなかった。
――あの人が来て、今日で三日目。
パフォーマーの安全を守るために会社が雇った、“体調管理の専門家”だと聞いている。
でも、来てからというもの、誰ともまともに会話していない。無表情で、無口で、近寄りがたい。
それでも、存在感だけは、やたらと強い。
「あの……おはようございます」
思い切って声をかけてみる。
返ってきたのは、小さく、かすれたような声だった。
「……おはよう」
それだけ。顔も上げない。
でも、返事をしてくれた。それだけで、少しだけ安心する自分がいた。
(やっぱり、ちょっと怖い……けど)
着ぐるみの頭をかぶる。中に入れば、私はマフィンちゃん。
夢と笑顔と、ほんの少しの“自分らしさ”を届けるために。
⸻
シュガーランドは、今日もにぎやかだった。
けれど太陽は、いつもよりもさらに暴力的に照りつけている。
「マフィンちゃーん!写真撮ってー!」
子どもたちの笑顔。手を振る。ハグする。しゃがむ。
息が上がる。中の湿度が尋常じゃない。水分も抜けきって、視界が揺れる。
(もうちょっとだけ……もう一枚だけ……)
足が、ふらついた。
その瞬間。
「中断」
低く、鋭い声が響いた。
誰よりも早く、私の肩に手が伸びてきた。
「撮影は、ここまで。すみません、マフィンちゃん戻ります」
きっぱりと断りを入れ、私の体を支えてくれる腕。
クマの頭が大きく揺れて、目の前の視界が一瞬だけ開けた。
――早見さんだった。
⸻
気づけば、楽屋に戻っていた。
椅子に座らされ、首筋に冷たいタオル。まだ頭がぼーっとしている。
視界の端で、何かが近づく気配。
次の瞬間、額に、ひやりとした感触が落ちた。
「……っ」
見上げると、早見さんが目の前にいた。
表情は変わらないまま、無言で冷えピタを貼っている。
その指先は、静かで、ほんの少しだけ震えていた。
貼られた瞬間、彼の顔がふいに近づく。
長い睫毛。涼しげな目元。輪郭の整った横顔。
(……えっ、なにこの……美形……)
無言なのが、逆にずるい。
呼吸がふっと詰まった。
貼り終えると、彼は少し間を置いて、低くつぶやいた。
「……もっと早く、声かけるべきだった」
その言葉に、胸がきゅっとなった。
「この三日、ずっと暑さ対策の資料まとめてて……現場の変化、ちゃんと見れてなかった」
無表情なのに、悔しさがにじんでいた。
早見さんは、ただ黙って座っていたんじゃなかった。ずっと、考えて、動いていてくれたんだ。
「……今日は、もう帰って。これは命令」
「で、でも……」
早見さんは、私の目を見て、首を横に振る。
「……篠原さんのマフィンちゃんが、いちばん可愛い。だから」
短く、まっすぐ。
言葉がストンと胸の奥に落ちて、私の呼吸が一瞬止まった。
「……自分の体、ちゃんと守って」
その声が、耳の奥にずっと残る。
顔が熱い。ずっと暑かったせいかもしれないし――
それとも、たった今の言葉のせいかもしれない。
どちらなのか、私にはまだわからなかった。
