あの日のことを思い出すと、今でもドキドキ心臓が跳ね上がり、指先が冷たくなる。

…それは、都内有数の歓楽街にある、クラブ「LUNA RUNE」でのこと。

私には、会社員としての顔の他に、ホステスとして働くもうひとつの顔を持っていた。

いわゆる、副業というやつ。

2年前に両親を突然亡くし、多額の借金を背負うことになって、会社からの収入だけでは返済できないと思い、始めたことだった。




「マナちゃん、奥のテーブルについてくれる?」

「はい!わかりました!」

ママに言われて、慌ててフロアに出てゆく。

ちなみにマナ…というのは源氏名で、私の本名は片瀬舞楽という。


「いらっしゃいませ。西園寺さま」


ソファにゆったり腰かけた20代後半の男性客に挨拶をする。

私を見上げたその人…
一瞬で、誰だかわかった。

ストレートの黒髪をざっくり後ろに流し、私でもわかるほど高級そうな黒いスーツを着ている。
スッと通った鼻筋に、やや険しい切れ長の瞳の男性は…


「SAIリゾート株式会社」
専務取締役 西園寺裕也。

…私が勤める会社の役員だ。


社内で専務を知らない人はいないと思う。
すらりと背が高く、端正な顔立ち。
スマートで隙がなさそうなのに、にじみ出る男の色気がたまらないと、皆が噂している次期後継者だ。


「…座ったら?」

まさか裕也専務に会うとは思わなくて、つい固まってしまった。


「失礼します…」

目の前のスツールに座りながら…

もしかしたら裕也専務は、私が自社の社員なんて…わからないかもしれない、と思った。


私など、大勢いる社員のうちの1人だし、目立たなくて影が薄いことには絶対の自信がある。

そう結論付けて、開き直った笑顔を張り付け、名刺を取り出した。


「初めまして。『クラブLUNA RUNE』の、マナと申します。よろしくおねが…」
「副業…認めてましたっけ?うちの会社」

全部言い終わらないうちにバッサリ斬られた…。

「それに、マナ…?」

中途半端に差し出したピンク色の名刺を、専務は指先で挟んで取り上げ、面白くなさそうに名前を弾く。

源氏名です、と言いながら、ピンク色の名刺は何かとまずいだろう…と、関係ないことも考えていた。

「副業…認めてましたっけ?うちの会社…」

あらぬことを考えていたのがバレたみたいに、専務はわざと同じ言葉を繰り返し、形の綺麗な唇をニヤリと曲げた。


「認められて…いません」

私の返事に、裕也専務は呆れたようにフフ…っと笑う。
そんな笑いは、こちらの緊張をおおいに煽った。


「…秘書課の片瀬舞楽。入社2年の24歳。いまだ、役員の秘書としての経験がないばかりか、サポートにすらついていない…」

「…おっしゃる、通りです」

秘書課での私の仕事は、ひたすらお茶くみと掃除、コピー。
最近やっと会議資料をまとめる仕事をホチキスで止める、という仕事を追加してもらった…。

そんな秘書課の落ちこぼれで存在感のない私を、専務はこの店で、いつから認識していたのだろう。

ここでホステスとして働き始めて3ヵ月…。
その間、私が気づかないうちにここへ来て、社員である私を発見した…?

だとしても、今ここで副業を咎める意図がわからない…
どうして専務自らやって来て、私の素性を明かすような話をするんだろう。

私なんて一介の社員でしかないし、仮に私を見かけたとしても、人事部へ伝えて、あとは処理を任せればいいのに。


「何を不思議そうに首をかしげているんです?…酒は?」

「…はっ!すいません!」

忘れてた…

目の前に用意された氷が溶けはじめて、慌てて黒服に交換してもらおうとキョロキョロする。

「そのままでいいです」

諦めたような冷たい声。
思わず目の前の裕也専務をチラリと見上げた。

「申し訳ありません…それでは…」

氷を1個、2個と、グラスに移し、ブランデーを注ぐ。
いまだに適量がわからなくて、少しずつ入れるつもりが…ついドボドボと入ってしまった…!

「…ずいぶん、俺を酔わせたいみたいですね」

「いえ…あの、申し訳ありません…」

もうボロボロだ…。
ママを呼ばれて不手際を訴えられたら、クビになるかもしれない。
副業もバレちゃったし…。

「…知ってるのは私だけですよ」

「え…?」

「酒もろくに作れないことも、実は認められていない副業をしてることも」

まっすぐ私を見つめる冷たい視線を、私はとっさに、跳ね返すように見つめ返した。

「ひ、秘密にしてください、なんて…虫のいいことを言うつもりはありません。きちんと罰を受けますので、しかるべきところへ伝えていただいて大丈夫です」

言った瞬間。
ヤバ…っと思った。

黙っててくださいと頼んだらいいのに…どうも私はバカ正直だ。

「なかなか骨があるようですね。見た目ヘナヘナした女の子なのに」

「ヘナヘナって、私のことでしょうか?」

…いつの間にか、ドボドボ注がれたブランデーをロックで飲んでいる裕也専務。

「そうですよ。他にいます?」

失敗したのに…褒められてるのか、からかわれているのか…。

そう思いながらも、お客様で上司の裕也専務に、反撃なんかできるわけない…


「実は、お恥ずかしい話なのですが、私には借金がありまして…」

取りあえず話を戻そうと、副業に至った経緯を説明しようとした。


「ご両親が残した借金でしたっけ?残りはあといくらですか?」

「え…?」

どうして知ってるんだろう。…会社の人にそんな話をした覚えはないし、ごく限られた人しか知らないはず。

つい、不審な目を向けてしまった。


「え、と…関係ありますか?」

「は?」

「いえあの…私の借金の額なんて…裕也専務には、関係ないと思うのですが…私は秘書課の、なんでもない社員なんですけど…」


詳しい話は人事部長に呼ばれてからするんじゃないんだろうか…

どうしてこんなドレスを着たきらびやかな場所で、お酒を飲ませながら詳しく話さなければならないのか。


「なんでもない社員にしては綺麗ですよ?…そのドレスも、白いレースから白い肌が透けて見えて、男の妄想を掻き立てます」

「…は?」

「ミディアムドレスっていうのもいいですね。年齢相応の可愛らしさも演出できています」

「いえ…裕也専務、私は、」

「私の名前を知っているのですか?入社式で聞いたのが最後でしょうに」

「あの、こんな場所ではなく、ちゃんと人事部に…」

人事部に行って、お叱りを受けて来ます、と言いたかった。

言葉を切ったのは、専務の煽るような不気味な笑顔が、一瞬本物の笑顔になった気がしたから。

それなのに、次に言われたひとことに仰天した。