「わかりました。その計画…お受けします」

…500万円の札束に目がくらんだ。

借金を返すことができれば、今のボロアパートを引き払って、もう少し治安のいい場所に引っ越せる…!

お隣の夫婦喧嘩の物音で目を覚ますとか…そろそろ限界が来ていたのは事実だ。

それに…伸びっぱなしの髪とも、ヒールが傷ついたパンプスとも…おさらばできる!

私の返事に満足そうに笑った裕也専務は、1枚の書類を渡してきた。


「契約書です」

目を通してみると、期間は今日から約半年。

裕也専務に紹介されるはずだったどこかの令嬢が、これまたどこかのご子息と結婚の話がまとまるまでの間…と書いてある。


「けっこうザックリですね…」

感じたまま言ってみると、裕也専務は気を悪くした様子もなく答えた。


「まぁ。私と政略結婚させようとした令嬢が、どこの誰だかわからないので」

「そうなんですか?」

「別に知る必要もないでしょう。だいたいどの辺の人かは把握してますから、そこら辺が結婚したら、計画は完了ということです」

ザックリ…そしてアッサリ。

よほど結婚したくないのだろうか。
確か…裕也専務は29歳。

いわゆる適齢期だし恋人もいないって話だし、この先背負う会社があるのなら、支えてくれる妻って必要なんじゃないのかな。

…それとも、好きな人でもいるのかな。


「早速、今週末にでも両親に挨拶に行きましょう」

「はい。…ええっと、それがすんだら…」

「ほぼ任務は完了です。あとは契約期間の半年の間に、2~3度近況報告をするくらいだと思います」

…楽勝!…と、内心ガッツポーズ。


「あとは、契約書に書いてあることを守って下さい。…まぁ、心配はないと思いますけど?」

言われて契約書を最後まで目を通す。

「恋愛感情は持たない、契約期間中恋人は作らない、異性と2人きりで会わない…」

またまた楽勝…と思ったところで、1人思い浮かんだ。


「幼なじみの聖、藍沢聖は…異性ではなく家族ということでカウントさせてください」

私の言葉に、ちょっと考えたものの「…わかりました」と、了解してくれた裕也専務。


「会社関係者に君を婚約者だと紹介することはありません。そこは、安心してください」

計画を遂行した後も、私が会社に居づらくなることのないように、という配慮だろう。


「それは助かります…ありがとうございます」

頭を下げようとしたら、勢い余ってテーブルに額をぶつけてしまった。
…ヤバい。
うっかり酔ってしまったかも。

「すいません…ちょっとお手洗いへ…」

個室を出ようと立ち上がると…右へヨロヨロ左へヨロヨロ、自然に足が持っていかれる…

「…千鳥足の典型ですね」

「す、すいません…」

高い食事と高いお酒にがっついて、酔ってしまった私をバカな小娘だと思っているかもしれない…
専務の視線を後ろに感じながら、私はやっと個室を出た。


借金返済の目処が立った安心感に酔いしれながら用を済ませ、少し酔いを落ち着けて、個室の襖を開けると…


「あら…お戻りになられて…」

迎えてくれたこの店の女将さんが、裕也専務のすぐ横に座ってお酌をしていた。

その雰囲気は…いかにも、入ってきた私が邪魔者って感じなんだけど?

おずおずと、正面の席に座ったが、目の前の2人は離れない。
離れるどころか、うふふ…と笑って、女将は裕也専務の肩に頬をくっつけて寄り添った。

私はなにを見せられてるんだろう…と思いながら、ふと疑問に思ったことを言ってみる。

 
「あの…もう始まってますよね?」

悠然と注がれた日本酒を飲むだけの専務に言った。


「…何がですか?」

「さっき、交わした約束です。裕也専務には適用されないんですか?」

裕也専務が用意した契約書。
そこには『異性と2人きりで会わない』と書いてあったはず。

お手洗いに行ったわずかな時間だけど、異性と2人きりには違いない。


「すべてうまくいくために、お互いに適用されるルールの方が、いいんじゃありませんか?」

「…あなたが従うべきものだと思ってましたが?」

「…はぁ」

まぁ、確かにそうだ。
私は報酬を受け取った側で、裕也専務は支払った側。雇い主と雇用者という関係は同じということ。

酔った勢いで言ったことを反省しつつ、私への話は終わったとして、帰ることにする。


「…そうですね。失礼いたしました。今日は…ごちそうさまでした」

正座して頭を下げ、私はちょっとふらつきつつ、部屋を出た。


広い店内を迷いながら出入り口にたどり着き、店を出た目の前に、黒塗りの車が停まっていることに気がつく。

私の姿を見つけて、運転手の方がサッとドアを開けてくれた。


「いえ、私は帰りは電車で…」

「…乗りなさい。夜道を女性1人で歩かせる趣味はありません」

いつの間にか…裕也専務が真後ろに立っていた。


「しかもふらふらしてます…!」

頭に大きな手を乗せられて、反射的に屈んだ状態になる。裕也専務によって、そのまま車に乗せられてしまった。


「…女将さんは、いいんですか?」

「それ、妬きもちですか?」

質問に質問で返してくるとか…やめてほしい。


「そうじゃありません。親しそうだったので」

「女将より、君に嫌われるほうが怖いですよ」

「…え」

今のは、契約破棄を言い渡されたら困るという意味だ。
…そうだよね。


広い後部座席で、見せつけるように長い足を組む専務。

私はふと視線を落として、マニキュアもしていない、荒れた自分の手を見つめた。

そのまま横に視線を移すと、焦げ茶色のスラックスをはいた専務の足が見えた。

高級そうな生地のスーツ。
ベストも着ていて、スリーピースっていうのかな…こんなに似合う人もめずらしいかも。

きっとオーダーメイドなんだろうな。

視線を戻してみると、入社以来着ている安物の黒いスーツを着た自分の膝が見えた。

…身分違いもいいところだ。
私はお金欲しさに専務の誘いを受けたというのに、裕也専務は朝とは違うスーツを身に着けるという余裕ぶり。

「明日、服を買いに行きましょうか」

私の考えていたことがわかったみたいに、裕也専務が私を見た。


その目は、こんな安物のスーツを着て挨拶に行かれたら困る、と訴えているようには…

見えなかった。


「1回やってみたかったんです。…『◯リティウーマン』みたいなこと」

意外に笑顔が優しくて、初めて私の心臓が、ピョン…と跳ねた気がした。