幻の図書館

 気がつけば、私たちは湖のほとりに立っていた。

 鏡の部屋が消え、かわりに広がっていたのは、まるでガラスのように静かな水面。深く澄んだ湖が、夕暮れの空を映していた。

 「ここ……ほんとに本の中?」

 紗良ちゃんが、湖に近づいてしゃがみこむ。水面に手を伸ばしかけて、ぴたっと止まった。

 「うわ、冷たそう……でも、きれい。鏡みたい。」

 わたしは、そっと水面をのぞき込んだ。そこに映っていたのは、わたしの顔。でも――すこしだけ、何かが違う気がした。

 「ひかり、見て。」

 蒼くんが、湖の中央を指さした。

 水面に、文字のようなものが浮かんでいた。いや、正確には“沈んでいる”といった方がいい。まるで透明なガラスの下に、誰かの名前が閉じ込められているみたいだった。

 「……これ、名前?」

 岳先輩が、ポケットからノートを取り出して、ページをめくりながら言った。

 「さっき見たこの章のタイトル、“記憶の湖と沈んだ名前”だったよね。きっとこの湖には、“誰かの記憶”が沈んでる。……いや、“消された名前”かもしれない。」

 わたしは思わず、息をのんだ。

 消された名前。
 それはもしかして、この世界で消えてしまった人?
 それとも――本の中の“存在しなかったことにされた誰か”?

 「この名前、読めないな……かすれてる。」

 蒼くんが湖に近づき、目をこらす。

 でも、わたしにはわかった。

 “ナナセ・〇〇〇〇”――。

 苗字のところは、はっきりと“ナナセ”と読めた。だけど、そのあとがにじんで消えている。

 まるで、“誰かがわたしの記憶を隠した”みたいに。

 「これって……もしかして、ひかりちゃんの?」

 紗良ちゃんが、すごく不安そうにこっちを見た。

 わたしは、心の奥がぞくりと冷たくなるのを感じた。

 なぜ、わたしの名前が“湖に沈んでいる”の?
 わたしは、ここにいるのに?

 「この世界……ただの本の世界じゃないのかも。」

 岳先輩が、ぽつりとつぶやく。

 「“あの図書館”の本は、物語の中に入れるだけじゃない。その人にしか見えない記憶や、向き合うべき過去を、映しているのかもしれない。……まるで、夢と現実のあいだにある“記憶の迷路”みたいに。」

 「じゃあ、わたしは今、“自分自身の記憶”の中を歩いてるってこと?」

 そのとき、湖の水面が、ふわりと揺れた。

 静かな水に、ひとすじの光がさしこみ――また、本が舞い降りてきた。

 今度は、湖の中心に。

 「本だ……でも、あんな場所じゃ、手が届かないよ!」

 紗良ちゃんが叫ぶ。

 わたしは、しばらく迷った。でも――一歩、湖へと足を踏み出した。

 水は、想像していたほど冷たくなかった。

 ただ、深く、静かで、そして――懐かしい香りがした。