木の扉を押すと、からん——と小さな鈴が鳴った。
静かな午後だった。店内には柔らかな音楽とコーヒー豆の香ばしい香りが漂っている。沙耶は久しぶりに〈カフェ・ルミナス〉を訪れ、カウンター席に腰を下ろした。
「おかえりなさいませ、沙耶さま」
カウンターの奥で微笑むソラは、変わらぬ落ち着きを湛えていた。
「ただいま……って感じですね」
沙耶は照れたように笑うと、メニューを見ずに口を開いた。
「またミルクティー・ノスタルジアをお願いしてもいいですか?」
「かしこまりました。あの日と同じ一杯を」
ソラは静かに茶葉を量り、慎重に湯を注ぎ始めた。
「そして新たな第一歩、おめでとうございます」
「……え?」
「前回お帰りになる際、『少しだけ、歩いてみようと思う』と仰っていました。だから今日いらしたのは、その“一歩”を踏み出した小さなお祝いなのでは、と私なりに思いました」
「……覚えててくれたんですね。嬉しいです」
沙耶はふと視線を落とす。あのときの迷いがすでに遠い記憶のように思えた。
「実は就職が決まって。まだ研修中だけど、ようやくスタートラインって感じです」
「その一歩が、きっと未来へつながっていくはずです」
カップに注がれた淡い紅茶色のミルクティー。その湯気が、ほんの少しだけ過去の匂いを運んできた。
ひと口、ふた口と飲み進めるうちに、沙耶の表情はやわらいでいく。
そのときだった。
「……でさ、両親とも相談したんだけど、もう猫なんて飼ってられないって話になって」
「そりゃそうさ。物価上がる一方で給料は上がってねえのに、エサ代とか無理だろ」
「うん、だからさ、あの子は今朝野に帰した。自由になったと思えば、ね?」
「ま、仕方ねえよな」
奥のテーブル席。若い男女の会話が何気ない調子で続いている。
そして、その会話をふと聞いていた沙耶の手が止まった。瞳がほんの一瞬だけ震える。
「……野に帰した、って。まさか」
彼女はそっと振り返ると、席を立ち、静かにそのテーブルに近づいた。
「……あの、思い違いだったらすみません。もしかして、飼い猫を捨てたんですか?」
唐突な問いかけに、女性のほうが顔を上げた。戸惑い、そして眉をひそめる。
「は? なに急に。うちにも事情があるんですけど? ていうか捨てたとかいう言い方しないで。野生に戻したのよ」
「もちろん事情はあると思います。それでも……どうして、そんなこと」
沙耶の声がかすかに震える。
「それってただ捨てただけじゃないですか。無責任ですよ!」
その言葉に男のほうが椅子を鳴らして立ち上がる。
「じゃあ、あんたが飼ってくれるのかよ! こいつは生活がギリギリなんだ。綺麗事だけでペットが飼えるか! 保健所に渡さなかっただけマシだろ!」
周囲の空気が一気に張り詰めた。
その様子をカウンターの端にいた男がじっと見つめていた。彼の名は透月。物静かな常連客であり、この店をよく知る人物だ。
(やれやれ……また難しい話が始まったな)
彼はコーヒーをひと口啜りながらそっと観察する。彼女の怒りは正しい——だが、正しさだけでは人は動かせない。
ソラが静かにカウンターを離れ、歩み出る。
「お客様。少しだけ、お声のトーンを落としていただけますか? ここは心を休める場所でありたいのです」
穏やかながらも芯のある声。その場の空気がわずかに緩んだようにも思えた。
だが逆上した男は止まらない。
「は? なんだよあんたも! 文句言ってきたのはこいつだろ? こっちは好きでこんなことしてんじゃねえんだよ!」
まくし立てる言葉。矛先が沙耶にも、ソラにも向けられていく。
「余裕ある奴らが口出しすんなよ。お前らに何がわかるってんだ! 言うだけならなんとでも言えるだろ! それこそ無責任じゃねえかよ!」
そのとき、透月が立ち上がった。
「……申し訳ありませんが、その辺でお言葉をお控えいただけますか」
低く、しかし静かで通る声だった。
「あなたの苛立ちは理解できます。ですが、ここは珈琲店。誰かを責める場所ではありません。どうか、それだけは忘れないでいただきたい」
男は舌打ちしつつも、声の調子をわずかに落とす。
沈黙が漂う中、ソラが静かに距離を詰めた。
「……その猫、もともとは野良だったのでしょうか?」
不意を突かれたように女性が目を丸くする。
「え……ああ、そう。近所にいた子猫で、何度も玄関先に来て座ってて……それで家に入れてあげたんだけど」
「優しいですね」
ソラの言葉に女性は一瞬だけ目を伏せた。
「でもやっぱり無理だった。エサ代も、トイレの世話も、病院代も、私の給料じゃどうにもならなくて……。だから、野に帰した。それだけです」
沙耶が一切の迷いも見せずに前へ出る。
「その子、どこに置いてきたんですか?」
女性は顔を上げた。沙耶の真っ直ぐな視線に言葉を失う。男がチッと舌打ちをした。沈黙の後、女性は小さく口を開いた。
「……駅裏の、大きな公園。人もよくとおるし、草むらも多いから……大丈夫だと思って」
沙耶はその言葉を聞くなり、すっと踵を返した。
「……行ってきます」
椅子に置いたバッグを手に、躊躇いなく扉に向かう。
「おひとりで向かわれるのは、少し心配ですね」
ソラがそう言って、透月に目を向ける。
「わかりました。少し付き合ってきてもいいですか?」
ソラは微笑んで頷いた。
「ええ、お願いします。きっと、心強いはずです」
透月は沙耶の背を追うように歩き出した。扉が開き、からん、とまた小さな鈴の音が鳴った。


