Wish upon a

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 積年(せきねん)の憧れと、まだ飲み慣れていない酒が(あい)まって、俺の歯車は急速に空回っていた。
 もうすでに、かなりの醜態(しゅうたい)(さら)しているはずなのに、どうしても止まれない。

「先輩の演奏は最高です! 空気が変わるんです。一気に、先輩独自(どくじ)の世界に引き込まれて、その、俺、まじめに世界一だと思ってます!」
「せ、世界一? ()れるぜ」
「あと、秀逸(しゅういつ)な音作りが世界観を構築(こうちく)してて、あと、強弱(きょうじゃく)の弱の響きがそれを広げてて、あと」

 あと、あと、あとは。ああ、俺は、あと何を伝えられていないだろう。
 どう言えば、胸の中の思いを伝えられるのだろう。
 ()えた酒を喉に流すたびに、熱い思いはどんどんと(あふ)れてくる。
 ……のだけど、頭までのぼせてしまって、言葉がガチャガチャになってしまうんだ。

「先輩のいたバンドが解散したとき本気で泣いたし、それから四年間、先輩はサポートでしか演奏されてませんけど、サポートなのにその曲の世界観が、マコト先輩のになっちゃうから、本当に凄くて……、ワールドオブマコト現象って、俺は呼んでるんですけど」
「ワ、ワールドオブマコト⁉」

 酎ハイを(かたむ)けていた先輩がむせて笑った。
 でも、先輩の凄さは、笑い事ではないのだ。

「ワールドオブマコト! 先輩の強烈(きょうれつ)な……じゃなくて最強な世界! 先輩最強です!」
「ギャハハハ! 最強イエー!」
「……! イエー!」

 先輩にハイタッチしてもらえた。
 その喜びのままに俺は、煙草に火を着ける。

「ンゴブゥッ!」
「ギャハハハ、もぉ、ソウタ煙草やめろって! あってないんだよ、身体に!」

 煙を吸ったからか、アルコールの回った頭が、余計に回ってくる。
 クラクラ、チカチカと。

「ゴホッ! すみません……、もしかしたら吸い慣れたかと思ったんですけど……」
「二本目で⁉ そんなわけないじゃん! ギャハハ」

 涙で(にじ)んだ揺れる視界。その中心で、いつの間にか、先輩は煙草をくゆらせていた。
 いかにも自然に、当たり前のように、毒を吸っていた。
 (うる)んだ世界で、煙まで(まと)った先輩は優美(ゆうび)で、(はかな)くて退廃的(たいはいてき)だった。
 酒の酔いも相まって、なんだか本当に、別世界の人のよう。

「凄い。チェーンの居酒屋(いざかや)とは思えない世界が見える……。先輩、本当、最強」
「なんだそれ。まあいいや。安い居酒屋は最強! 最強イエー!」

 差し出されたマコト先輩の白い手のひらと、再度(さいど)ハイタッチを交わす。
 これが、どんなに嬉しいことか、酔った頭でも伝えられるだろうか。

「俺、ずっと前から、マコト先輩のライブ(かよ)ってたんです! それに、先輩の演奏をいつも参考(さんこう)に練習してます。もちろん音作りも、あの深い海の()らぎみたいな響き、俺、大好きで……、そういえば、先輩、どうして最近は演奏してくれないんですか?」

 賛美(さんび)の合間に、純粋(じゅんすい)疑問(ぎもん)(はさ)まってしまった。
 先輩が、ジョッキから口を放す。

「え、んー、なんでかなー。……あ、最強になっちゃったから?」

 なるほど。さすがだ。
 先輩はきっと、新たな領域(りょういき)(いた)ってしまったんだ。

「すげー……ッ!  マコト先輩、最強!」
「最強イエー!」

 繰り返されるハイタッチで、マコト先輩の手のひらは赤みを()びてきていた。

「んゥー、地味に痛ぇー。ソウタって、意外と力強いよね」

 そう言って手をさすりながら、先輩は潤んだ目を細めた。
 黒い瞳の上で、蓄光テープのような、ほのかな輝きが揺れている。
 俺の大好きな、ずっと見てきた光。

「俺……、先輩がステージから()せてくれた世界を、ずっと()ってるんすよね」
「えー? さっきから持ち上げすぎだろー。いつ落とされるのか、こえーわ」
「いや、本当にですよ。俺が()かれたのは、本当に先輩だからこその、世界で……」

 ステージ上の先輩は、なんというか、(ひと)りなんだ。
 仲間とバンドを組んでいた頃も、ずっと独りだった。
 (うつむ)いて、いつも足元に視線を落としていて、でも、確かに何かを見つめている。
 ()し目がちな黒い瞳で、何か明るいものを、ずっと見つめているんだ。
 そして、その光を吸収した瞳が、暗闇の中で(とも)る。
 その灯火(ともしび)はアンプを通じ、空気を(ふる)わす波となって、俺達の心を()み込んでくれる。
 この世から隔絶(かくぜつ)された世界へとさらって、引き込んで、教えてくれるんだ。
 同じものを見ている人がいる。
 少数(しょうすう)でも、同じ(すく)いを求めている人がいる。
 暗闇のどこかに、俺達でも生きていける世界がきっとあると、示してくれるんだ。

「俺は、先輩みたいに、自分の世界を持ちたいんです。その世界に惹き込んで、求めあえる人たちとだけ、生きていけるような世界に、俺は……、えっと」

 なんて言えば、伝えられるだろう。
 先輩は、俺の世界です。
 あなたの世界でだけ、俺はただ静かに(ただよ)っていられるんです。
 先輩のライブを聞いた夜だけは、俺、死んだみたいに自由に生きれるんです。
 酒に(ひた)った頭は、洋楽の下手な翻訳(ほんやく)歌詞みたいな文章ばかりを羅列(られつ)する。
 だけど、言っても伝わらないだろうけれど、なんか、的を()ているような気もした。
 さすがに、言えないけど……。

「俺も、先輩みたいな、世界を持ちたいんです」
「うわー、なんだ、お前、やめろー! ……まぶしいやつだなー!」

 マコト先輩が、両手のひらで顔を(おお)う。

「ちょっとやめてくださいよ。茶化(ちゃか)されると、なんか()ずかしくなるじゃないですか」
「いや、普通に恥ずかしがれよ! わぁー、もぉー……。わぁーだよ、お前。顔あっつ」

 そう言って、手のひらで顔を(あお)ぎながら、先輩はいたずらっぽく笑った。

「お前、俺の世界から追放(ついほう)!」

 えぇぇぇっ! ひどい!

「えぇぇぇっ! ひどい!」

 俺は衝撃(しょうげき)のあまり、心のままに(さけ)んでいた。

「先輩の世界の中でだけ、俺は、俺の思う俺で()れるんでぐ⁉」

 心のままに(なげ)く俺の口を、先輩が手のひらで(ふさ)いだ。
 うるさーい、声でかーい。そう笑って、(ちゅう)ハイをぐいぐいと飲みながら。

「お前みたいなやついたら、俺の世界のほうが崩壊(ほうかい)するわ」

 口元に当てたジョッキの中で、先輩の声がこもって響いた。

「そんなわけないじゃないっすか! だって、先輩は、最強、でしょ!」

 ハイタッチに備えて、右手を振りあげる。
 だけど先輩は、ジョッキを置かなかった。

「あんまり俺のことばっか見てちゃダメだぞ。ソウタは、ソウタだぞ」
「? ……大丈夫っす!」

 大丈夫。俺は瞬間的にそう確信したのだ。

「いやわかってないだろ、お前ー!」

 まじめに! と先輩が顔をしかめる。俺は、大丈夫じゃなかったのかもしれない。

「人はさ、見てるほうへと進んじゃうもんなんだよ。だから」
「あ、なら、やっぱ大丈夫っす」

 ああ、よかった。俺の確信は間違っていなかった。

「俺、先輩のこと見てます。俺、先輩のいるほうに行きたいから!」

 そう言うと、やっと先輩はジョッキを手放してくれた。

「うわぁ! こいつ! うわー! まじで恥ずかしいやつゥー! このっ!」

 先輩が、大きく右手を振り上げる。
 俺も喜んで、振り上げたままだった手を、先輩の手と打ち鳴らした。

「最強イエー!」
「痛……。え、いった……。お前、つえーんだよ、さっきから、ソウタぁー!」

 涙を(にじ)ませながら手のひらをさする先輩に、すみません、嬉しすぎて、と(あやま)る。
 ったく、まぶしいやつだぁ。
 そうつぶやいた先輩の潤んだ瞳が、その光が、いつもより一際(ひときわ)明るく見えて、なんか、めちゃくちゃ嬉しかった。
 大丈夫だと、俺はもう一度確信する。
 俺が見ているのは、先輩だから。
 先輩は、暗闇の中で導いてくれる、淡い光だから。
 それは、安心の明かりに似ているのだから。
 俺の大好きな、蓄光テープの明かりに。