ルシエルは、まだ14歳だった。
小さな羽と、まだ不安定な魔力。
神殿付きの天使として育てられたが、戦うことはできず、説法も苦手。
彼は「優しすぎる」と言われて、いつも補佐に回されていた。

その日も、ルシエルは地上の村の祈祷堂に単独で送られていた。
天界の“修練の一環”として、静かな場所で信仰の声を集めることが目的だった。

夜――祈祷堂の裏口から、ひとりの少女が忍び込んできた。
痩せた体に、ボロ布のような服。
足音を殺すのに慣れた、泥だらけの盗人。
「……金目のもの、金目のもの……あった、パン!」
だが彼女が振り返ったとき――
そこに、青白い光に包まれた少年が立っていた。
「……え……」
「……やめて」
「は?」
「そのパン、明日の子どもたちの分だから。……お願い、盗らないで」
盗人の少女――ミナは、目を丸くした。
脅しも怒りもせず、ただ哀しそうな目で見つめてくる少年に、逆に戸惑った。
「お前……何者?」
「天使……らしい、けど。ちょっと、練習中」
「は? 天使……?」
ミナは吹き出し、笑い出した。
「天使がこんなとこで見張り? バカみたい。なにそれ、神の罰ゲーム?」
「……罰かも、しれないね」
ミナは戸口に立ち、振り返らずに言った。
「じゃあ、明日また来る。あんた、明日も“優しい顔”してるなら、そのときは……もうちょっとマシな盗み話、してあげる」
それが、ふたりの出会いだった。

ミナは次の日も来た。
そしてその次の日も。
最初は残飯目当てだった。
次は布切れ。
次は、なんでもない祈りの像の前で――ただ座っていた。
「ここ、なんか落ち着く。変だね」
「変じゃないよ。……僕もそう、思ってる」
ミナは笑った。
「ほんっと、優しすぎ。あんた、盗人に向かって“落ち着く”とか言ってんだよ?」
「だって……ミナは、誰にも脅してないし。殴ってもいないし」
「……当たり前でしょ」
「当たり前が、できない人がいっぱいいる。……君は違う」
ミナは、それきり口を閉じた。

ふたりはよく話すようになった。
ミナは木に登って星を見せてくれた。
ルシエルは羽でそっと風を送って笑わせた。
「お前、さ。いつ天界に帰るの?」
「……16歳になったら。正式に“祝福”を受けて、もう地上には来られない」
「ふーん。じゃあ、あと二年か」
「……うん」
その夜、ミナはぽつりと言った。
「じゃあさ、その日が来る前に、“お別れ”するって決めとこっか」
「……やだよ」
「なんで?」
「……ミナがいなくなるなんて、考えたくないから」
「ふーん」
ミナはそのとき、なにも言わずに笑って、
そっとルシエルの髪に手を伸ばした。
その手は、どこか震えていた。

15歳が終わろうとしていた。
ルシエルの“祝福”は目前だった。
神殿から通達が来ていた。

「天使ルシエルは16歳を迎えるにあたり、“愛”の感情を完全に消去する処置を受けなければならない」
「対象が人間であった場合、速やかに接触を絶ち、心より記憶を削除せよ」
ルシエルは震えた。
ミナを忘れることが、神の意志だった。
だが、ミナはそんなこと知らなかった。
その日も、いつものようにパンを頬張っていた。
「ルシエル、あんたってさ。怒ることあるの?」
「……あるよ。心の中では」
「なら、その怒り……ちょっと貸してくんない?」
「どうして?」
「人に腹立てるほど、ちゃんと生きたことないんだよね、あたし。……だから、ちょっと羨ましい」
「……ミナ」
ルシエルは、彼女の手を握った。
「僕……、明日が誕生日なんだ。16になる」
ミナは、パンを食べる手を止めた。
「そっか。……“祝福”か」
「……うん。ミナと……会えなくなる」
「……そうだね」
ミナは、少し笑って言った。
「じゃあさ。前祝いしよ。祝福の前夜祭、ってことで」
ルシエルはうなずいた。
ふたりは、夜の村を歩いた。
ミナが盗んだ風鈴を橋に吊るして笑った。
ルシエルが光をこぼして、星座を描いた。
その最後、ミナは一言、こう言った。

「ルシエル。……もし、神に祈って一つだけ願いが叶うなら、何を願う?」
ルシエルは迷わず答えた。
「……君と、もう一日、一緒にいたい」

ミナは、泣かなかった。
けれど、その笑顔は、どこまでも悲しかった。

祝福の始まる前
ミナは来なかった。

祈祷堂にも、橋にも、どこにもいなかった。

ルシエルは焦った。泣きそうになりながら、村を走った。
誰も、彼女の行方を知らなかった。

崖の下で、十字架が見つかった。
赤く染まった布と、ミナの銀の指輪が置かれていた。

手紙もあった。

「ルシエルへ

あたし、あんたの罪になりたくなかった。
あたしなんかのせいで、あんたが“懺悔”を受けるなんて、嫌だった。
あんたはいい性格してんだからさ、
あんたが優しいままでいられるように、
あたしは、いなくなることを選んだよ!

神様なんか知らない。祈りも知らない。
だって盗人だし?今更気にしてたら地獄行きだよ、
でも、あんただけは――信じてた。

あたしが誰にも必要とされなかった世界で、
たったひとり、あたしを“名前”で呼んでくれた人。
ありがとう。多分あたし、あんたのこと好きだった!
また、どっかで会えるかな?
きっと、あんたならあたしを見つけてくれるよね。
待ってるからね!

ミナより」

ルシエルは、初めて世界を憎んだ。
初めて、神を疑った。
そして、初めて――心から、泣いた。

【エピローグ】

“祝福”の儀の日。
ルシエルは誰よりも清らかな光を背負っていた。
だがその目は、もう以前のような純粋さではなかった。

誰よりも優しい天使は、
誰よりも深い悲しみを胸に秘めていた。

天使が16になるとき、愛は罪になる。
だから彼女は、それより前に、愛を終わらせた。

それでも、彼女の名は――今も、ルシエルの心の奥に、焼き付いている。