ソラは小さなポットから、青紫色に輝く液体をゆっくりと注いだ。
 澄んだ青の中に、湯気とともにほんのりラベンダーの香りが立ちのぼる。

「プレリュード・ブルーです。静かな夜明けの始まりに寄り添う一杯です」

 花音はその色を見つめたまましばらく動けなかった。ほんのりと青みがかったその液体は、夜の空気を溶かし込んだように静かで、かすかに光を宿していた。

「──これは、ハーブティー?」

「はい。 バタフライピーとラベンダー、そしてほんの少しのレモングラスをブレンドした、温かなハーブティーです」

 花音はゆっくりとカップに手を伸ばした。

「レモンを落としてみてください。花音さまの夜明けが映し出されます」

「……え?」

 花音は戸惑いながらも添えられたレモンをカップに落とす。すると、かすかにハーブティーの色が揺れ、瞬く間に紫がかったグラデーションに変わっていく。

 カップを手に取ると、表面の淡い光が波紋のように広がっていった。

 ひと口、そっと口元へ運ぶ。

 やわらかな甘み。けれど甘ったるくはなく、かすかな酸味が後から追いかけてくる。その奥にごく淡い苦み。音に例えるなら、ピアノの白鍵が優しく響いたあと、二オクターブ下の低音がふと現れるような──そんな、深くて静かな味だった。

 カップを置いた指先が、ほんの少し震えていた。

「……きれいな味がします」

 それは言葉というより、こぼれ落ちた想いだった。

 ソラはやさしく頷いた。

「あなたの心の中で、まだ終わっていない前奏曲(プレリュード)。きっと、もう一度奏でることができると信じています」

 花音は少し考えてから、静かに口を開いた。

「昔作った曲の中に、こんな雰囲気の旋律があった気がします。青紫色の朝焼けを思いながら書いた曲で……」

「それは、きっと今も、花音さまの中に残っています」

「……そう、かもしれません」

 そのときアケミがくるりと椅子を回転させ、思い出したように言った。

「そういえばさ、あのピアノってまだここにあるよね?」

 花音が驚いたように目を向ける。

「ピアノ……ですか?」

 ソラが頷いた。

「アケミさんが以前、ご友人から譲り受けた箱型のピアノです。置き場がないとのことで、今は店の奥に仮置きしています」

「高いやつなのにタダでもらえるって聞いたから思わずもらっちゃったのよ。だけど今の家じゃ置けなくてさ。ここの常連の透月ってお人好しに頼んで、運んでもらったんだ」

 そう言いながら、わざと軽い調子でアケミは笑ってみせた。

 花音は視線を落としたまましばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「……少しだけ、触ってみてもいいですか?」

 ソラとアケミはそっと頷いた。

「もちろん。無理をしなくてもいいんです。でも、音があなたを迎えてくれるなら──いつでも、どうぞ」

 ソラに案内されるまま、花音はカウンターの奥へと続く小さな扉をくぐった。
 そこはもともとは倉庫として使われていたらしい狭い部屋で、今は照明も控えめに灯され、ひっそりと落ち着いた空気が漂っていた。

 部屋の片隅にひとつのピアノが静かに佇んでいた。箱型のアップライト。古びた木目の艶がどこか懐かしさを感じさせる。

 花音はその前に立ち、少しだけ息を整えてから、そっと鍵盤のふたを開けた。赤いキーカバーをめくると、白と黒の鍵がまるで何年ぶりかの再会を待っていたかのように彼女を迎えた。

 手を伸ばす。指先が震える。けれど、音は拒まなかった。

 最初の音はとても小さかった。空気を探るような弱々しいタッチ。だが、それは間違いなく彼女の中から出た音だった。

 静かな部屋に、旋律がひとつ、またひとつと積み重なっていく。それはかつて彼女が自分だけのために書いた曲。青い朝の光、静かな風、新緑の匂い、夢を信じていたあの頃の心──そのすべてが音になってよみがえってきた。

 花音の瞳に涙が浮かぶ。でもそれは苦しみからではなかった。離れゆく自分をなんとか取り戻せた気がした。

 扉の外ではソラとアケミが静かにその音に耳を傾けていた。ふたりとも言葉は交わさなかった。ただピアノの音だけが──過去と今と、これからをつないでいく。

 やがて最後の音が空気の中に溶けていった。花音は鍵盤の上に手を置いたまま、そっと目を閉じる。

 静寂が戻る。でもそれはかつて感じた空っぽな静けさとは違っていた。どこか温かい余韻が残っていた。

 扉がそっと開く気配がした。アケミが花音を覗き込む。

「花音……あんたさ、やっぱり音楽やめられないよ」

 花音は目を開け微笑んだ。

「……かもしれません」

 アケミは満足そうに頷き、ぽんと花音の背中を軽く叩いた。

「じゃあ、ちゃんと自分のために使いなよ。お金も、時間も、体も、心も。過去を背負うより、未来を信じたほうが楽になることだってあるんだから」

 花音はその言葉を胸に抱きながら、ゆっくりと立ち上がった。扉の外に出ると、ソラが灯のような微笑みで迎えてくれた。

「おかえりなさい」

 その言葉に胸が少しだけ熱くなった。

「……ありがとうございました」

 カフェ・ルミナスを出る頃、夜の空気はすこし和らいでいた。空を見上げると、雲の切れ間から小さな星がのぞいている。

 歩き出す足取りは、来たときよりも少しだけ軽かった。

 心のどこかで、またあのピアノに会いに来たいと思っていた。彼女が作ってくれた前奏曲の続きを──いつか奏でるために。

 “プレリュード・ブルー”。途切れた夢の、その先へと続く音。

 迷いも、痛みも、ためらいもすべて抱えたままで、それでも鳴らすことができる静かな始まりの音色だった。

 あの一杯は過去を忘れるためではなく、過去と手を取り合うためのものだったのだと、今なら少しだけわかる気がした。


【本日の一杯】

◆プレリュード・ブルー

産地:月の光が差し込む高原の、夜明け前にしか咲かない「蒼の草原」で育まれた青い花々。バタフライピーの花に、星影のラベンダーと夢草のレモングラスを重ねて

製法:露が残るうちに摘まれた花を、夜風の音とともに低温乾燥。熱を加えすぎず、やさしく蒸らすことで青い光をそのまま閉じ込めている

香り:初めは青い草花の清涼感。その奥から、ラベンダーの静かな甘さが、まるで夜の帳のように広がっていく

味わい:澄んだ口あたりに、ほのかな甘みと柔らかな酸味。ほんのり漂うレモングラスが、揺らいだ心にそっと風を通してくれるよう

ひとこと:「間違えても、遠回りしてもいいんです。まだ始まっていないだけ――それはきっと、始まりの音を待つ、静かな前奏曲(プレリュード)