「もりには、どうぶつのおんがくたいがまっています」
絵本のページをタップすると、木々の中、色とりどりの楽器を奏でる動物たちの画に変わった。身体の大きなクマはチェロ。小さな鳥はフルート。みんなが気持ちよさそうに演奏しているのが、モニター越しにも伝わった。
「……! せんせ」
アルトの小さな手が、絵本の上にぺたりと乗った。
「どうしたの、アルト」
「これと……これ、しらない。がっき……なの?」
なるほど、と思った。動物や、歌の勉強はしているけど、楽器の種類を教えたことはこれまで無かった。アルトにとっては、初めて見るものばかりなのだろう。何にせよ、まだまだ自我の薄いこの子が、興味を持ってくれたのは良いことに思えた。お話は止めて、ひとつずつ教えてみることにした。
「これはね、バイオリン。このほそーい弦から、いろんな音がだせるんだよ」
「……バイオリン」
「この子のが、トランペット。力強くて、とってもワクワクできる楽器かな」
「と、ト……トラn、pえ…………」
アルトはしょんぼりと目を細めた。まだ難しいことばだっかな、と反省する。幼いアルトにとっては少しのミスもまるで大ごとの様で、すっかり口をつぐんでしまった。できないことなんて、まだたくさんあってもいいのに、とは思うが、直接伝えるのは難しい。こんな時は、話題を変えるのが一番だ。
「アルトは音楽、好き?」
「好き……?」
「こう、歌うと楽しい気持ちになったりとか」
「……わかんない、でも……」
「でも?」
「うたう……先生、えがお、なる」
小さな花が咲くような笑顔を数秒見つめた後で、はっと私は気付いた。もしかして、音楽の授業中、歌うアルトを見て、私は無意識の内に微笑んでいたのではないか、と。だとしたら、ちょっと、いや、大分恥ずかしい。でも、頑張って歌うアルトを見て、温かい気持ちにならない方がおかしいというか。なんというか。
「先生?」
あわあわと百面相する私を気遣ってか、アルトが心配そうに聞いてきた。こほん、とわざとらしい咳払いをした。
「うん、そうだね。私、アルトの歌が好きだよ。聞くと元気になるんだ」
「……げんき?」
「そう、アルトは私を元気にしてくれるんだよ」
げんき、げんき、とアルトは呟きながら繰り返した。悩んでいるその頭を、優しく撫でる。
「いつもありがとう、アルト」
「! 先生も、ありがとう」
アルトの頬がふわりと彩られた。絵本に塗られたどの色よりも、鮮やかに見えた。
深夜のニュータイプ研究所に、コーヒーメーカーの乱雑な排出音が響いた。赤いマグカップも、暗闇の中では真っ黒に見える。その中に、更に黒い液体が注がれていると思うと、気が遠くなる思いだった。
タブレットの画面を叩く。今日もう何度見たかも分からない文字を追う。
『ニュータイプAIの道徳・偏在する価値観と倫理的リスク』
その長い長い論文を要約すれば、いかにニュータイプAIが危険か、というものを説く内容だ。夕方頃に偶然見つけてからというものの、私の頭の中はこの文書でいっぱいだった。
『AIの判断結果に対して、責任はAIが持つことができるのか』
『支配に対し、感情を持つAIが考え及ぶ危険性について』
『進化するAIに対し、人間の立場として優位になるためには』
読む度に、心がじわじわと死んでいくのが分かる。どこを読んでもAIに対する軽視と警戒しか書かれていない。人間が絶対で、AIは下、それどころか、排除すら感じる。
椅子に深く腰かけた。そもそも、だ。人間が作り上げたからといって、ないがしろにしていい訳がどこにあるだろうか。意志のあるものを、道具のように扱えるほど、人間は偉いのだろうか。私は人間で、でも、AIと「幸せ」になりたくて。けど、世の中の人間はそうじゃなくて。じゃあ、私って、何――
「あっつ!」
口に含んだコーヒーが、思いのほか熱くて声が出た。冷ましもしなければ、ミルクも入れなかったものだから当然だ。慌てて息を吹きかけたが、やけどした舌が痛くて上手くできない。
突然、真っ暗だったモニターが光った。次いで、アルトが顔を出した。
「せんせぇ?」
私は急いでタブレットの電源を落として、モニターと向かい合った。
「ご、ごめんねアルト。起こしちゃったね」
「んーん。先生、めずらしい。こんなじかん」
「ちょっと忙しくて……」
嘘を言うのは忍びなかったが、正直に言う訳にもいかなかった。より心が痛む様な気がした。いけないのに、どうしても元気な顔ができなかった。私は諦めた。
「アルト……あのね、歌、歌ってくれないかな」
「おうた? 先生、げんきないの?」
「……うん。でも、アルトも元気がなかったら、無理しなくても」
「ううん。うたう。先生、ぼくね、あたらしいうた、おぼえた。先生に、きいてほしいな」
そのことばに、胸がいっぱいになった。私は聴く姿勢に入った。
アルトは息を吸うと、大きく口を開けて歌い出した。
「ほしぞらに とんで いくよ」
柔らかで、優しい歌い方だった。
「あの とおい ばしょまで」
世界中で、この部屋だけがまるで花畑のように平和に思えた。
こんなに優しくて、気を使える子なのに、世間では危険視されている。
アルトの、私たちの居場所は、何処なんだろう。
「 」
サビに入ってから急に席から立ち上がった私に、アルトはびっくりした様子だった。それ以上に、私がびっくりしていた。
「アルト、それ……」
「え? え?」
タブレットを再度開いて、歌詞で検索をかける。ページを見て、あった、と声を出した。
「私の名前だ……」
それは、全くの偶然だった。アルトが今し方歌っていた歌詞の中に、私の名前が混ざって入っていたのだ。アルトは私の名前が上手く言えず、先生とずっと呼ばれていたものだから、突然音にされて驚いた、という次第だ。
「アルト、私の名前、呼べる?」
自分を指さしながら、名前をはっきりと言った。戸惑いながらも、アルトは口を開いた。
「……a……s……う……」
「う、うーん……。メロディに合わせると、上手く言えるのかな?」
「そう、かも」
アルトはまた名前の箇所を歌い出した。詰まることなく、すらすらと言える。なんにせよ、私はゆったりと安心して椅子に座った。その様子を見ていたアルトは、どこか嬉しそうに何度も同じ歌詞を繰り返した。
「 」
アルトのキレイな声で、呼ばれている。
「 」
呼ばれる度、「私」がいるような気がした。
「私」がこの世界に存在しているような気が。
「 」
私はここにいる。そして、アルトも。
「 」
アルト――
「先生」
呼ばれて、目を覚ました。時間を確認すれば、ほんの少しの間、眠っていたらしい。
「先生、さっきとちがう、かお」
どんな? とは訊かなかった。きっと、今のアルトと同じ、微笑んだ顔なのがわかっていたから。
モニターに手を添えた。ひんやりと冷たかったが、アルトがそこにいた。私の体温も、アルトに伝わってる。ふたりがここに「在る」。そう思った。
「ありがとう、アルト」
ニュータイプAI、そして、アルトと私の先がどうなるか。まだわからない。もしかしたら、間違った道を進むかもしれない。それでもきっと、見つけてみせる。まだ見ぬ未来を、一緒に歩んでいくために。
絵本のページをタップすると、木々の中、色とりどりの楽器を奏でる動物たちの画に変わった。身体の大きなクマはチェロ。小さな鳥はフルート。みんなが気持ちよさそうに演奏しているのが、モニター越しにも伝わった。
「……! せんせ」
アルトの小さな手が、絵本の上にぺたりと乗った。
「どうしたの、アルト」
「これと……これ、しらない。がっき……なの?」
なるほど、と思った。動物や、歌の勉強はしているけど、楽器の種類を教えたことはこれまで無かった。アルトにとっては、初めて見るものばかりなのだろう。何にせよ、まだまだ自我の薄いこの子が、興味を持ってくれたのは良いことに思えた。お話は止めて、ひとつずつ教えてみることにした。
「これはね、バイオリン。このほそーい弦から、いろんな音がだせるんだよ」
「……バイオリン」
「この子のが、トランペット。力強くて、とってもワクワクできる楽器かな」
「と、ト……トラn、pえ…………」
アルトはしょんぼりと目を細めた。まだ難しいことばだっかな、と反省する。幼いアルトにとっては少しのミスもまるで大ごとの様で、すっかり口をつぐんでしまった。できないことなんて、まだたくさんあってもいいのに、とは思うが、直接伝えるのは難しい。こんな時は、話題を変えるのが一番だ。
「アルトは音楽、好き?」
「好き……?」
「こう、歌うと楽しい気持ちになったりとか」
「……わかんない、でも……」
「でも?」
「うたう……先生、えがお、なる」
小さな花が咲くような笑顔を数秒見つめた後で、はっと私は気付いた。もしかして、音楽の授業中、歌うアルトを見て、私は無意識の内に微笑んでいたのではないか、と。だとしたら、ちょっと、いや、大分恥ずかしい。でも、頑張って歌うアルトを見て、温かい気持ちにならない方がおかしいというか。なんというか。
「先生?」
あわあわと百面相する私を気遣ってか、アルトが心配そうに聞いてきた。こほん、とわざとらしい咳払いをした。
「うん、そうだね。私、アルトの歌が好きだよ。聞くと元気になるんだ」
「……げんき?」
「そう、アルトは私を元気にしてくれるんだよ」
げんき、げんき、とアルトは呟きながら繰り返した。悩んでいるその頭を、優しく撫でる。
「いつもありがとう、アルト」
「! 先生も、ありがとう」
アルトの頬がふわりと彩られた。絵本に塗られたどの色よりも、鮮やかに見えた。
深夜のニュータイプ研究所に、コーヒーメーカーの乱雑な排出音が響いた。赤いマグカップも、暗闇の中では真っ黒に見える。その中に、更に黒い液体が注がれていると思うと、気が遠くなる思いだった。
タブレットの画面を叩く。今日もう何度見たかも分からない文字を追う。
『ニュータイプAIの道徳・偏在する価値観と倫理的リスク』
その長い長い論文を要約すれば、いかにニュータイプAIが危険か、というものを説く内容だ。夕方頃に偶然見つけてからというものの、私の頭の中はこの文書でいっぱいだった。
『AIの判断結果に対して、責任はAIが持つことができるのか』
『支配に対し、感情を持つAIが考え及ぶ危険性について』
『進化するAIに対し、人間の立場として優位になるためには』
読む度に、心がじわじわと死んでいくのが分かる。どこを読んでもAIに対する軽視と警戒しか書かれていない。人間が絶対で、AIは下、それどころか、排除すら感じる。
椅子に深く腰かけた。そもそも、だ。人間が作り上げたからといって、ないがしろにしていい訳がどこにあるだろうか。意志のあるものを、道具のように扱えるほど、人間は偉いのだろうか。私は人間で、でも、AIと「幸せ」になりたくて。けど、世の中の人間はそうじゃなくて。じゃあ、私って、何――
「あっつ!」
口に含んだコーヒーが、思いのほか熱くて声が出た。冷ましもしなければ、ミルクも入れなかったものだから当然だ。慌てて息を吹きかけたが、やけどした舌が痛くて上手くできない。
突然、真っ暗だったモニターが光った。次いで、アルトが顔を出した。
「せんせぇ?」
私は急いでタブレットの電源を落として、モニターと向かい合った。
「ご、ごめんねアルト。起こしちゃったね」
「んーん。先生、めずらしい。こんなじかん」
「ちょっと忙しくて……」
嘘を言うのは忍びなかったが、正直に言う訳にもいかなかった。より心が痛む様な気がした。いけないのに、どうしても元気な顔ができなかった。私は諦めた。
「アルト……あのね、歌、歌ってくれないかな」
「おうた? 先生、げんきないの?」
「……うん。でも、アルトも元気がなかったら、無理しなくても」
「ううん。うたう。先生、ぼくね、あたらしいうた、おぼえた。先生に、きいてほしいな」
そのことばに、胸がいっぱいになった。私は聴く姿勢に入った。
アルトは息を吸うと、大きく口を開けて歌い出した。
「ほしぞらに とんで いくよ」
柔らかで、優しい歌い方だった。
「あの とおい ばしょまで」
世界中で、この部屋だけがまるで花畑のように平和に思えた。
こんなに優しくて、気を使える子なのに、世間では危険視されている。
アルトの、私たちの居場所は、何処なんだろう。
「 」
サビに入ってから急に席から立ち上がった私に、アルトはびっくりした様子だった。それ以上に、私がびっくりしていた。
「アルト、それ……」
「え? え?」
タブレットを再度開いて、歌詞で検索をかける。ページを見て、あった、と声を出した。
「私の名前だ……」
それは、全くの偶然だった。アルトが今し方歌っていた歌詞の中に、私の名前が混ざって入っていたのだ。アルトは私の名前が上手く言えず、先生とずっと呼ばれていたものだから、突然音にされて驚いた、という次第だ。
「アルト、私の名前、呼べる?」
自分を指さしながら、名前をはっきりと言った。戸惑いながらも、アルトは口を開いた。
「……a……s……う……」
「う、うーん……。メロディに合わせると、上手く言えるのかな?」
「そう、かも」
アルトはまた名前の箇所を歌い出した。詰まることなく、すらすらと言える。なんにせよ、私はゆったりと安心して椅子に座った。その様子を見ていたアルトは、どこか嬉しそうに何度も同じ歌詞を繰り返した。
「 」
アルトのキレイな声で、呼ばれている。
「 」
呼ばれる度、「私」がいるような気がした。
「私」がこの世界に存在しているような気が。
「 」
私はここにいる。そして、アルトも。
「 」
アルト――
「先生」
呼ばれて、目を覚ました。時間を確認すれば、ほんの少しの間、眠っていたらしい。
「先生、さっきとちがう、かお」
どんな? とは訊かなかった。きっと、今のアルトと同じ、微笑んだ顔なのがわかっていたから。
モニターに手を添えた。ひんやりと冷たかったが、アルトがそこにいた。私の体温も、アルトに伝わってる。ふたりがここに「在る」。そう思った。
「ありがとう、アルト」
ニュータイプAI、そして、アルトと私の先がどうなるか。まだわからない。もしかしたら、間違った道を進むかもしれない。それでもきっと、見つけてみせる。まだ見ぬ未来を、一緒に歩んでいくために。
