Wish upon a

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 デザートの柚子(ゆず)シャーベットを食べて手洗いから戻ると、会計が済まされていた。
 すげー……。先輩かっこいいー……。
 俺は上機嫌(じょうきげん)のまま、すれ違う店員さん皆にお礼を言いながら、出口へと向かう。
 ごちそうさまでした。美味(おい)しかったです。ごちそうさまでした。楽しかったです。

「お行儀(ぎょうぎ)良すぎかよっ!」

 自動ドアの外で待ってくれていた先輩が、笑っていた。

「へへ、先輩、ごちそうさまでした。俺、まじで楽しかったです。本気で人生一(じんせいいち)です」

 酔いと、こそばゆい気恥(きは)ずかしさで火照(ほて)った俺の(ほほ)を、風が()でた。
 都会の夜の空気を鼻から思いっきり吸い込み、頭を()ましたつもりになって、考える。
 もう少しだけ先輩といたいな。
 カラオケとかいけないかな。先輩の歌、聴いてみたい。
 どんな声で、どんな想いを歌うのか、聴いてみたい。
 たぶん、柔らかな響きの、よく(とお)る声で歌うんだろうな。

「いやー、ソウタさ。今日、ありがとな」

 想像してた音色に近い声で、先輩が言った。
 だけど、お礼を言うのはこっちだ。
 言っても言い切れないくらいなのに。

「そんなっ、こっちの台詞(せりふ)です! 本当ごちそうさまで、いや、それだけじゃなくて」
「いや、まじで結構、こっちのほうがありがとうなんだわ」

 先輩は気持ちよさそうに夜風(よかぜ)を吸い込んで、ゆっくりと息を吹いた。

「ソウタのおかげでさ、俺、やっと動けそう」

 先輩が笑って俺を見る。
 その目は、やっぱり、いつもよりも強く光って見えた。
 胸が高鳴(たかな)っていく。マコト先輩が動くということは、活動再開にほかならないだろう。
 やったー! 俺が涙ぐんでそう叫ぶよりも先に、先輩が口を開いた。

「ソウタの目ってさ、なんか、ずっと見ちゃうよな」

 突然のお世辞(せじ)動揺(どうよう)しながらも、俺は本気で照れて、目を両手で(おお)って茶化した。

「ちょっと先輩、いきなりなんですか。やめてくださいよー!」

 それでも先輩は、柔らかに目を細めながら、俺を見ていた。

「波打つ水面(みなも)みたいなんだよ、ソウタの眼って」

 キラキラしてて、まぶしいのに、ずっと見ちゃう感じがさ。
 先輩はそう続けると、暗い空に向けて、紫煙を吹くようにゆっくりと息を吐いた。

「ソウタの目を見てて気づけたんだ。俺、だいぶ(しず)んじゃってたんだなーって」

 怖気(おじけ)づいて、止まって、楽に沈んでたんだ。
 沈んだぶん、上がるのは大変なのに、ただただ沈んでた。

「遠いなー。もう戻れないなー。そう思って、初めて気付けたよ」

 先輩の黒い瞳は、(いた)って穏やかだった。
 だけどその瞳の上では、光が、戸惑(とまど)うように揺れていた。
 その光は、反射した俺だった。
 悪い予感が、喉を塞いで、言葉が出てこない。
 騒がしいはずの街が、音を失ったように静かに感じる。
 俺は、長い一瞬を、ただ見守ることしかできなかった。

「ああ、ごめんごめん。これはさ、いい話なんだよ、ソウタ」

 なんか、変な言い方しちゃったな。そう笑う先輩に、俺は心底安堵(あんど)した。

「もぉーっ! いきなりのワールドオブマコトやめてくださいよ! 急に世界観(せかいかん)変わって、俺、(ちょう)不安(ふあん)でしたよ!」
「あはは。ごめんって。なんか、ちゃんと聞いてほしかったんだよ。その……」

 あの、実はさ、俺……。口をまごまごとした後に、先輩は少し目を伏せた。

「喫煙所にソウタが踏み込んできた時、ちょっと泣いたんだよね」

 ちょっとだぞ、ちょっとだけ。
 上目遣(うわめづか)いで俺を(にら)みながら、先輩は言う。

「四年前の俺に憧れてくれてる子がいて。そんな子が勇気を出して動き出した姿を見て。停滞(ていたい)したまま(くさ)ってしまった自分に気付いて。嬉しさと(むな)しさで、ちょっと泣いた」

 先輩は停滞なんかしてないです。腐ってなんかないですよ。
 心の底から、そう言いたい。
 だけど、本心なのに、口に出せば軽薄(けいはく)な言葉と()してしまいそうで、言えなかった。

「でもさ。ソウタと一緒にいたら、気持ちがどんどんと動いて、決断していけたんだ」

 穏やかな声で、前向きな言葉で、マコト先輩は言う。
 もう以前には絶対に戻れないんだって、しっかりと分かった。
 それに、俺を見てる子がいるのなら、沈み続けてもいられないなって、心も決まった。
 そして、ソウタを見習って俺も踏み出さないとって、思い切れたんだよ。

「行きたいと思える世界が、俺にもあるんだから」

 先輩は、くしゃりと笑った。俺もどこか安心して、つられて笑う。
 そして、聞き流しかけた先輩の再出発の目的地に、俺は細めた目を見開いた。

「世界……? 世界って、え、まさか……、海外行っちゃうんですか⁉」

 先輩は、いたずらっぽく笑う。

「あはは、良い(かん)してんじゃーん。ふふ、……そうだぜ!」

 俺は、心のままに歓喜(かんき)した。
 やっぱすげぇー! いきなりの一歩の規模(きぼ)が凄すぎですよー! それに、マコト先輩の世界観が、全世界規模になっちゃうってことは……!

「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」
「え、なんて?」
「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」
「よく噛まずに言えるな?」

 見合(みあ)ってから、二人で笑い合う。
 本当に嬉しくて、楽しい。
 だから、やっぱり(さび)しかった。
 あと、どれくらい、先輩は俺と一緒にいてくれるんだろう。

「先輩、いつ行っちゃうんですか?」
「んー、明日には()とうかな!」
「え⁉ 先輩、明日のシフト入ってませんでしたっけ?」
「そこは、ソウタがいるから大丈夫でしょ? 頼むぜ!」

 えー、急に奔放(ほんぽう)! 唐突(とうとつ)なアーティストムーブやめてくださいよー!
 そうふざけながらも、俺の中で寂しさは色濃(いろこ)くなっていく。
 本当に、この人間社会から逸脱(いつだつ)できてしまうような力強さを、先輩に感じたから。
 ああ、この人は行ってしまうんだ、とわかってしまった。

「ああー、でも俺、やっぱ寂しいですよー。先輩とやっと話せたばかりだから……」

 水を差してしまうけど、でも言わずにはいられないくらい、思いは強まっていた。

「先輩、日本にはいつ頃に戻ってきてくれるんですか?」
「んー。……あ、お盆とか帰れるのかも?」
「えっ、海外って、お盆無くないですか? え、あるんですか?」

 んー、どうだろねー。先輩は、そう困ったように笑った。

「まあ、いつかは、ソウタのほうが来てくれると思うけど」

 ええ⁉ 俺、海外出る予定ないですよ⁉ 英語も話せないし、演奏もまだ全然……!
 急に大変な目標ができて(あわ)てる俺に、先輩が微笑(ほほえ)んだ。

「ゆっくりでいいよ、ソウタ。できるだけ時間を掛けて、ゆっくり来なよ」

 そう言って、先輩は、右手を軽く(にぎ)って、中指のあたりを(ひたい)にかざした。
 それは、ライブ中に、ステージの上で時折(ときおり)見せてくれる仕草(しぐさ)だった。
 そして、少し目を()せた時、(またた)くようにそれは光った。

「ソウタ。その俺のコスプレなんだけど、もう一点、足りない物があるんだよね」

 そう言って、先輩はその白く細い指から、黒い星の指輪を(はず)した。

「この指輪。これだけは俺、ステージで()かしたことなかったんだ」

 知っていた。
 俺が指輪をつけなかったのは、意図(いと)してのことだったから。
 指輪を額に当てて、その星に祈りを込めるような、先輩の神秘(しんぴ)的な仕草が好きだった。
 それは俺の中では、もはや神聖(しんせい)(いき)で、おこがましくて、そこだけは真似できなかったんだ。

「指輪は、わかっててつけれなかったんです。その指輪の星に祈るような先輩の姿を、俺、すごく大切に感じてて、なんというか、先輩だけのものであって欲しかったから」

 そっか。なんか、照れるぜ。先輩は、そう笑う。

「なら、よかったよ。ソウタ、これ、もらってあげて」

 ええ⁉ 俺、先輩だけのものであってほしいって言いましたよね⁉
 そう言おうとしたのに、声が出なかった。
 先輩の細い指が、急に俺の指に触れたから。

「……あれ? ソウタ、意外と指しっかりしてるね……。入らない……。あれ……」

 先輩が俺の中指にはめようとした指輪は、他の指をうろうろとした後に、薬指(くすりゆび)へと(おさ)まってしまった。

「あー、薬指か……。まぁ、右手だし、いっか。ね?」

 俺の手に触れたまま小首(こくび)をかしげる先輩に、俺は赤面を()えながらも、ただただ(うなず)いてしまう。

恐縮(きょうしゅく)です……っ! だけど、先輩、これは」

 これはいただけません。俺は、先輩のあの姿が、好きなんです。
 これからも俺は、あの先輩の仕草を見ていたいんです。
 今度はちゃんと声に出して言えた。
 なのに先輩は、まるで聞こえていないかのように、ただ静かに微笑んでいた。
 そして、俺の薬指を、星の指輪を額にかざして、先輩は目を伏せる。

「ソウタはソウタのまま、生きろよ」

 俺は、何も答えられなかった。
 ソウタ、返事は? 先輩がそう言うものの、声が出せない。
 なんだか世界が、やけに(はかな)げで、綺麗だったから。
 それに()まれて(おぼ)れてしまい、声を出したら、涙までこぼしてしまいそうだった。
 マコト先輩が、穏やかな声で続けていく。

「お前は、落としたもんばっかり見て、沈んでくなよって言ってんの」

 俺は、話せないぶん、頷いた。
 先輩も、小さく頷いて、答えてくれた。

「無くしたもんばかり見てると、お前も無くなっちゃうんだからな」

 俺、それだけは、嫌だからな。
 そう言って先輩は、伏し目がちな黒い瞳のまま、俺を見た。
 その瞳に、光はない。
 俺の好きな安心の明かりは、俺の手の影に呑まれていた。

「ソウタ、返事は?」

 先輩が、穏やかな笑みのまま、(こた)えを求める。
 一瞬たりとも、迷いはしなかった。
 俺はすでに、導きの灯火(ともしび)を、先輩からもらっていたから。

『人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ』

 真剣に俺を思ってくれた先輩の言葉が、胸の奥でほのかに光っている。
 暗闇の中で、淡く、だけど確かに、俺に答えを示してくれていた。

「大丈夫す。俺、先輩のこと見てますから! どこに行っても!」

 声が震えないよう、強く言い切った。

「……ソウタ。……本当にわかってないなー、お前ー!」

 (あき)れたように、先輩の指が俺の手から放れていく。
 でも、俺の答えは、間違っていないと確信している。
 先輩の瞳が今、(つや)やかに光っているのだから。

「まあ、もうそれでもいいや。……じゃあ、見とけよ! ソウタ、俺は上にいくぞー!」

 先輩が夜空を指さして、気持ちよさそうに声を張った。

「はい! てか、俺の中ではすでに先輩が頂点です! 先輩は、最強ですから!」
「いいねー。じゃあ、ソウタ、二次会(にじかい)しちゃうかー?」
「え、やったぁ! はい!」

 (ねが)ったり(かな)ったりの二次会に、俺は両手を()げて喜んだ。

「ソウタって家どこなの? そっち方面(ほうめん)にしてあげるよ。タクシーおごってやるから!」
「え、いいんですか⁉」
「うん、特別な!」

 自宅の最寄(もよ)り駅を伝えると、先輩はすぐに()まっていたタクシーを見つけてくれた。
 俺は後部座席(こうぶざせき)へ乗り込んで、シートベルトを()めつつ、どこか夢心地(ゆめごこち)で先輩に提案(ていあん)する。
 先輩、あの、カラオケとかどうですか? 俺、先輩の歌聞いてみたくて……。
 だけど、先輩は隣にはいなくて、助手席(じょしゅせき)の扉を開けて、運転手さんとやり取りをしていた。
 助手席に座って、道案内(みちあんない)とかしてくれるのかな。
 なんとなくそう思っていると、先輩はお金だけを渡して、扉を閉めてしまった。

「え、え、先輩?」

 慌てて、窓を()ろし、外に立っている先輩に問い掛ける。

「え? 先輩、行かないんですか? 二次会」

 先輩は、静かに微笑んで、俺を見ていた。

「ソウタ」

 そう俺を呼んで、少しだけかがむ。
 その瞳は、俺の瞳を見ていた。
 先輩の(つや)やかな黒い瞳の上で、たくさんの光が揺れている。
 都会の照明、車のライト。反射してる俺。
 気づくと俺は、俺の知らない情景(じょうけい)()み込まれていた。

 色々なものが合わさって揺れていて、さざ波のように光って見えた。
 キラキラしてて、まぶしくて、ずっと見ていたくなるような(きら)めきだった。
 そんな明かりに照らされて、自分は暗くて深いところにいるのだと気付いてしまった。
 まぶしく揺らめく水面との距離が、明確(めいかく)に見えてしまったんだ。
 手を伸ばすことすらも、滑稽(こっけい)に感じてしまうほどの距離。
 届かない。あまりにも遠い。あそこには、二度と戻れない。
 そうわかってしまったら、あとは、もう

「沈むなよ、ソウタ」

 先輩の声に、我に返る。
 先輩が優しく目を細めて、もう星のない中指を、額に当てた。

「俺、それだけは嫌だからな」

 返事は? そう言う先輩の声にかぶせるようにして、俺は答える。

「大丈夫です。俺は、先輩のことを見てますから」

 そっかそっか。と先輩は笑う。
 そして、夜空を指さした。

「俺は、上にいるからな」

 おやすみ、ソウタ。
 その言葉を合図に、タクシーが動き出した。先輩と、離れていってしまう。
 俺の好きな先輩の世界が遠のいて、猥雑(わいざつ)な都会のざわめきが耳の奥に満ちていく。
 人混(ひとご)みと車両の()れが()()す、無情(むじょう)(うず)が、俺達を呑み込んでいく。
 だから俺は、薬指の星を額に押し当てて、(まぶた)に浮かぶ安心の明かりに向かって叫んだ。

「マコト先輩ッ、最強イエー!」

 先輩みたいな神聖さの欠片(かけら)もない、不格好(ぶかっこう)な祈り。
 それもすぐに、喧騒(けんそう)へと(まぎ)れてしまう。
 だけど、俺は、届いたと感じていた。
 夜の街に(たか)らかと響く、小学生男子みたいな笑い声が聞こえた気がしたから。