―★ ★ ★――★
デザートの柚子シャーベットを食べて手洗いから戻ると、会計が済まされていた。
すげー……。先輩かっこいいー……。
俺は上機嫌のまま、すれ違う店員さん皆にお礼を言いながら、出口へと向かう。
ごちそうさまでした。美味しかったです。ごちそうさまでした。楽しかったです。
「お行儀良すぎかよっ!」
自動ドアの外で待ってくれていた先輩が、笑っていた。
「へへ、先輩、ごちそうさまでした。俺、まじで楽しかったです。本気で人生一です」
酔いと、こそばゆい気恥ずかしさで火照った俺の頬を、風が撫でた。
都会の夜の空気を鼻から思いっきり吸い込み、頭を冷ましたつもりになって、考える。
もう少しだけ先輩といたいな。
カラオケとかいけないかな。先輩の歌、聴いてみたい。
どんな声で、どんな想いを歌うのか、聴いてみたい。
たぶん、柔らかな響きの、よく通る声で歌うんだろうな。
「いやー、ソウタさ。今日、ありがとな」
想像してた音色に近い声で、先輩が言った。
だけど、お礼を言うのはこっちだ。
言っても言い切れないくらいなのに。
「そんなっ、こっちの台詞です! 本当ごちそうさまで、いや、それだけじゃなくて」
「いや、まじで結構、こっちのほうがありがとうなんだわ」
先輩は気持ちよさそうに夜風を吸い込んで、ゆっくりと息を吹いた。
「ソウタのおかげでさ、俺、やっと動けそう」
先輩が笑って俺を見る。
その目は、やっぱり、いつもよりも強く光って見えた。
胸が高鳴っていく。マコト先輩が動くということは、活動再開にほかならないだろう。
やったー! 俺が涙ぐんでそう叫ぶよりも先に、先輩が口を開いた。
「ソウタの目ってさ、なんか、ずっと見ちゃうよな」
突然のお世辞に動揺しながらも、俺は本気で照れて、目を両手で覆って茶化した。
「ちょっと先輩、いきなりなんですか。やめてくださいよー!」
それでも先輩は、柔らかに目を細めながら、俺を見ていた。
「波打つ水面みたいなんだよ、ソウタの眼って」
キラキラしてて、まぶしいのに、ずっと見ちゃう感じがさ。
先輩はそう続けると、暗い空に向けて、紫煙を吹くようにゆっくりと息を吐いた。
「ソウタの目を見てて気づけたんだ。俺、だいぶ沈んじゃってたんだなーって」
怖気づいて、止まって、楽に沈んでたんだ。
沈んだぶん、上がるのは大変なのに、ただただ沈んでた。
「遠いなー。もう戻れないなー。そう思って、初めて気付けたよ」
先輩の黒い瞳は、至って穏やかだった。
だけどその瞳の上では、光が、戸惑うように揺れていた。
その光は、反射した俺だった。
悪い予感が、喉を塞いで、言葉が出てこない。
騒がしいはずの街が、音を失ったように静かに感じる。
俺は、長い一瞬を、ただ見守ることしかできなかった。
「ああ、ごめんごめん。これはさ、いい話なんだよ、ソウタ」
なんか、変な言い方しちゃったな。そう笑う先輩に、俺は心底安堵した。
「もぉーっ! いきなりのワールドオブマコトやめてくださいよ! 急に世界観変わって、俺、超不安でしたよ!」
「あはは。ごめんって。なんか、ちゃんと聞いてほしかったんだよ。その……」
あの、実はさ、俺……。口をまごまごとした後に、先輩は少し目を伏せた。
「喫煙所にソウタが踏み込んできた時、ちょっと泣いたんだよね」
ちょっとだぞ、ちょっとだけ。
上目遣いで俺を睨みながら、先輩は言う。
「四年前の俺に憧れてくれてる子がいて。そんな子が勇気を出して動き出した姿を見て。停滞したまま腐ってしまった自分に気付いて。嬉しさと虚しさで、ちょっと泣いた」
先輩は停滞なんかしてないです。腐ってなんかないですよ。
心の底から、そう言いたい。
だけど、本心なのに、口に出せば軽薄な言葉と化してしまいそうで、言えなかった。
「でもさ。ソウタと一緒にいたら、気持ちがどんどんと動いて、決断していけたんだ」
穏やかな声で、前向きな言葉で、マコト先輩は言う。
もう以前には絶対に戻れないんだって、しっかりと分かった。
それに、俺を見てる子がいるのなら、沈み続けてもいられないなって、心も決まった。
そして、ソウタを見習って俺も踏み出さないとって、思い切れたんだよ。
「行きたいと思える世界が、俺にもあるんだから」
先輩は、くしゃりと笑った。俺もどこか安心して、つられて笑う。
そして、聞き流しかけた先輩の再出発の目的地に、俺は細めた目を見開いた。
「世界……? 世界って、え、まさか……、海外行っちゃうんですか⁉」
先輩は、いたずらっぽく笑う。
「あはは、良い勘してんじゃーん。ふふ、……そうだぜ!」
俺は、心のままに歓喜した。
やっぱすげぇー! いきなりの一歩の規模が凄すぎですよー! それに、マコト先輩の世界観が、全世界規模になっちゃうってことは……!
「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」
「え、なんて?」
「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」
「よく噛まずに言えるな?」
見合ってから、二人で笑い合う。
本当に嬉しくて、楽しい。
だから、やっぱり寂しかった。
あと、どれくらい、先輩は俺と一緒にいてくれるんだろう。
「先輩、いつ行っちゃうんですか?」
「んー、明日には発とうかな!」
「え⁉ 先輩、明日のシフト入ってませんでしたっけ?」
「そこは、ソウタがいるから大丈夫でしょ? 頼むぜ!」
えー、急に奔放! 唐突なアーティストムーブやめてくださいよー!
そうふざけながらも、俺の中で寂しさは色濃くなっていく。
本当に、この人間社会から逸脱できてしまうような力強さを、先輩に感じたから。
ああ、この人は行ってしまうんだ、とわかってしまった。
「ああー、でも俺、やっぱ寂しいですよー。先輩とやっと話せたばかりだから……」
水を差してしまうけど、でも言わずにはいられないくらい、思いは強まっていた。
「先輩、日本にはいつ頃に戻ってきてくれるんですか?」
「んー。……あ、お盆とか帰れるのかも?」
「えっ、海外って、お盆無くないですか? え、あるんですか?」
んー、どうだろねー。先輩は、そう困ったように笑った。
「まあ、いつかは、ソウタのほうが来てくれると思うけど」
ええ⁉ 俺、海外出る予定ないですよ⁉ 英語も話せないし、演奏もまだ全然……!
急に大変な目標ができて慌てる俺に、先輩が微笑んだ。
「ゆっくりでいいよ、ソウタ。できるだけ時間を掛けて、ゆっくり来なよ」
そう言って、先輩は、右手を軽く握って、中指のあたりを額にかざした。
それは、ライブ中に、ステージの上で時折見せてくれる仕草だった。
そして、少し目を伏せた時、瞬くようにそれは光った。
「ソウタ。その俺のコスプレなんだけど、もう一点、足りない物があるんだよね」
そう言って、先輩はその白く細い指から、黒い星の指輪を外した。
「この指輪。これだけは俺、ステージで欠かしたことなかったんだ」
知っていた。
俺が指輪をつけなかったのは、意図してのことだったから。
指輪を額に当てて、その星に祈りを込めるような、先輩の神秘的な仕草が好きだった。
それは俺の中では、もはや神聖の域で、おこがましくて、そこだけは真似できなかったんだ。
「指輪は、わかっててつけれなかったんです。その指輪の星に祈るような先輩の姿を、俺、すごく大切に感じてて、なんというか、先輩だけのものであって欲しかったから」
そっか。なんか、照れるぜ。先輩は、そう笑う。
「なら、よかったよ。ソウタ、これ、もらってあげて」
ええ⁉ 俺、先輩だけのものであってほしいって言いましたよね⁉
そう言おうとしたのに、声が出なかった。
先輩の細い指が、急に俺の指に触れたから。
「……あれ? ソウタ、意外と指しっかりしてるね……。入らない……。あれ……」
先輩が俺の中指にはめようとした指輪は、他の指をうろうろとした後に、薬指へと収まってしまった。
「あー、薬指か……。まぁ、右手だし、いっか。ね?」
俺の手に触れたまま小首をかしげる先輩に、俺は赤面を堪えながらも、ただただ頷いてしまう。
「恐縮です……っ! だけど、先輩、これは」
これはいただけません。俺は、先輩のあの姿が、好きなんです。
これからも俺は、あの先輩の仕草を見ていたいんです。
今度はちゃんと声に出して言えた。
なのに先輩は、まるで聞こえていないかのように、ただ静かに微笑んでいた。
そして、俺の薬指を、星の指輪を額にかざして、先輩は目を伏せる。
「ソウタはソウタのまま、生きろよ」
俺は、何も答えられなかった。
ソウタ、返事は? 先輩がそう言うものの、声が出せない。
なんだか世界が、やけに儚げで、綺麗だったから。
それに呑まれて溺れてしまい、声を出したら、涙までこぼしてしまいそうだった。
マコト先輩が、穏やかな声で続けていく。
「お前は、落としたもんばっかり見て、沈んでくなよって言ってんの」
俺は、話せないぶん、頷いた。
先輩も、小さく頷いて、答えてくれた。
「無くしたもんばかり見てると、お前も無くなっちゃうんだからな」
俺、それだけは、嫌だからな。
そう言って先輩は、伏し目がちな黒い瞳のまま、俺を見た。
その瞳に、光はない。
俺の好きな安心の明かりは、俺の手の影に呑まれていた。
「ソウタ、返事は?」
先輩が、穏やかな笑みのまま、応えを求める。
一瞬たりとも、迷いはしなかった。
俺はすでに、導きの灯火を、先輩からもらっていたから。
『人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ』
真剣に俺を思ってくれた先輩の言葉が、胸の奥でほのかに光っている。
暗闇の中で、淡く、だけど確かに、俺に答えを示してくれていた。
「大丈夫す。俺、先輩のこと見てますから! どこに行っても!」
声が震えないよう、強く言い切った。
「……ソウタ。……本当にわかってないなー、お前ー!」
呆れたように、先輩の指が俺の手から放れていく。
でも、俺の答えは、間違っていないと確信している。
先輩の瞳が今、艶やかに光っているのだから。
「まあ、もうそれでもいいや。……じゃあ、見とけよ! ソウタ、俺は上にいくぞー!」
先輩が夜空を指さして、気持ちよさそうに声を張った。
「はい! てか、俺の中ではすでに先輩が頂点です! 先輩は、最強ですから!」
「いいねー。じゃあ、ソウタ、二次会しちゃうかー?」
「え、やったぁ! はい!」
願ったり叶ったりの二次会に、俺は両手を挙げて喜んだ。
「ソウタって家どこなの? そっち方面にしてあげるよ。タクシーおごってやるから!」
「え、いいんですか⁉」
「うん、特別な!」
自宅の最寄り駅を伝えると、先輩はすぐに停まっていたタクシーを見つけてくれた。
俺は後部座席へ乗り込んで、シートベルトを締めつつ、どこか夢心地で先輩に提案する。
先輩、あの、カラオケとかどうですか? 俺、先輩の歌聞いてみたくて……。
だけど、先輩は隣にはいなくて、助手席の扉を開けて、運転手さんとやり取りをしていた。
助手席に座って、道案内とかしてくれるのかな。
なんとなくそう思っていると、先輩はお金だけを渡して、扉を閉めてしまった。
「え、え、先輩?」
慌てて、窓を下ろし、外に立っている先輩に問い掛ける。
「え? 先輩、行かないんですか? 二次会」
先輩は、静かに微笑んで、俺を見ていた。
「ソウタ」
そう俺を呼んで、少しだけかがむ。
その瞳は、俺の瞳を見ていた。
先輩の艶やかな黒い瞳の上で、たくさんの光が揺れている。
都会の照明、車のライト。反射してる俺。
気づくと俺は、俺の知らない情景に吞み込まれていた。
色々なものが合わさって揺れていて、さざ波のように光って見えた。
キラキラしてて、まぶしくて、ずっと見ていたくなるような煌めきだった。
そんな明かりに照らされて、自分は暗くて深いところにいるのだと気付いてしまった。
まぶしく揺らめく水面との距離が、明確に見えてしまったんだ。
手を伸ばすことすらも、滑稽に感じてしまうほどの距離。
届かない。あまりにも遠い。あそこには、二度と戻れない。
そうわかってしまったら、あとは、もう
「沈むなよ、ソウタ」
先輩の声に、我に返る。
先輩が優しく目を細めて、もう星のない中指を、額に当てた。
「俺、それだけは嫌だからな」
返事は? そう言う先輩の声にかぶせるようにして、俺は答える。
「大丈夫です。俺は、先輩のことを見てますから」
そっかそっか。と先輩は笑う。
そして、夜空を指さした。
「俺は、上にいるからな」
おやすみ、ソウタ。
その言葉を合図に、タクシーが動き出した。先輩と、離れていってしまう。
俺の好きな先輩の世界が遠のいて、猥雑な都会のざわめきが耳の奥に満ちていく。
人混みと車両の群れが織り成す、無情な渦が、俺達を呑み込んでいく。
だから俺は、薬指の星を額に押し当てて、瞼に浮かぶ安心の明かりに向かって叫んだ。
「マコト先輩ッ、最強イエー!」
先輩みたいな神聖さの欠片もない、不格好な祈り。
それもすぐに、喧騒へと紛れてしまう。
だけど、俺は、届いたと感じていた。
夜の街に高らかと響く、小学生男子みたいな笑い声が聞こえた気がしたから。
デザートの柚子シャーベットを食べて手洗いから戻ると、会計が済まされていた。
すげー……。先輩かっこいいー……。
俺は上機嫌のまま、すれ違う店員さん皆にお礼を言いながら、出口へと向かう。
ごちそうさまでした。美味しかったです。ごちそうさまでした。楽しかったです。
「お行儀良すぎかよっ!」
自動ドアの外で待ってくれていた先輩が、笑っていた。
「へへ、先輩、ごちそうさまでした。俺、まじで楽しかったです。本気で人生一です」
酔いと、こそばゆい気恥ずかしさで火照った俺の頬を、風が撫でた。
都会の夜の空気を鼻から思いっきり吸い込み、頭を冷ましたつもりになって、考える。
もう少しだけ先輩といたいな。
カラオケとかいけないかな。先輩の歌、聴いてみたい。
どんな声で、どんな想いを歌うのか、聴いてみたい。
たぶん、柔らかな響きの、よく通る声で歌うんだろうな。
「いやー、ソウタさ。今日、ありがとな」
想像してた音色に近い声で、先輩が言った。
だけど、お礼を言うのはこっちだ。
言っても言い切れないくらいなのに。
「そんなっ、こっちの台詞です! 本当ごちそうさまで、いや、それだけじゃなくて」
「いや、まじで結構、こっちのほうがありがとうなんだわ」
先輩は気持ちよさそうに夜風を吸い込んで、ゆっくりと息を吹いた。
「ソウタのおかげでさ、俺、やっと動けそう」
先輩が笑って俺を見る。
その目は、やっぱり、いつもよりも強く光って見えた。
胸が高鳴っていく。マコト先輩が動くということは、活動再開にほかならないだろう。
やったー! 俺が涙ぐんでそう叫ぶよりも先に、先輩が口を開いた。
「ソウタの目ってさ、なんか、ずっと見ちゃうよな」
突然のお世辞に動揺しながらも、俺は本気で照れて、目を両手で覆って茶化した。
「ちょっと先輩、いきなりなんですか。やめてくださいよー!」
それでも先輩は、柔らかに目を細めながら、俺を見ていた。
「波打つ水面みたいなんだよ、ソウタの眼って」
キラキラしてて、まぶしいのに、ずっと見ちゃう感じがさ。
先輩はそう続けると、暗い空に向けて、紫煙を吹くようにゆっくりと息を吐いた。
「ソウタの目を見てて気づけたんだ。俺、だいぶ沈んじゃってたんだなーって」
怖気づいて、止まって、楽に沈んでたんだ。
沈んだぶん、上がるのは大変なのに、ただただ沈んでた。
「遠いなー。もう戻れないなー。そう思って、初めて気付けたよ」
先輩の黒い瞳は、至って穏やかだった。
だけどその瞳の上では、光が、戸惑うように揺れていた。
その光は、反射した俺だった。
悪い予感が、喉を塞いで、言葉が出てこない。
騒がしいはずの街が、音を失ったように静かに感じる。
俺は、長い一瞬を、ただ見守ることしかできなかった。
「ああ、ごめんごめん。これはさ、いい話なんだよ、ソウタ」
なんか、変な言い方しちゃったな。そう笑う先輩に、俺は心底安堵した。
「もぉーっ! いきなりのワールドオブマコトやめてくださいよ! 急に世界観変わって、俺、超不安でしたよ!」
「あはは。ごめんって。なんか、ちゃんと聞いてほしかったんだよ。その……」
あの、実はさ、俺……。口をまごまごとした後に、先輩は少し目を伏せた。
「喫煙所にソウタが踏み込んできた時、ちょっと泣いたんだよね」
ちょっとだぞ、ちょっとだけ。
上目遣いで俺を睨みながら、先輩は言う。
「四年前の俺に憧れてくれてる子がいて。そんな子が勇気を出して動き出した姿を見て。停滞したまま腐ってしまった自分に気付いて。嬉しさと虚しさで、ちょっと泣いた」
先輩は停滞なんかしてないです。腐ってなんかないですよ。
心の底から、そう言いたい。
だけど、本心なのに、口に出せば軽薄な言葉と化してしまいそうで、言えなかった。
「でもさ。ソウタと一緒にいたら、気持ちがどんどんと動いて、決断していけたんだ」
穏やかな声で、前向きな言葉で、マコト先輩は言う。
もう以前には絶対に戻れないんだって、しっかりと分かった。
それに、俺を見てる子がいるのなら、沈み続けてもいられないなって、心も決まった。
そして、ソウタを見習って俺も踏み出さないとって、思い切れたんだよ。
「行きたいと思える世界が、俺にもあるんだから」
先輩は、くしゃりと笑った。俺もどこか安心して、つられて笑う。
そして、聞き流しかけた先輩の再出発の目的地に、俺は細めた目を見開いた。
「世界……? 世界って、え、まさか……、海外行っちゃうんですか⁉」
先輩は、いたずらっぽく笑う。
「あはは、良い勘してんじゃーん。ふふ、……そうだぜ!」
俺は、心のままに歓喜した。
やっぱすげぇー! いきなりの一歩の規模が凄すぎですよー! それに、マコト先輩の世界観が、全世界規模になっちゃうってことは……!
「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」
「え、なんて?」
「ワールドオブマコトオブマコトオブワールドになるんですね!」
「よく噛まずに言えるな?」
見合ってから、二人で笑い合う。
本当に嬉しくて、楽しい。
だから、やっぱり寂しかった。
あと、どれくらい、先輩は俺と一緒にいてくれるんだろう。
「先輩、いつ行っちゃうんですか?」
「んー、明日には発とうかな!」
「え⁉ 先輩、明日のシフト入ってませんでしたっけ?」
「そこは、ソウタがいるから大丈夫でしょ? 頼むぜ!」
えー、急に奔放! 唐突なアーティストムーブやめてくださいよー!
そうふざけながらも、俺の中で寂しさは色濃くなっていく。
本当に、この人間社会から逸脱できてしまうような力強さを、先輩に感じたから。
ああ、この人は行ってしまうんだ、とわかってしまった。
「ああー、でも俺、やっぱ寂しいですよー。先輩とやっと話せたばかりだから……」
水を差してしまうけど、でも言わずにはいられないくらい、思いは強まっていた。
「先輩、日本にはいつ頃に戻ってきてくれるんですか?」
「んー。……あ、お盆とか帰れるのかも?」
「えっ、海外って、お盆無くないですか? え、あるんですか?」
んー、どうだろねー。先輩は、そう困ったように笑った。
「まあ、いつかは、ソウタのほうが来てくれると思うけど」
ええ⁉ 俺、海外出る予定ないですよ⁉ 英語も話せないし、演奏もまだ全然……!
急に大変な目標ができて慌てる俺に、先輩が微笑んだ。
「ゆっくりでいいよ、ソウタ。できるだけ時間を掛けて、ゆっくり来なよ」
そう言って、先輩は、右手を軽く握って、中指のあたりを額にかざした。
それは、ライブ中に、ステージの上で時折見せてくれる仕草だった。
そして、少し目を伏せた時、瞬くようにそれは光った。
「ソウタ。その俺のコスプレなんだけど、もう一点、足りない物があるんだよね」
そう言って、先輩はその白く細い指から、黒い星の指輪を外した。
「この指輪。これだけは俺、ステージで欠かしたことなかったんだ」
知っていた。
俺が指輪をつけなかったのは、意図してのことだったから。
指輪を額に当てて、その星に祈りを込めるような、先輩の神秘的な仕草が好きだった。
それは俺の中では、もはや神聖の域で、おこがましくて、そこだけは真似できなかったんだ。
「指輪は、わかっててつけれなかったんです。その指輪の星に祈るような先輩の姿を、俺、すごく大切に感じてて、なんというか、先輩だけのものであって欲しかったから」
そっか。なんか、照れるぜ。先輩は、そう笑う。
「なら、よかったよ。ソウタ、これ、もらってあげて」
ええ⁉ 俺、先輩だけのものであってほしいって言いましたよね⁉
そう言おうとしたのに、声が出なかった。
先輩の細い指が、急に俺の指に触れたから。
「……あれ? ソウタ、意外と指しっかりしてるね……。入らない……。あれ……」
先輩が俺の中指にはめようとした指輪は、他の指をうろうろとした後に、薬指へと収まってしまった。
「あー、薬指か……。まぁ、右手だし、いっか。ね?」
俺の手に触れたまま小首をかしげる先輩に、俺は赤面を堪えながらも、ただただ頷いてしまう。
「恐縮です……っ! だけど、先輩、これは」
これはいただけません。俺は、先輩のあの姿が、好きなんです。
これからも俺は、あの先輩の仕草を見ていたいんです。
今度はちゃんと声に出して言えた。
なのに先輩は、まるで聞こえていないかのように、ただ静かに微笑んでいた。
そして、俺の薬指を、星の指輪を額にかざして、先輩は目を伏せる。
「ソウタはソウタのまま、生きろよ」
俺は、何も答えられなかった。
ソウタ、返事は? 先輩がそう言うものの、声が出せない。
なんだか世界が、やけに儚げで、綺麗だったから。
それに呑まれて溺れてしまい、声を出したら、涙までこぼしてしまいそうだった。
マコト先輩が、穏やかな声で続けていく。
「お前は、落としたもんばっかり見て、沈んでくなよって言ってんの」
俺は、話せないぶん、頷いた。
先輩も、小さく頷いて、答えてくれた。
「無くしたもんばかり見てると、お前も無くなっちゃうんだからな」
俺、それだけは、嫌だからな。
そう言って先輩は、伏し目がちな黒い瞳のまま、俺を見た。
その瞳に、光はない。
俺の好きな安心の明かりは、俺の手の影に呑まれていた。
「ソウタ、返事は?」
先輩が、穏やかな笑みのまま、応えを求める。
一瞬たりとも、迷いはしなかった。
俺はすでに、導きの灯火を、先輩からもらっていたから。
『人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ』
真剣に俺を思ってくれた先輩の言葉が、胸の奥でほのかに光っている。
暗闇の中で、淡く、だけど確かに、俺に答えを示してくれていた。
「大丈夫す。俺、先輩のこと見てますから! どこに行っても!」
声が震えないよう、強く言い切った。
「……ソウタ。……本当にわかってないなー、お前ー!」
呆れたように、先輩の指が俺の手から放れていく。
でも、俺の答えは、間違っていないと確信している。
先輩の瞳が今、艶やかに光っているのだから。
「まあ、もうそれでもいいや。……じゃあ、見とけよ! ソウタ、俺は上にいくぞー!」
先輩が夜空を指さして、気持ちよさそうに声を張った。
「はい! てか、俺の中ではすでに先輩が頂点です! 先輩は、最強ですから!」
「いいねー。じゃあ、ソウタ、二次会しちゃうかー?」
「え、やったぁ! はい!」
願ったり叶ったりの二次会に、俺は両手を挙げて喜んだ。
「ソウタって家どこなの? そっち方面にしてあげるよ。タクシーおごってやるから!」
「え、いいんですか⁉」
「うん、特別な!」
自宅の最寄り駅を伝えると、先輩はすぐに停まっていたタクシーを見つけてくれた。
俺は後部座席へ乗り込んで、シートベルトを締めつつ、どこか夢心地で先輩に提案する。
先輩、あの、カラオケとかどうですか? 俺、先輩の歌聞いてみたくて……。
だけど、先輩は隣にはいなくて、助手席の扉を開けて、運転手さんとやり取りをしていた。
助手席に座って、道案内とかしてくれるのかな。
なんとなくそう思っていると、先輩はお金だけを渡して、扉を閉めてしまった。
「え、え、先輩?」
慌てて、窓を下ろし、外に立っている先輩に問い掛ける。
「え? 先輩、行かないんですか? 二次会」
先輩は、静かに微笑んで、俺を見ていた。
「ソウタ」
そう俺を呼んで、少しだけかがむ。
その瞳は、俺の瞳を見ていた。
先輩の艶やかな黒い瞳の上で、たくさんの光が揺れている。
都会の照明、車のライト。反射してる俺。
気づくと俺は、俺の知らない情景に吞み込まれていた。
色々なものが合わさって揺れていて、さざ波のように光って見えた。
キラキラしてて、まぶしくて、ずっと見ていたくなるような煌めきだった。
そんな明かりに照らされて、自分は暗くて深いところにいるのだと気付いてしまった。
まぶしく揺らめく水面との距離が、明確に見えてしまったんだ。
手を伸ばすことすらも、滑稽に感じてしまうほどの距離。
届かない。あまりにも遠い。あそこには、二度と戻れない。
そうわかってしまったら、あとは、もう
「沈むなよ、ソウタ」
先輩の声に、我に返る。
先輩が優しく目を細めて、もう星のない中指を、額に当てた。
「俺、それだけは嫌だからな」
返事は? そう言う先輩の声にかぶせるようにして、俺は答える。
「大丈夫です。俺は、先輩のことを見てますから」
そっかそっか。と先輩は笑う。
そして、夜空を指さした。
「俺は、上にいるからな」
おやすみ、ソウタ。
その言葉を合図に、タクシーが動き出した。先輩と、離れていってしまう。
俺の好きな先輩の世界が遠のいて、猥雑な都会のざわめきが耳の奥に満ちていく。
人混みと車両の群れが織り成す、無情な渦が、俺達を呑み込んでいく。
だから俺は、薬指の星を額に押し当てて、瞼に浮かぶ安心の明かりに向かって叫んだ。
「マコト先輩ッ、最強イエー!」
先輩みたいな神聖さの欠片もない、不格好な祈り。
それもすぐに、喧騒へと紛れてしまう。
だけど、俺は、届いたと感じていた。
夜の街に高らかと響く、小学生男子みたいな笑い声が聞こえた気がしたから。



