脱色したての金髪が目映く縁取る、新鮮な視界。
階段を下りるたびに強まっていく重低音が、慣れない耳のピアスをくすぐってくる。
初めて聞く曲だった。なのに、よく聞き馴染んだ音がして、息を呑む。
深い海に溶けるような心地良い響き。その奏者が誰なのか、俺は一瞬でわかった。
「これ、マコト先輩がサポート入ってる時の曲だ……。幸先良いぞ」
自身を鼓舞するように口の中でそう唱え、重い防音扉を開ける。
このライブハウスで演奏されてきた歴代の曲が流れる受付を素通りし、スタッフ証を首にかけて、俺はStaff onlyの奥へと進んでいく。
そして突き当たったガラス越しに、彼を見つけた。一人、退屈そうに目を細めている。
自然に、自然に、だぞ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は買ったばかりの煙草を握り、初めてSmoking roomへと足を踏み入れた。
「おはよごまざす。はややん、はや、早番、お疲れ様です」
噛んだ。噛みまくった。終わった。
自身の想定外の大失態に、俺は硬直してしまった。
目の前の彼も、目を丸くして、口元に手を当てたまま固まっている。
その表情は、唖然、だろうか。
駄目だ。耐えられない。出直そう。忘れられた頃に、また再チャレンジしよう。
いま強行したら、きっと俺のあだ名は、はややんになってしまうだろうし。
そう確信し、俺は今入ってきたばかりの扉に手を掛ける。
「どうぞ、続けて」
溢れてくる雑念を洗い流すような澄んだ声が、俺を引き止めた。
マコト先輩から初めて話しかけてもらったその言葉が、頭の中で反響する。
どうぞ、どうぞ、どうぞ。続けて、続けて、続けて。……続けて?
なんとなく違和感のある言い回しだった。その言葉のニュアンスを、掴みきれない。
だけど俺の身体は促されるままに先輩の隣の灰皿へと向かい、喫煙の用意をし始めた。
くしゃくしゃとフィルムをはぎ、ボックスのフタを開けて、……銀紙? を開いて
「へえ、その紙、抜かないんだ?」
黒く輝く瞳が、俺の手の中を覗き込む。
しくじってしまったのだろうか?
早く弁明しなくては、と頭を巡らしたものの、強張った俺の喉は実に情けない声で、
えっ? えっ? と鳴くばかりだった。
そんな俺を見て、先輩の暗い瞳が、ゆっくりと細く歪んでいく。
「通なんだね」
褒められた! よくわからないけど、意外にも様になっていたらしい。
安堵した俺は、いよいよ煙草を一本引き抜いて、そして……、ライターという存在を忘れていた事に、たった今気が付いた。
買ってないのだからあるはずがないライターを探して、俺はオロオロとポケットを裏返していく。
「あ、もしかして、ライター無くした感じ? なら、テーブルのかごにあるよ。いつも」
「あ、す。そ、そうでした。かごでしたね。いつも」
大丈夫だ、落ち着け!
自分自身に、今一度言い聞かせる。
俺は、すでに通だと認定されているんだから!
あとは、自然にやればいいだけだ。
一呼吸置いて、俺は、映画のマフィアが葉巻を嗜むシーンをお手本に、つまんだ煙草の先端をライターで燃やしていった。
「おー、君、吸う前に炙るんだ。湿気とか飛ばす感じ?」
「えっ? え、えー……?」
「そうなんだー。確かに良いかもね。だってその煙草ってさ、ただでさえ……」
先輩の眼が綺麗な弧を描く。その瞳に、ちらちらとライターの灯が揺れていた。
「強ーく吸いながらじゃないと、火が着きにくいもんね?」
そうなのか! 俺はすぐさま物知り顔で頷きながら煙草を咥え、強く強く火を吸った。
「そうなんですよねンゴブゥッ!」
初めての紫煙に思いっきり噎せた瞬間、マコト先輩が高らかに笑い出した。
「ギャハハハ! あぁ、もう無理! なにしてんの君?」
よく響く声で笑う先輩に、息も絶え絶えになりながら、俺は必死で言い訳をする。
「ンゥッ! ゴフッ……いや、今日、喉の調子悪いみたいで……、風邪かなぁ?」
見事なほど文字通りに、苦しい言い訳だ、と我ながら思った。
「ふーん、そっかそっかー。じゃあさっ」
マコト先輩がいきなり身を寄せてくる。それに思わずひるんでしまった俺は、煙草も、煙草の箱までも取り上げられてしまった。
「いい機会だし、一緒に禁煙しようぜ!」
「ええっ⁉ 俺まだ一本しか吸ったことないのに⁉」
しまった。
「ギャハァッ、ボロ出るのはえーな!」
笑い涙に濡れた艶々の瞳。そこに映った俺の顔は、すでに羞恥の熱で溶け崩れていた。
もう、取り繕うことは不可能だろう。
今日のためにずっと、ずっと準備してきたのに。台無しだ。
こんなにも一日をやり直したいと強く願ったのは、人生初めてだった。
「ねえ、この一本もらってもいい? 俺、ちょうど切らしちゃっててさ」
「え、いや、新しいのをっ、だってそれ」
言い終わる前に、優しい呼吸の音がした。
もったいないじゃん。
そう言って俺の煙草を吸い、柔らかに煙を吹いて、笑っている。
そんな先輩の視線が、俺の全身をゆっくりと撫でていく。その瞳に、見入ってしまう。
深い黒色なのに、キラキラした、夜空みたいな瞳の輝き……は、さすがに詩的過ぎか。
先輩の瞳の輝きは、ステージの暗転中に俺達スタッフが見る、蓄光テープの明かりに似ている。
思ってすぐ、あまりにも安っぽい例えに、申し訳なくなった。
俺が言葉を知らないだけで、本当はもっと良い例えがあるのだろうけれど、でも、俺は蓄光テープの明かりが大好きだ。
真っ暗闇の中の淡くて柔らかい光。だけど、確かに導いてくれる、安心の明かり。
そんな光が灯る目を、先輩はそっと細めた。
そして、もう一口煙草を吸うと、空気にほどけていくような声とともに、煙を吐いた。
「金髪マッシュに、左耳に黒い星の三連ピアス。黒いトップスに、煙草の銘柄も、か」
ああ、やっぱり、気付かれていた。その単語一つ一つに、心拍数が上昇していく。
そして、マコト先輩が首を傾げたと同時に、俺に審判の槌が降りかかった。
「どうして君は、四年前の俺のコスプレなんてしてんの?」
柔らかな笑みに、優しい声だった。
怪訝さなんて微塵も感じられない、穏やかさだ。
それなのにどうしてか、事前に用意してきた数々の言い訳が、口から出てこなかった。
仕方なく、俺は、誠実に本心を白状した。
「正直に申し上げますと、憧れです。大変申し訳ありませんでした」
急に素直かよ!
そう言って先輩は、ぎゃはぎゃは、と笑った。
笑いのツボにハマった小学生男子のように無邪気に、ぎゃはぎゃは、と。
「ひー、ごめん。ずっとアセアセしてたくせに、急に証券マンみたいな実直な顔してくるから、なんかウケた。あー、ただね、残念なことにー」
君のコスプレは間違いが二点あるんだなー。
そう言ってマコト先輩は、自分の煙草の空き箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
「俺の煙草は箱が濃い緑のオーガニックミント。君のは黄緑のメンソールウルトラライトなんだよね」
二つの煙草が並ぶ。淡い色合いの俺の煙草が、なんだか先輩の2Pカラーみたいで、ちょっと嬉しくなった。
「もう一点の違いはね、俺、パーカーは着ないんだよね。惜しかったねー!」
先輩の手がフードを被せてきて、わしゃわしゃと頭を撫でてきた。
俺は、呻く。
羞恥と嬉しさと、逃げ出したさを噛み殺しながら、呻くことしかできなかった。
「とりあえずさ、今日終わったら飲みいこ。えーと、ソウタ!」
喫煙所のガラスに貼られたシフト表を見て、マコト先輩は初めて俺の名前を呼んでくれた。
そのガラスに、反射した先輩と俺が映っている。
先輩と、金髪マッシュにしただけの俺が。
過去の先輩の、偽物にすらなれていない。2Pカラーなんて、おこがましい。
憧れとの間には、やっぱり、遠い遠い距離があったんだと一目でわかる。
それが本当に、心底嬉しかった。