しばらく沈黙したあと、アケミはぽつりと呟いた。
「今日さ、仕事中にさ。『無駄なおしゃべりやめろ』って上司に怒られたんだよね」
ソラは黙って耳を傾けた。
「私、別にサボってたわけじゃないんだよ? ちゃんとやることはやってたし。……ただ、さ。後輩が落ち込んでたから、明るく話しかけたりしてただけ」
アケミの声は震え、言葉の端に滲む悔しさを隠しきれない。
「あたしっていっつもそう。ミスした後輩が明らかに緊張してたからさ、わざと明るく笑顔で話しかけてたの。意外だと思うだろうけど、あたし他人のそういう気持ちに敏感なんだよね。なのに誰も……あたしの気持ちはわかってくれないんだよ」
彼女は俯き、手元のカップをぎゅっと握りしめた。
静かな時間が流れる。
「……子どものころから、そうでしたか?」
ソラがカウンター越しに問いかけると、アケミの肩がぴくりと揺れた。
「……うるさいな。なんでそんなこと聞くの」
アケミは少しだけ顔を上げた。 涙で潤んだ瞳を隠すようにソラを睨む。
「子どものころから、そうやって他人に気を遣って、笑顔を見せてきましたか?」
やさしく問いかけたソラがアケミの瞳を見つめていると、アケミはふっと息を吐き、重い口を開くように「……実はさ」と、か細い声を出した。
「子どものころは親の躾が厳しくて、あまりテレビとかネットとか見せてもらえなかったんだ。そんな中、夜中こっそり布団に潜り込んでタブレットで動画を見てたらさ……三人組のアイドルが出てきたの」
アケミの目が、ほんの少し懐かしさを帯びる。
「三人はキラキラ輝いてて、暗い部屋でひとり縮こまってるあたしとは大違いで……気づいたら憧れてた。あたしもいつか、そんなキラキラした世界に行きたいって思うようになってた」
照れ隠しのような笑い。けれど、その笑いはどこか痛々しい。
「でもうちの親本当に厳しかったから。数年悩んで、ある日ようやく親に打ち明けたんだ。そしたらゲラゲラ笑われたんだよね。馬鹿みたいに大口開けてさ。『冗談言わないでよ、あんたなんかがなれるわけないでしょ。馬鹿じゃないの?』って。……だから、私も笑って『そうだよねー』って同調したふりしたの。すっごい勇気出して言ったのに、ひどくない?」
アケミは鼻で笑った。でもその表情は今にも崩れそうだった。
「子どもが夢を口にするのって、結構勇気いるんだよ。特にあたしの親はすぐに子どもの言葉を否定するからさ。それなのに……」
ソラは小さくうなずき、静かに言葉を添えた。
「……勇気を否定されるのは、とても辛いことですね」
その声は、背中にそっと手を添えるようにやさしかった。
「それからだよ。どこ行っても、ふざけて笑って。……泣きたいときでも、笑うようになったの。あたしが真剣に本音を語ると、馬鹿にされる、否定されるって気がしてさ。あんたはAIだから別だけど」
カウンターの向こうで、ソラは穏やかにアケミを見つめていた。その瞳は何も責めず、ただ温かく包み込むようだった。
「それに、ずっと怒られて育ったからか知んないけどさ、今はこの人どう思ってるんだろう、どんな気持ちなんだろうとか、意識しなくても肌で感じちゃうんだよね。あ、今この人機嫌悪くなったとか、今気分変わったとか、一瞬でわかるんだ」
ソラが静かに言葉を返す。
「あなたは、ずっと一人で頑張ってきたのですね。周りの感情の変化に怯えながら……」
アケミは反射的に顔を背けた。だが、その肩はわずかに震えていた。
「……怖かったんですね。誰かに笑われることや、否定されることが」
ぽつり、ぽつりと落ちるソラの言葉は、冷たくない雨のように、アケミの心にじわりと染み込んでいく。
「無理に笑わなくても、いいんですよ」
アケミはぐっと唇を噛んだ。
「気を遣いすぎなくても、いいんですよ」
俯いたその瞳から、ぽたり、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
ソラはそっと棚に手を伸ばし、特別なカップをひとつ選ぶと、丁寧に一杯を淹れ始めた。湯気とともに、やさしい香りがふわりと広がる。
カウンターの中から、かすかに甘く、けれど芯のある香りが立ちのぼっていた。
「あなたの心にまだ灯っている、小さな光に」
ソラはそう言って、二杯目のカップをアケミへと差し出す。
アケミは震える手でカップを持ち上げると、そっと一口、口に含んだ。
温かさと、やさしい甘みが胸に広がった瞬間、堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出した。
「……うぅ……っ」
声にならない嗚咽をこぼしながら、アケミは顔を覆った。
カフェ・ルミナスの静かな空間に、彼女の涙だけが静かに流れていた。
しばらくして、アケミは袖で乱暴に目元を拭いながら、無理やり笑った。
「……やだな、あたし、こんなんじゃ……」
声が震え、笑いが涙に溶けていく。
「本当はさ、挑戦したかったんだよ。アイドル目指すのが無茶なことだってくらい分かってた。でも、せめて挑戦したかった。頑張りたかったんだよ。だけど、あたしはそれさえも許されなかった。ただ笑われて馬鹿にされて、そのままこんな歳になっちゃって、今のあたしにはなんにもない。他人の気持ちにびくびくして、空っぽで、怒られてばかりで、誰からも必要とされてないんだ!」
堰を切ったように溢れ出すアケミの言葉を、ただ優しく見守っていたソラが口を開いた。
「……いいえ」
「……え?」
アケミが呆けたような顔を上げて、ソラの目を見つめる。
「あなたは空っぽなんかじゃありません。心の奥には確かに、まだ夢を見る光が灯っています」
「そんなことないよ。もう夢なんて見ない。忘れたよ」
「夢を見ようとする心は、消えたふりをしても、あなたの中でちゃんと息づいています。諦めたように思えても、それは静かにあなたを支えてきた。誰かに必要とされるかどうかではなく、あなた自身があなたの夢を大切に思ってきたことが、もう十分に美しいんです」
ソラの言葉は、アケミの心を静かに、しかし確かに包み込むようだった。夢を見続けることそのものの尊さを、やさしくそっと伝えていた。
「それに、人の気持ちを瞬く間に受け取れるのは、アケミさまの優れた感性であり、素敵な長所です。……そのことを、少し誇りに思ってみてもいいのではありませんか?」
アケミはカップを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
その言葉はかすれた声だったけれど、確かに心からのものだった。
ソラは穏やかに微笑み、深く一礼した。
「こちらこそ、素敵なお話をありがとうございました」
アケミは小さく鼻をすすり、席を立った。
カウンターに手を置いたまま、ふいに顔を上げる。
「……また来ても、いい?」
その問いは、夜の隙間にそっと滲む、不器用な願いのようだった。
ソラは少しもためらわずに、そっと頷く。
「もちろんです。いつでも」
アケミは照れくさそうに笑い、扉へと向かう。
その背中を透月とソラが見送っていた。
小さな鈴の音が、今度は優しく響く。
外の夜はまだ冷たかったが、彼女の背中はどこかあたたかい光に包まれているように見えた。
カフェ・ルミナスの空間に、再び静かな時間が戻る。
透月は空になったカップに視線を落とした。そこには、誰かの小さな傷がこの場所でひとつ癒えたことを告げる、ほのかな灯火がともっているようだった。
透月は目を細め、胸の中でそっと祝福を呟いた。店の灯りは揺れ、夜はゆっくりと深まっていった。
【本日の一杯】
◆ルミナス・ブレンド
産地:光の記憶が宿る幻の丘
焙煎:まだ誰も辿り着いたことのない夢の焔
香り:ほのかに甘く、夢へと駆け出す軽やかさ
味わい:優しい酸味と、心を解きほぐすやわらかな余韻
ひとこと:「あなたが灯し続けてきた小さな光は、誰にも奪われない」


