幻の図書館

 湖の中に足を踏み入れると、冷たさよりも不思議な感覚に包まれた。水というより、やわらかな光のベールに包まれているみたい。

 「ひかりちゃん、大丈夫!? 危なくない!?」

 紗良ちゃんの声が後ろから聞こえたけど、わたしは首をふった。

 「平気だよ。……あの本、きっと今のわたしに必要なものだと思うの。」

 そう言って、ゆっくりと進む。

 湖の中なのに、まるで重力がゆるんでいるような感じで、歩くたびに身体がふわっと浮く。

 やがて、本のもとにたどり着いた。

 銀色の装丁。表紙には、タイトルも名前もなかった。
 だけど、不思議とわかった。
 これは、「わたしの物語」だって。

 そっと手を伸ばし、本を抱きしめた瞬間――。

 目の前に、まぶしい光が広がった。


 次の瞬間、わたしはひとりきり、真っ白な空間に立っていた。

 「ここは……?」

 足元は光の床、空は空っぽのキャンバスみたい。

 そしてその正面に、もうひとりの“わたし”が立っていた。

 でも、その子は、わたしより少し幼くて、どこか悲しそうな目をしていた。

 「……わたし?」

 その子は、かすかにうなずいた。

 「忘れちゃったんだね。わたしたち、大切なこと。」

 「大切なこと……?」

 その子は手を伸ばし、空中に絵を描くように指を動かした。

 すると、目の前にひとつの風景が浮かびあがった。

 古い図書館の一角。埃っぽくて、誰もいない、小さな場所。

 ――あれは、まだ小学生だったころ。

 わたしが偶然見つけた、誰にも教えてない“秘密の場所”。

 「そうだ……あのとき、わたし……。」

 あのとき、“最初の本”を開いたんだ。

 でも、それがとても怖くて、ページをめくる前に――逃げ出した。

 その記憶は、心の奥にしまいこまれていて、今まで思い出せなかった。

 「あなたは怖がりだった。でも、もう一度戻ってきたんだね。」

 もうひとりのわたしが、にっこりと笑った。

 「今なら、最後まで読めるよ。この物語の結末まで。」

 その瞬間、空間がゆっくりと溶けていく。

 光が散り、記憶のかけらが空へと浮かんでいった。

 そして、わたしは再び湖の中へ――。


 目を開けると、みんなが心配そうに見つめていた。

 「ひかりちゃん! 大丈夫!? めちゃくちゃ時間かかってたよ!」

 紗良ちゃんが、涙目でわたしに抱きついてきた。

 「……うん。ごめん、でもね。思い出したの。わたし、前にもあの図書館に来たことがある。たぶん、最初の……記憶。」

 蒼くんと岳先輩が、顔を見合わせる。

 「じゃあ、“ひかりが選ばれた理由”、少しずつ見えてきたかもな。」

 「あの図書館はただの本棚じゃない。“記憶の扉”なんだよ。」

 わたしは、さっき手にした本を開く。

 ページの中には、誰かの手書きの文字があった。

 ――《鏡に映る自分を信じること。真実はいつも、心の奥にある》

 この物語の結末は、まだ先にある。

 でも今なら、どんな謎が来てもきっと向き合える気がした。

「さあ、次の本へ行こう。今度は、みんなと一緒に。」