記憶と夢の珈琲店 -A.I cafe Luminous-


 高校三年の冬の光はどこか寂しげで、でも優しい。窓から差し込む午後の日差しは、肌をなでるように柔らかかった。

 まだ寒さの残る放課後、桜良(さくら)は窓際の席で頬杖をついていた。手元のノートには共通テスト対策のまとめが中途半端に書き込まれているが、視線はその向こうにある、淡く陽に霞んだ校庭へと向けられていた。

 春がもうすぐそこまで来ている。新しい季節が訪れるたびに何かが終わってしまう気がして、胸が締めつけられる。

 まさか彼と一緒に受験するはずだった大学を一人で目指すことになるなんて、夏までのわたしは想像もしていなかった。だけど、決まったことは仕方ない。

 いつからか重ならなくなった足音は、今のわたしにはどうすることもできないのだから……。

「桜良」

 ふいに教室のドアが開いて、修星(しゅうせい)が顔をのぞかせた。柔らかく乱れた髪と、少し気だるげな制服の襟元。大切な恋人なのに、最近では彼の姿を見るだけで胸の奥がきゅっとなる。

「修星……まだ、いたんだ」

「うん、図書室で写真の資料探してた。ちょっと話せる?」

「……うん」

 手にしていたシャーペンをそっと置き、桜良は小さく頷いた。

 人の少ない中庭のベンチにふたり並んで座るのは、もう何度目になるだろう。あたたかいココアの缶を手渡され、桜良はふわりと息を吐いた。自由登校が始まってからひときわ静けさの増したこの空間は、不思議と郷愁を誘う。

「……なにか、あったの?」

 桜良の言葉に修星は答えを探すように俯いた。その表情が、桜良にとってよくない話を予感させる。

「実はさ、卒業したら東京じゃなくて……もっと、遠くに行くことになるかもしれないんだ」

 風が校舎をすり抜け、枯葉をひとつ、ベンチの下に転がしていく。

「遠くって、どこ?」

「……海外。ニューヨークなんだけど」

「それは……遠いね」

 桜良は自嘲気味な笑みを浮かべ、そう答えた。

「写真学の勉強しながら、助手としてもしばらくそっちでやってみないかって」

 その言葉を聞いた瞬間、音のない世界に投げ出されたような気がした。

 遠くで響く部活のかけ声も、誰かの笑い声も、すべてが別の世界の出来事のようだ。

「……そう。すごいね」

 ようやく絞り出したその声が、自分のものとは思えなかった。

「まさかこんなことになるなんて思ってなかったけど……夢だったからさ」

 修星の真剣な眼差しは、どこか遠くの光を見ているようだった。そしてその表情が、今にも手の届かない場所へ行ってしまいそうで、怖かった。

「コンクールの作品、すごくよかったもん。自信持って行ってきなよ」

 それ以上の言葉が出てこない。本当はもっといろんなことを聞きたかったし、伝えたかった。

 いつから決まってたの? どうして相談してくれなかったの? わたしのこと、どう思ってるの?

 ──ねぇ、わたしはあなたと、離れたくないんだよ。

 でも、それは心の中でしか言えない。

「桜良」

 その名前を呼ばれただけで、どうしてこんなにも泣きたくなるんだろう。

「俺、ちゃんと夢を叶えて帰ってくるから」

「……うん」

「だから、待ってて」

「……うん」

 笑顔で答えたつもりだった。

 でも唇の端が少しだけ震えていたことに、彼は気づいていただろうか。

 高校生活と共に、終わりの予感が近づいてくる。

 ◇

 わたし達の始まりは、たった一言だった。あれからもうすぐ三年が経とうとしている。あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。

 高校一年の春。新しい制服にまだ慣れず、緊張でぎこちなく校内を歩いていた頃。数学係だった桜良はクラス全員のノートを職員室へ運ぶという、地味でちょっとした苦行をひとりでこなしていた。

 両手に抱えきれないほどのノート。バランスを崩しそうになったそのとき、目の前にすっと差し出された手。

「持つよ、半分」

 ふいに声をかけてきたのが修星だった。思わず驚いて顔を上げると、笑顔の彼が目の前に立っていた。

「危ないって。さすがに重たそうじゃん」

 わたしはそのとき、ちゃんと顔も見られなかった。だけどその声だけははっきりと覚えている。低すぎず、でもどこか自信のあるまっすぐな声だった。

「え、あ、うん……ありがとう」

 不器用に差し出したノートの束を、彼は自然な動作で受け取ってくれた。照れ隠しに俯いたわたしの横で、彼はなんでもないように歩き出した。

 ──新しいなにかを期待していた高校生活。なんとなくだけど、たった今それが始まった気がする。そう思った理由はわからないまま、その予感はふっと消えた。

 修星はその日から時々声をかけてくるようになった。

 廊下ですれ違ったとき。授業でペアを組むとき。部活までのわずかな時間。どれも自然で、照れくさくて、それでいて嬉しかった。修星の声を聞くたびに、心がふわりと宙に浮かぶようだった。

 そうして季節は少しずつ移ろい、雨の多い日が続くようになった頃のこと。
 放課後、傘を忘れて昇降口で立ち尽くしていると、修星が走ってきた。

「ほら、入れよ」

「えっ、あ、ありがとう……」

 肩が濡れるのも構わず、彼は傘を差し出してくれた。ふたりで小さな傘に入りながら歩いたその時間が、なんだか夢みたいだった。

「梅雨なんだから、ちゃんと天気予報見なよ」

「うん……」

 彼の声が耳元に近くて、鼓動が早くなった。

「桜良ってさ、かわいいよな」

「えっ?」

 傘の中で彼がそんなことを呟いて、思わず心臓がどきんと跳ねた。

「いや……その、桜良って名前。俺、桜の花って好きなんだ。だから……さ」

 なんだ、名前の話だったのか。それを聞いて、見えないようにため息を吐く。でも勘違いとはいえ、家に帰っても顔が熱くて、その日の夜はなかなか眠れなかった。

 それからの日々は、真っ白なキャンバスが徐々に完成していくように、少しずつ心が色づいていくのを感じていた。

 どんなときも、廊下ですれ違えば目が合うようになった。休み時間、何気なく同じ話題で笑い合うようになった。ある日、ふたりきりで帰ることになった放課後、近くの河川敷を歩きながらどうでもいい話をして、笑って、沈黙して、また笑った。

 夏休みはお互い部活が忙しくてあまり会えなかった。なにかを勝手に期待していたおかげで、わたしには彼の気持ちが分からなくなった。けれど、風が冷たくなり始めた頃、彼の手とわたしの手がふとした拍子に重なった。

 わたしはすぐに目を逸らしたけれど、心に芽生えた感情はもう誤魔化せないほどに大きくなっていた。

 ──あのときの予感は、恋だった。

「……寒くない?」

「ううん、大丈夫」

 そう返事した声は、ほんの少しだけ高くなっていただろう。空はやわらかな夕焼けで染まっていた。

 ふたりで放課後のファストフード店に入ったとき、ドリンクを注文しようと列に並んでいたときも、指先にそっと彼の手が触れた。

 あの日の帰り道、彼が不器用に伝えてくれた言葉。

 ……それが、ふたりの恋の始まりだった。