―★ ★ ★――★
積年の憧れと、まだ飲み慣れていない酒が相まって、俺の歯車は急速に空回っていた。
もうすでに、かなりの醜態を晒しているはずなのに、どうしても止まれない。
「先輩の演奏は最高です! 空気が変わるんです。一気に、先輩独自の世界に引き込まれて、その、俺、まじめに世界一だと思ってます!」
「せ、世界一? 照れるぜ」
「あと、秀逸な音作りが世界観を構築してて、あと、強弱の弱の響きがそれを広げてて、あと」
あと、あと、あとは。ああ、俺は、あと何を伝えられていないだろう。
どう言えば、胸の中の思いを伝えられるのだろう。
冷えた酒を喉に流すたびに、熱い思いはどんどんと溢れてくる。
……のだけど、頭までのぼせてしまって、言葉がガチャガチャになってしまうんだ。
「先輩のいたバンドが解散したとき本気で泣いたし、それから四年間、先輩はサポートでしか演奏されてませんけど、サポートなのにその曲の世界観が、マコト先輩のになっちゃうから、本当に凄くて……、ワールドオブマコト現象って、俺は呼んでるんですけど」
「ワ、ワールドオブマコト⁉」
酎ハイを傾けていた先輩がむせて笑った。
でも、先輩の凄さは、笑い事ではないのだ。
「ワールドオブマコト! 先輩の強烈な……じゃなくて最強な世界! 先輩最強です!」
「ギャハハハ! 最強イエー!」
「……! イエー!」
先輩にハイタッチしてもらえた。
その喜びのままに俺は、煙草に火を着ける。
「ンゴブゥッ!」
「ギャハハハ、もぉ、ソウタ煙草やめろって! あってないんだよ、身体に!」
煙を吸ったからか、アルコールの回った頭が、余計に回ってくる。
クラクラ、チカチカと。
「ゴホッ! すみません……、もしかしたら吸い慣れたかと思ったんですけど……」
「二本目で⁉ そんなわけないじゃん! ギャハハ」
涙で滲んだ揺れる視界。その中心で、いつの間にか、先輩は煙草をくゆらせていた。
いかにも自然に、当たり前のように、毒を吸っていた。
潤んだ世界で、煙まで纏った先輩は優美で、儚くて退廃的だった。
酒の酔いも相まって、なんだか本当に、別世界の人のよう。
「凄い。チェーンの居酒屋とは思えない世界が見える……。先輩、本当、最強」
「なんだそれ。まあいいや。安い居酒屋は最強! 最強イエー!」
差し出されたマコト先輩の白い手のひらと、再度ハイタッチを交わす。
これが、どんなに嬉しいことか、酔った頭でも伝えられるだろうか。
「俺、ずっと前から、マコト先輩のライブ通ってたんです! それに、先輩の演奏をいつも参考に練習してます。もちろん音作りも、あの深い海の揺らぎみたいな響き、俺、大好きで……、そういえば、先輩、どうして最近は演奏してくれないんですか?」
賛美の合間に、純粋な疑問が挟まってしまった。
先輩が、ジョッキから口を放す。
「え、んー、なんでかなー。……あ、最強になっちゃったから?」
なるほど。さすがだ。
先輩はきっと、新たな領域に至ってしまったんだ。
「すげー……ッ! マコト先輩、最強!」
「最強イエー!」
繰り返されるハイタッチで、マコト先輩の手のひらは赤みを帯びてきていた。
「んゥー、地味に痛ぇー。ソウタって、意外と力強いよね」
そう言って手をさすりながら、先輩は潤んだ目を細めた。
黒い瞳の上で、蓄光テープのような、ほのかな輝きが揺れている。
俺の大好きな、ずっと見てきた光。
「俺……、先輩がステージから魅せてくれた世界を、ずっと追ってるんすよね」
「えー? さっきから持ち上げすぎだろー。いつ落とされるのか、こえーわ」
「いや、本当にですよ。俺が惹かれたのは、本当に先輩だからこその、世界で……」
ステージ上の先輩は、なんというか、独りなんだ。
仲間とバンドを組んでいた頃も、ずっと独りだった。
俯いて、いつも足元に視線を落としていて、でも、確かに何かを見つめている。
伏し目がちな黒い瞳で、何か明るいものを、ずっと見つめているんだ。
そして、その光を吸収した瞳が、暗闇の中で灯る。
その灯火はアンプを通じ、空気を震わす波となって、俺達の心を呑み込んでくれる。
この世から隔絶された世界へとさらって、引き込んで、教えてくれるんだ。
同じものを見ている人がいる。
少数でも、同じ救いを求めている人がいる。
暗闇のどこかに、俺達でも生きていける世界がきっとあると、示してくれるんだ。
「俺は、先輩みたいに、自分の世界を持ちたいんです。その世界に惹き込んで、求めあえる人たちとだけ、生きていけるような世界に、俺は……、えっと」
なんて言えば、伝えられるだろう。
先輩は、俺の世界です。
あなたの世界でだけ、俺はただ静かに漂っていられるんです。
先輩のライブを聞いた夜だけは、俺、死んだみたいに自由に生きれるんです。
酒に浸った頭は、洋楽の下手な翻訳歌詞みたいな文章ばかりを羅列する。
だけど、言っても伝わらないだろうけれど、なんか、的を射ているような気もした。
さすがに、言えないけど……。
「俺も、先輩みたいな、世界を持ちたいんです」
「うわー、なんだ、お前、やめろー! ……まぶしいやつだなー!」
マコト先輩が、両手のひらで顔を覆う。
「ちょっとやめてくださいよ。茶化されると、なんか恥ずかしくなるじゃないですか」
「いや、普通に恥ずかしがれよ! わぁー、もぉー……。わぁーだよ、お前。顔あっつ」
そう言って、手のひらで顔を仰ぎながら、先輩はいたずらっぽく笑った。
「お前、俺の世界から追放!」
えぇぇぇっ! ひどい!
「えぇぇぇっ! ひどい!」
俺は衝撃のあまり、心のままに叫んでいた。
「先輩の世界の中でだけ、俺は、俺の思う俺で在れるんでぐ⁉」
心のままに嘆く俺の口を、先輩が手のひらで塞いだ。
うるさーい、声でかーい。そう笑って、酎ハイをぐいぐいと飲みながら。
「お前みたいなやついたら、俺の世界のほうが崩壊するわ」
口元に当てたジョッキの中で、先輩の声がこもって響いた。
「そんなわけないじゃないっすか! だって、先輩は、最強、でしょ!」
ハイタッチに備えて、右手を振りあげる。
だけど先輩は、ジョッキを置かなかった。
「あんまり俺のことばっか見てちゃダメだぞ。ソウタは、ソウタだぞ」
「? ……大丈夫っす!」
大丈夫。俺は瞬間的にそう確信したのだ。
「いやわかってないだろ、お前ー!」
まじめに! と先輩が顔をしかめる。俺は、大丈夫じゃなかったのかもしれない。
「人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ。だから」
「あ、なら、やっぱ大丈夫っす」
ああ、よかった。俺の確信は間違っていなかった。
「俺、先輩のこと見てます。俺、先輩のいるほうに行きたいから!」
そう言うと、やっと先輩はジョッキを手放してくれた。
「うわぁ! こいつ! うわー! まじで恥ずかしいやつゥー! このっ!」
先輩が、大きく右手を振り上げる。
俺も喜んで、振り上げたままだった手を、先輩の手と打ち鳴らした。
「最強イエー!」
「痛……。え、いった……。お前、つえーんだよ、さっきから、ソウタぁー!」
涙を滲ませながら手のひらをさする先輩に、すみません、嬉しすぎて、と謝る。
ったく、まぶしいやつだぁ。
そうつぶやいた先輩の潤んだ瞳が、その光が、いつもより一際明るく見えて、なんか、めちゃくちゃ嬉しかった。
大丈夫だと、俺はもう一度確信する。
俺が見ているのは、先輩だから。
先輩は、暗闇の中で導いてくれる、淡い光だから。
それは、安心の明かりに似ているのだから。
俺の大好きな、蓄光テープの明かりに。
積年の憧れと、まだ飲み慣れていない酒が相まって、俺の歯車は急速に空回っていた。
もうすでに、かなりの醜態を晒しているはずなのに、どうしても止まれない。
「先輩の演奏は最高です! 空気が変わるんです。一気に、先輩独自の世界に引き込まれて、その、俺、まじめに世界一だと思ってます!」
「せ、世界一? 照れるぜ」
「あと、秀逸な音作りが世界観を構築してて、あと、強弱の弱の響きがそれを広げてて、あと」
あと、あと、あとは。ああ、俺は、あと何を伝えられていないだろう。
どう言えば、胸の中の思いを伝えられるのだろう。
冷えた酒を喉に流すたびに、熱い思いはどんどんと溢れてくる。
……のだけど、頭までのぼせてしまって、言葉がガチャガチャになってしまうんだ。
「先輩のいたバンドが解散したとき本気で泣いたし、それから四年間、先輩はサポートでしか演奏されてませんけど、サポートなのにその曲の世界観が、マコト先輩のになっちゃうから、本当に凄くて……、ワールドオブマコト現象って、俺は呼んでるんですけど」
「ワ、ワールドオブマコト⁉」
酎ハイを傾けていた先輩がむせて笑った。
でも、先輩の凄さは、笑い事ではないのだ。
「ワールドオブマコト! 先輩の強烈な……じゃなくて最強な世界! 先輩最強です!」
「ギャハハハ! 最強イエー!」
「……! イエー!」
先輩にハイタッチしてもらえた。
その喜びのままに俺は、煙草に火を着ける。
「ンゴブゥッ!」
「ギャハハハ、もぉ、ソウタ煙草やめろって! あってないんだよ、身体に!」
煙を吸ったからか、アルコールの回った頭が、余計に回ってくる。
クラクラ、チカチカと。
「ゴホッ! すみません……、もしかしたら吸い慣れたかと思ったんですけど……」
「二本目で⁉ そんなわけないじゃん! ギャハハ」
涙で滲んだ揺れる視界。その中心で、いつの間にか、先輩は煙草をくゆらせていた。
いかにも自然に、当たり前のように、毒を吸っていた。
潤んだ世界で、煙まで纏った先輩は優美で、儚くて退廃的だった。
酒の酔いも相まって、なんだか本当に、別世界の人のよう。
「凄い。チェーンの居酒屋とは思えない世界が見える……。先輩、本当、最強」
「なんだそれ。まあいいや。安い居酒屋は最強! 最強イエー!」
差し出されたマコト先輩の白い手のひらと、再度ハイタッチを交わす。
これが、どんなに嬉しいことか、酔った頭でも伝えられるだろうか。
「俺、ずっと前から、マコト先輩のライブ通ってたんです! それに、先輩の演奏をいつも参考に練習してます。もちろん音作りも、あの深い海の揺らぎみたいな響き、俺、大好きで……、そういえば、先輩、どうして最近は演奏してくれないんですか?」
賛美の合間に、純粋な疑問が挟まってしまった。
先輩が、ジョッキから口を放す。
「え、んー、なんでかなー。……あ、最強になっちゃったから?」
なるほど。さすがだ。
先輩はきっと、新たな領域に至ってしまったんだ。
「すげー……ッ! マコト先輩、最強!」
「最強イエー!」
繰り返されるハイタッチで、マコト先輩の手のひらは赤みを帯びてきていた。
「んゥー、地味に痛ぇー。ソウタって、意外と力強いよね」
そう言って手をさすりながら、先輩は潤んだ目を細めた。
黒い瞳の上で、蓄光テープのような、ほのかな輝きが揺れている。
俺の大好きな、ずっと見てきた光。
「俺……、先輩がステージから魅せてくれた世界を、ずっと追ってるんすよね」
「えー? さっきから持ち上げすぎだろー。いつ落とされるのか、こえーわ」
「いや、本当にですよ。俺が惹かれたのは、本当に先輩だからこその、世界で……」
ステージ上の先輩は、なんというか、独りなんだ。
仲間とバンドを組んでいた頃も、ずっと独りだった。
俯いて、いつも足元に視線を落としていて、でも、確かに何かを見つめている。
伏し目がちな黒い瞳で、何か明るいものを、ずっと見つめているんだ。
そして、その光を吸収した瞳が、暗闇の中で灯る。
その灯火はアンプを通じ、空気を震わす波となって、俺達の心を呑み込んでくれる。
この世から隔絶された世界へとさらって、引き込んで、教えてくれるんだ。
同じものを見ている人がいる。
少数でも、同じ救いを求めている人がいる。
暗闇のどこかに、俺達でも生きていける世界がきっとあると、示してくれるんだ。
「俺は、先輩みたいに、自分の世界を持ちたいんです。その世界に惹き込んで、求めあえる人たちとだけ、生きていけるような世界に、俺は……、えっと」
なんて言えば、伝えられるだろう。
先輩は、俺の世界です。
あなたの世界でだけ、俺はただ静かに漂っていられるんです。
先輩のライブを聞いた夜だけは、俺、死んだみたいに自由に生きれるんです。
酒に浸った頭は、洋楽の下手な翻訳歌詞みたいな文章ばかりを羅列する。
だけど、言っても伝わらないだろうけれど、なんか、的を射ているような気もした。
さすがに、言えないけど……。
「俺も、先輩みたいな、世界を持ちたいんです」
「うわー、なんだ、お前、やめろー! ……まぶしいやつだなー!」
マコト先輩が、両手のひらで顔を覆う。
「ちょっとやめてくださいよ。茶化されると、なんか恥ずかしくなるじゃないですか」
「いや、普通に恥ずかしがれよ! わぁー、もぉー……。わぁーだよ、お前。顔あっつ」
そう言って、手のひらで顔を仰ぎながら、先輩はいたずらっぽく笑った。
「お前、俺の世界から追放!」
えぇぇぇっ! ひどい!
「えぇぇぇっ! ひどい!」
俺は衝撃のあまり、心のままに叫んでいた。
「先輩の世界の中でだけ、俺は、俺の思う俺で在れるんでぐ⁉」
心のままに嘆く俺の口を、先輩が手のひらで塞いだ。
うるさーい、声でかーい。そう笑って、酎ハイをぐいぐいと飲みながら。
「お前みたいなやついたら、俺の世界のほうが崩壊するわ」
口元に当てたジョッキの中で、先輩の声がこもって響いた。
「そんなわけないじゃないっすか! だって、先輩は、最強、でしょ!」
ハイタッチに備えて、右手を振りあげる。
だけど先輩は、ジョッキを置かなかった。
「あんまり俺のことばっか見てちゃダメだぞ。ソウタは、ソウタだぞ」
「? ……大丈夫っす!」
大丈夫。俺は瞬間的にそう確信したのだ。
「いやわかってないだろ、お前ー!」
まじめに! と先輩が顔をしかめる。俺は、大丈夫じゃなかったのかもしれない。
「人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ。だから」
「あ、なら、やっぱ大丈夫っす」
ああ、よかった。俺の確信は間違っていなかった。
「俺、先輩のこと見てます。俺、先輩のいるほうに行きたいから!」
そう言うと、やっと先輩はジョッキを手放してくれた。
「うわぁ! こいつ! うわー! まじで恥ずかしいやつゥー! このっ!」
先輩が、大きく右手を振り上げる。
俺も喜んで、振り上げたままだった手を、先輩の手と打ち鳴らした。
「最強イエー!」
「痛……。え、いった……。お前、つえーんだよ、さっきから、ソウタぁー!」
涙を滲ませながら手のひらをさする先輩に、すみません、嬉しすぎて、と謝る。
ったく、まぶしいやつだぁ。
そうつぶやいた先輩の潤んだ瞳が、その光が、いつもより一際明るく見えて、なんか、めちゃくちゃ嬉しかった。
大丈夫だと、俺はもう一度確信する。
俺が見ているのは、先輩だから。
先輩は、暗闇の中で導いてくれる、淡い光だから。
それは、安心の明かりに似ているのだから。
俺の大好きな、蓄光テープの明かりに。



